0系新幹線

新幹線0系電車(しんかんせん0けいでんしゃ)は、1964年の東海道新幹線開業時に開発された初代の新幹線電車である。

2008年11月30日に定期運用を離脱し、同年12月14日の臨時列車(さよなら運転)で旅客営業運転を、同日車両故障に備えて博多総合車両所岡山支所に待機していた予備編成の回送を以て全ての業務運転を終了した。

0系新幹線の概要

史上初高速鉄道専用車両として1964年から1986年までの38次にわたり、東海道・山陽新幹線用の初代車両として改良を重ねつつ、合計3,216両が製造された。先頭車は224両ずつ製造。ただし途中で老朽化した0系を0系新製車で置き換える方針に変わったため、3,216両が同時に揃ったことはなく、在籍両数の最大値は1976年の2,338両(うち2両は保留車)である。

航空機(特に旅客機)に範をとった丸みのある先頭形状と、青・白塗り分けのスマートかつ愛嬌のある外観を備える。初期の新幹線のイメージを確立した車両であり、戦後日本の高度成長時代を象徴する存在として、人々から長く親しまれた。1980年(昭和55年)頃までの書籍などでは「旅客機を思わせる先頭部」という書き出しで紹介されることが多かった。

第8回(1965年)鉄道友の会ブルーリボン賞受賞車でもあり、日本の鉄道における史上最高の名車と評する鉄道ファンも少なくない。

2007年8月にはYS-11などとともに機械遺産として認定された。

2000年代に入った時点で既に大半が廃車されており、2008年時点では山陽新幹線区間のみの運転だったが、同年11月30日の岡山駅14:51発博多行の「こだま」号を最後に定期営業を終了した。2008年12月6日・13日・14日に新大阪?博多間にて「ひかり号」として「0系さよなら運転」が行われ、その後は全車が廃車され、車種としては廃止される。。歴史的価値が高く、映画・ドラマ撮影等で多く使われる人気車両である。

2001年にはイギリス・ヨーク国立鉄道博物館先頭車1両(22-141)が西日本旅客鉄道(JR西日本)によって寄贈されている。これ以外には、建築限界測定車として改造を受けた車両(21-5035)が台湾(中華民国)へ渡った。

なお、「0系」と呼ばれるようになったのは東北・上越新幹線用の200系が落成した1980年頃からのことで、1970年代以前は単に「新幹線電車」(しんかんせんでんしゃ)と呼ばれていた。文献によっては「000系」と呼称していたこともある。

0系新幹線の車両構造

未経験の新技術は使わず、それまでに日本の鉄道が蓄積した、実証済みの技術(プローブン・テクニック)の集積によって開発された。きわめて堅実な設計である。

大方の基本設計は変わらなかったものの、製造期間が約23年・38次の長期にわたったことから、マイナーチェンジは何度も行われている。

0系新幹線の車体外観

先頭車(21形) 光前頭

全長25m全幅約3.4mと大型の流線型車体である。在来線車両より5m長く、50cm以上(151系に対しても約43cm)広い。客室床面高さも1,300mmと高い。材質は普通鋼を使用し、1両あたりの総重量64tに達した。

そのデザインは、空力特性を考慮して形状を決定された。設計に携わった国鉄技術者で、かつて旧・日本海軍の技術将校でもあった三木忠直は、日本海軍の双発爆撃機「銀河」をデザインモチーフにしたと証言している。

先頭車前面には「ひかり前頭装置」と呼ばれる丸いプラスチックカバーを装着している。この中には非常用連結器が納められている。開発当初、このカバーは半透明アクリル樹脂製で、前灯を光源にして光る構造となっていた。後に走行中の鳥との接触で破損することから、不透明の丈夫なFRPに変更され、光前頭としての機能は失われた。前灯と尾灯は同一のライトであり、尾灯として使用する場合は赤いスクリーンを通して点灯させる仕組みである。前期車バタフライスクリーン後期車半円形スクリーンである。

先頭車床下には、障害物を跳ね除けることのできる排障器を設けている。鋼板を多重にしたこの「スカート」部分は、少々の岩なら軽く跳ね除ける。高速運転時の脱線を警戒したものである。

先頭車屋上には、今や新幹線のトレードマークともなった、架線に電気が流れているかを検知する逆L字型の薄い板である「静電アンテナ」が装備されている。新幹線開業前の試作車1000形のものとは大きく異なっている。設置位置の変化はあるものの、この0系で採用された静電アンテナの形状は、N700系に至るまでほとんど変わっていない。

最初期の車両は行先票が取り付けられていたが、高速走行中の脱落の可能性や列車本数の増加による煩雑さ、盗難が相次いだこともあって早期に使用を取りやめ、博多開業時から現行の電動幕式へ変更された。

0系新幹線の塗装について

オリジナルの塗装は、車体がアイボリーホワイト、窓周りがブルーの塗り分けだった。この青色塗装は、新幹線ブルーともいわれる。配色は、航空機ライバルとして意識し、青空と白い雲のイメージから採用されたものである。星晃へのインタビューによると塗色はパンアメリカン航空の旅客機の塗装と煙草のハイライトパッケージを意識したものだという。1988年頃から後述の「ウエストひかり」は100系の地色と同じパールホワイトに変更となり、それ以外の車両も1995年頃からパールホワイトに変更された。オリジナルの塗装にも2バージョンあり、通常バージョンは上にある21形の塗装、「ウエストひかり」バージョンは100系の塗装のように太いラインの下に細いラインがあるという塗装である。

その後の塗装の変遷については「R・WR編成、Q編成」および「今後」の節で詳述する。

0系新幹線の設備

グリーン車(1969年まで一等車)のうち15形は博多寄り車端の1か所に、食堂(ビュフェ合造車のうち35形は車体中央部東京寄り車端の2か所に、これ以外の形式(36形を除く)は各車両端の2か所に客用扉・デッキを設けた。なお全室食堂車として製造された36形には東京寄り車端にデッキがあり、海側には客用扉と同様な扉を持つが、業務用扉であり、乗客の乗降には供されない。

全車両ヒートポンプ式の空調装置を備えている。車内の気圧変動防止のため、固定式の窓はもとより、ドアまでが気密構造となっており、トンネル内では車外との換気を遮断して気圧変動に備えている。しかし山陽新幹線ではトンネルが多く、換気を遮断する回数が多くなることから、岡山駅以西では連続換気方式が採用されることとなった。1973年以降に製造された車両はこの新換気方式に対応しているが、それ以前の車両は当時の「ひかり」編成にのみこの対策がなされることとなった。後に編成組み換えでS編成やY編成が組成された際に、非対応車が入っている編成(岡山以西乗り入れ不可)は原編成番号+50で識別していた。

開通当初より製造された基本番台車両は側窓が座席2列で1個の広窓だったが、1976年以降増備された1000番台車より石跳ね等による窓ガラスの損傷を警戒し、300系以降の車両と同様に座席1列に1窓という狭窓となった。そして1981年より増備が開始された2000番台は、座席間隔シートピッチ)の拡大(普通車940mm980mm)に伴い、僅かながら窓の横幅も広げられた。なお、2000番台車では製作の簡略化のため、車内の窓周辺部FRPユニットとなり、窓下のかまちと呼ばれるスペースが廃止された。このかまちは小物(飲み物の容器等)を置いたり、窓の外を見るときにひじをつく場所等として利用されていたため、利用者には不評だった。

初期に落成した車両から1000番台までは車体の側面に非常口が設けられていたが、車体の腐食を防ぐ意味と、新幹線のシステム全体における高い安全性もあって、のちに埋められている。この埋め方は、JR東海所属車は蓋を除去して新たに板をハメ合わせて溶接、平滑にしたのに対し、JR西日本所属車は非常扉そのものを溶接しただけだった。また2000番台からは落成時より非常口を設けていない。

新幹線0系の座席

便所は2両に1箇所(奇数号車東京寄り)に設置されており、原則として大便所2箇所と小便所1箇所、洗面所2箇所という構成である。大便器は基本的に和式だったが、1等車(グリーン車)の15形と25形200番台(乗務員室付)の大便所1箇所は洋式便器とした。その後、洋風便器食堂車に隣接する27形(食堂従業員用)や、35形に代わって製造されたビュフェ合造車車椅子対応とした37形の車椅子対応便所にも設置された。

0系新幹線の座席構造

普通車(1969年まで二等車)の座席は、海側を3列とした合計横5列配置輸送力重視型である。開業以前に二等車(現・普通車)はシルバークラス、一等車(現・グリーン車)はゴールドクラスとする案があったため、モケットはそれに合わせた配色となった。

当初普通車はその銀色のモケットと青色のモケットを張った転換式座席(W-12、W-70)だったが、1981年以降のタイプ(2000番台)は東北新幹線200系とほぼ同様のオレンジ基調フリーストップタイプ・回転式簡易リクライニングシート(D-23、D-32)に変更、交換された。3列側は回転させるスペースがないため、一方向固定(集団見合型との比較アンケートの結果、集団離反型を採用)とされた。残存する在来車も順次同仕様に交換されたが、JR化後も廃車されるまで転換式のままだった車両もある。この転換式座席と同じ色のモケット在来線車両優先座席に使われたことが「シルバーシート」の名称の由来である。また、交換後転換式座席は、キハ31形など在来線車両再利用される例も多かった。

東海旅客鉄道(JR東海)の「こだま」用Y編成とYK編成の指定席車(9 - 12号車)、西日本旅客鉄道(JR西日本)のSK編成「ウエストひかり」(2008年時点では6両編成のR編成60番台)の普通車は左右2列ずつの4列となっていた。

グリーン車(1969年までは一等車)はゴールデンオリーブ色のモケットを張った4列配置リクライニングシート (R-25) で、車両の大きさを最大限に活かしたゆとりを持っていた。しかし1981年以降の車両は200系と同等のシートの色がワインレッド (R-32) のものに変わっている。

ビュフェ車(37形) 食堂車(36形) 電話室 化粧室

0系新幹線のビュフェ車・食堂車

ビュフェは開業時から存在し、岡山開業時までに製造された車両(35形)にはいすが設けられていたが、第22次車以降の増備車両(37形)では立食式に変更された。開業時は全編成とも2両組み込まれていたが、日本万国博覧会(大阪万博)輸送を控えた1969年夏頃より輸送力増強を目的として、「こだま」用編成の5号車を売店車(25形400番台)に差し換え、以降「こだま」用編成ビュフェ1両が正規となった。ただしこだま用全編成の組み換えまでには至らず、1973年8月から1980年9月までのこだま用K編成47本体制下において、17本がビュフェ2両組み込み(ただし1両は売店扱い)のまま残った。

博多開業以降、「ひかり」用として使われたH編成とNH編成には食堂車(36形)が設けられていた。食堂車については山側に独立した通路を設け、通り抜ける乗客と食堂車利用者の分離を図っている。当初は通り抜ける客に食事をする風景を見られないように、食堂と通路を隔てる壁に窓を設けていなかったが、利用客から「食事しながら富士山を見られないではないか」というクレームが多かったことを受け、1979年以降、通路側壁面に窓(通称:マウント富士)を設置する改造が施工された。

1995年1月17日に阪神・淡路大震災が発生し、姫路 - 新大阪間は高架橋の落橋や橋脚の損傷のため運休していた。この時に博多 - 姫路間の運用に充当されていた本系列食堂車営業休止となり、そのまま再開されることなく営業を終了した。

民営化以降、JR西日本はサービス改善のため「ウエストひかり」編成にビュフェを改装した車両を連結した。ビュフェカウンター横のスペースを拡大してテーブルと椅子を設け、座席に持ち帰ることなくそのまま座って食べられるようにした。ここではカレーライスなどの軽食が提供された。最後までビュフェ車が連結されていたのはR62編成の3号車(37-7302)で、フリースペースとして供用されていたが、2008年3月14日に運行を終了し、3月28日付で廃車された。

0系新幹線の走行機器

最高速度200km/h以上で走行するため、在来技術を最大限に活用しながら強化したものとなっている。本系列全電動車方式(全車を動力車とする方式)は、走行中に1ユニット(2両)が故障しても25‰連続勾配160km/hの走行を可能にするために採用され、以後新幹線の基本的なポリシーとして踏襲されている。

0系新幹線の駆動方式・モーター

WN平行カルダン駆動方式主電動機MT200と称する直流直巻電動機連続定格出力185kW/415V・2,200rpmである。1964年当時日本において電車用モーター、かつカルダン駆動方式モーターとしては最強だった。。これを1両あたり4基搭載し、1両で740kW(≒1000HP)の出力を確保している。全車電動車編成を組み、動力性能上の均衡速度は平坦で235km/h、10‰上り勾配で196km/hに達する。1966年新造車より絶縁強化を図ったMT200Aを、1973年新造車からは1時間定格出力を225kwに増強したMT200Bを装備する。

0系新幹線の台車

0系の台車 2004年10月17日撮影

DT200形と称する。ホイールベース2,500mmの鋼板溶接組立構造。高速安定性を重視して設計されている。機械的なブレーキとして、高速域から安定して作動するディスクブレーキを採用した。また高速走行のため、軸受構造は日本鉄道車両史上初の潤滑油式ボールベアリングとした。動輪径910mmである。

軸バネ機構 ドイツ国鉄(DB)のミンデン研究所が客車向けに第二次世界大戦前に開発し、ドイツ国鉄標準方式となっていたミンデンドイツ方式の台車は、日本では戦後、住友金属工業が1960年頃から製作していた。0系の台車はこれに改良を加えたもので、開発者のイニシャルからIS式と称した。 軸受けの両側にコイルバネを配し、車軸の位置決めを前後方向から長い板バネで行うのはミンデンドイツ方式と同じだが、ミンデンの原型では板バネをボルト止めしていたところ、ゴムブッシュを挟む構造でストレスが掛からないようにしている。 枕バネ機構 鉄道台車用として日本で1956年以来独自に開発され、改良普及されきた空気バネを装備しており、微細な振動の吸収や車高の自動調整機能などで、金属バネよりも優位だった。0系ではダイアフラム式空気バネを用いたダイレクトマウント構造を新たに採用し、従来の揺れ枕吊りを用いた台車より簡素でありながら、優れた減衰性・復元性を実現した。

0系新幹線の電源・制御方式

架線からの交流25kV変圧器で降圧した上で、シリコン整流器で整流して直流電源とした。車載用シリコン整流器は、既に1960年代初頭に交流電気機関車交直流電車で用いられて実績があった。

モーターを制御するのは、2両毎に1基搭載された制御器である。架線からの交流25kVを降圧した変圧器二次側タップを切り替えて2両分8個のモーターに掛かる電圧を調整している。弱界磁制御を使わないのは、トランスから自由に電圧を得られることにより起動抵抗損失はなく、直流の抵抗制御方式のようなフルステップ電圧を特に下げて抵抗損失低減を図る必要がないからである。これも交流電気機関車で用いられる技術を応用した制御である。ちなみに最終ステップにおける定格速度167km/hである。

さらに、発電ブレーキ機能を付加している。時速200キロ以上の高速域から機械的なディスクブレーキのみに頼って制動をかけるのでは、発熱や磨耗など無理があるため、モーターを発電機として作動させることで走行(運動)エネルギーを吸収し、抵抗器で熱エネルギーとして発散させる方式である。特に高速域からのブレーキ時には効果的な手法で、在来線などで多くの実績がある。

パンタグラフには、コンパクトにして空気抵抗を小さくするため、下枠交差型が初めて採用された。

なお、新幹線用車両の中で本系列のみが特高圧引通線を持たず、各ユニットに1基(16両編成では8基)のパンタグラフを装備する。以下にその理由を記す。

開業当時は駅構内上下線同相給電ではなく、この渡り線の絶縁セクション電圧差25\sqrt{2}kVを引通線で短絡するため採用不可能なのと、送電方式にBT (Booster Transformer) き電方式が採用されていたため、特高圧引通線を装備した場合、力行切り替えセクション間にあるブースターセクションを短絡して帰線電流吸い上げ不能となり給電線のほとんどの電流がパンタグラフと引き通し線を通じて流れアークが発生して損傷の危険があるため装備できなかった。

その後送電方式が現在のAT(Automatic Transformer)き電方式に変更する際に構内同相給電に改めて異相セクションをなくしたことで、設備側については特高圧引通線の装備が可能になったが、本系列については屋根上空調装置が並べられており、絶縁と空調機メンテナンスの問題から装備することができない。ちなみに、屋根のように見えるのは空調装置のカバーであり、本当の屋根はカバーの内部、空調装置の下側にある。

ただし、JR西日本所属のNH82編成には例外的に特高圧引通し準備工事が施されており、0系では唯一屋根上にケーブルヘッドカバーを装着した車両が連結されるなど外観上の特徴があった。

0系新幹線の推移

0系新幹線の運用

東海道新幹線開業時は12両編成で、1970年に日本万国博覧会(大阪万博)が開催された際、輸送力増強のため16両編成化された。1975年の山陽新幹線 博多開業時に食堂車が組み込まれた。

当初、最高速度は210km/hだったが、1986年に220km/hに引き上げられた。ただし、運転上の最高速度は当初200km/hで、210km/hはATCが作動してブレーキがかかる頭打ち速度。1986年に引き上げられた220km/hは、運転上の最高速度のため、210km/hと比較するなら新しい頭打ち速度の225km/hが正しい。

1985年に山陽新幹線開業時に増備された0系を置き換えるため、後継車両として100系が開発されたが、0系の増備は日本国有鉄道(国鉄)が民営化する間際の1986年4月まで続けられた。

1999年9月18日の「こだま」473号(YK8編成)が東海道区間における最後の定期運用で、それ以後、0系は東海道新幹線から完全に撤退した。(当然のことながら、品川駅停車歴がない)ただし、新大阪 - 京都間にある通称「鳥飼基地」への回送列車のみそれ以降も走行していた。その後、短縮された編成が山陽新幹線で「こだま」の運用に就いていたが、2008年11月30日に岡山14時51分発、博多18時21分着の「こだま」659号(R68編成)をもって定期運用から離脱し、12月14日に新大阪14時56分発、博多18時01分着の臨時「ひかり」347号(R61編成)をもって営業運転を終了した。「347号」は「さよなら」に掛け合わせたものである。

0系新幹線の長期増備の原因

東海道新幹線の建設から開業までは時間的にかなり限られていて、車両開発に十分な時間を割けなかったため、モデル車両「1000形」をベースにした車両(現在の0系)を開発し、そこから得られた改良箇所後継車両に反映させる計画だった。この車両は全国新幹線網成立の時点で周波数50Hz/60Hz両用車両にする構想だった。この一環として951形・961形といった試験車両が製作された。また後継車両のために100系を欠番扱いとし、東北・上越新幹線用営業車両には200系の形式称号が与えられた。しかし、実際には計画通りにはならなかった。

新幹線車両は、長距離高速運転による酷使の結果、当初耐用年数20年と想定されていたよりも車体・機器の劣化が早かったため、初期製造車は12年目の法定検査切れの車両より廃車が始まった。以上のような理由から1976年9月より1次車・2次車が淘汰されていくわけであるが、当時、国鉄経営の悪化や労働紛争の影響で国鉄内部では車両を含めた技術革新が停滞しており、その一方で0系の基本性能は安定した水準に達していたことから、労働組合は新型車両導入に否定的だった。さらには0系の増備が進みすぎた結果、編成中で車両の経年がまちまちだったことも加え、既存の車両と混成・編成替えを行う都合などから互換性を配慮する必要も生じた。

このため0系を新しく製造して古い0系を置き換える状態が続き、約23年間・38次にわたって、細部の改良を重ねながら0系が発注・製造され続けることになった。

0系新幹線の各車の概要

0系新幹線のH編成、NH編成

「ひかり」用の16両編成で、最盛期には両者合わせて99本が存在し、JR発足当初はJR東海・西日本両社で所有していた。8号車に食堂車が、9号車(後に5号車に変更)にビュフェが連結されていた。グリーン車は2両で最初は11・12号車だったが、100系登場にあわせてか途中から9・10号車に変更された。

H編成とNH編成の違いは、H編成は長窓の0番台で構成されていたのに対し、NH編成は先頭車と一部の中間車が小窓の1000番台、2000番台で構成されていた。なお全車両小窓のN編成も3編成存在した。JR西日本で最後まで残った16両編成はNH32編成であり、最後の食堂車車両が連結されていたが、既に廃車された。

「ひかり」用の編成ではあるが、JR西日本所有車は東海道新幹線の「こだま」にも使われていた。

0系新幹線のY編成、YK編成

「こだま」用の16両編成で、JR東海が所有していた。東海道新幹線の「こだま」はJR発足当初は12両編成でS、SK編成だったが、1989年に「こだま」の利用者が増えたために中間車4両が組み込まれて16両編成化されてY、YK編成に改められた。前述の通り、トンネル内換気方式の違いにより岡山駅以西に入れない車両が入っている編成は原編成番号に+50されていたが、このような編成が1990年代前半まで残っていた。なお原則として「こだま」用だったが、多客時には山陽新幹線区間走行のものを含む臨時「ひかり」に充当されることも少なからずあった。

H、NH編成と違いグリーン車は8号車1両のみで5号車にビュフェが連結されていた。そのために食堂車はない。指定席車となる9?12号車の座席は横4列となっており、2つの「II」をデザインしたシンボルマークオレンジ色の号車番号札外観上アクセントとなっていた。

Y編成とYK編成の違いはH編成とNH編成と同様に、Y編成は長窓の0番台で構成されていたのに対しYK編成は先頭車と一部の中間車が小窓の1000番台、2000番台で構成されていた。

JR東海で最後まで残った0系はこのYK編成である。また、SK編成はJR西日本でも所有しており、「ウエストひかり」もSK編成を名乗っていた。

0系新幹線のS編成、SK編成

山陽新幹線の博多以前に新たに製造されたビュフェ車のない12両編成Short(16両より短い)から取られた。その後製造された食堂車が連結された時点でS編成(S44-S64編成)はH編成(H44-H64編成)に変更され、いったんS編成は消滅する。

その後、47編成がそろったこだま用の列車をS編成(S1-S47編成)とした。この時点では12両編成だったが、第13、15次増備で16両編成化された。この16両化された編成はK編成に変更された。このK編成は1984-1985年にかけて再び12両化されたため消滅した。

12両化されたK編成は再びS編成の名を与えられた。先頭車が1000・2000番台の小窓車はSK編成となった。なお、全車小窓車の場合の場合も同様にSK編成となった。

国鉄の分割民営化後、JR東海のS編成は9・10号車の指定席車を2列&2列シートグレードアップした。なお、これに伴う車号の変更はない。

この編成は、JR東海分は1989-1991年にかけて再び16両化したため消滅、JR西日本分は「ウエストひかり」にされたが、これも2000年に消滅した。ウエスト ひかりは、ビュフェを連結し、2列&2列シートの車両はWKビュフェシネマカー連結、2列&2列シートの車両をWKV編成と称していたが、どちらとも正確にはSK編成である。

0系新幹線のR・WR編成、Q編成

新幹線0系電車 (WR編成)ウエストひかり色 新幹線0系電車 リニューアル車(WR編成)姫路駅 本線ファイナル運転時のR編成 東海道引退時と異なり光前頭に特別な施しをされることもなく、それまで最も活躍を続けた青とアイボリーホワイトの塗装そのままで見送られた(新大阪駅)。 新幹線0系電車 (R2・24編成)「ファミリーひかり」プレイルーム

「こだま」用の編成で、R・WRR50・60番台)編成は6両、Q編成は4両編成で、全てJR西日本にのみ存在していた。R編成はNH編成から、WR編成はウエストひかりS編成からの組み換えだった。2000年代に入ってからは100系P編成に置き換えが進んでおり、Q編成は既に消滅した。ただし、新下関駅との側線にQ3編成が現存していて、車籍は抹消されているが、現在も使用されている(新幹線0系電車#備考を参照)。かつては初期の大窓車も存在したが、これも廃車された。

最後まで残ったR編成は、1000・2000番台の3列席も回転できる5030・7030番台で構成されており、塗色は「ウエストひかり」色に3列席回転ピクトグラムが貼られていた。これにより原番号を保持している車両は消滅した。2005年3月の山陽新幹線開業30周年記念「ひかり」号での運転を最後に撤退した。

また、R2・24編成はデッドスペースとなっていたビュフェ部分と客室一部を「こどもサロン」と称するプレイルームに改造し、多客時に全席指定の「ファミリーひかり」として運行していた。しかし2002年を最後に営業運転を終了し、他編成と同様に廃車された。なお、1998年 - 1999年にはNINTENDO64ゲームソフト バンジョーカズーイ大冒険 とのタイアップで、側面に同ゲームキャラクターラッピングを施した状態で運行された。

この他、1991年から1997年まで「シャトルひかり」と称する「ひかり」に使われたことがある。

R編成は6両と短いため、先頭車に収められている非常用連結器営業運転で使われた事例もあった。「ウエストひかり」のうち、R51編成の1本は6両のまま残され、1日1往復のみ運転されていた。超多客時には輸送力増強のため、東京寄先頭車22-3901(16-133を先頭車化改造)に連結器強化改造R51編成博多寄先頭車21-7001も同様に改造)を施したR23編成博多寄りに連結していた。当時の大型時刻表の編成表には「こだま型6両編成を併結する日があります」という表記があった。

WR編成は、大半が旧「ウエストひかり」編成だが、一部に7030番台を2×2シート再改造したものも含まれる。旧「ウエストひかり」編成には元1000番台の5000番台もあったが、現存の編成は全て元2000番台の7000番台である。塗色はウエスト色を引き継いでいたが、2002年からは濃淡グレーフレッシュグリーンの新色に変更された。その際「ウエストひかり」時代のWマークは撤去された。WR編成の車内には0系で初めて車内案内表示器が設置された。これは100系の廃車発生品であり、種車の都合から文字部分が大小2種類ある。

Q編成は広島以西限定運用だった。なお、100系P編成の運用は岡山以西となっている。一時は姫路まで乗り入れていたが、現在は乗り入れていない。

2007年時点では、WR編成のみが6本(R61,R62,R63,R64,R67,R68)在籍していたが、2008年このうちのR61,R67,R68の3編成が白/青のカラーリングに戻された。他の3編成は廃車となった。

0系新幹線の試作車両

新幹線1000形電車A編成(イラスト

新幹線開業にあたり、これまで研究してきた高速列車に関するノウハウが本当に実用に耐えうるものなのかどうかを確かめるために開業前鴨宮モデル線でいくつかの試作編成が走行試験を行った。

新幹線1000形電車も参照。

A編成:2両編成で、塗装は0系と異なり、上下に青色のラインが入っただけだった。またライトも細長く、側面には列車番号表示器が設けられていた。客用ドアはプラグドアを採用した。

B編成:4両編成で塗装は0系とほぼ同じ。1963年3月30日に最高速度256km/hを達成する。

これらの試験結果を元にC編成と呼ばれる6両編成先行量産車が製造された。後に開業時に6両を追加して営業編成となった。これらの一部は大阪市港区にある交通科学博物館に静態保存されている。

量産車では変更された点としては

プラグドアを通常のものに変更(ただし気密性は従来のものより高い)

運転席上アンテナを棒状から流線型に変更

B編成1004で使われた窓柱間クロスメンバー構造六角形窓)の不採用

非常用脱出口車両中央に配置

先頭車両排障器スカート)の強化

光前頭内部への非常用連結器の格納と、それに伴う蛍光灯内蔵のとりやめ

などがあげられる。

0系新幹線の特殊編成

1974年製造の18次車のうち、1本は両端のユニット4両を除く12両を全てグリーン車としたH70編成(別名:ひかりスペシャル)として落成している。この編成は、後述の国際会議輸送のために組成され、会議終了後は各グリーンユニットを次の落成編成に組成することを前提とした。0系は2両単位の柔軟なユニット組成が出来た点と、博多延長開業に合わせた0系全体増備中だった為にグリーンユニットを先行して集中増備しても問題が無かった点が本編成の組成を可能とした。

10月6日、第61回列国議会同盟 (IPU) 議員団輸送のため東京 - 京都往復初運用

0系新幹線の2008年11月30日までの運用状況

東広島駅にてN700系を待避する0系

2008年3月15日改正時の運用は以下の列車である(※▲は博多南線直通

下り

こだま629号 博多行き(新大阪6:12発→岡山7:22着/23発→広島8:43着/44発→小倉10:14着/21発→博多10:41着)

こだま639号 博多行き▲★(新大阪7:59発→岡山9:37着/38発→広島11:01着/10発→小倉12:49着/50発→博多13:09着)

こだま659号 博多行き▲★(岡山14:51発→広島16:10着/11発→小倉18:01着/02発→博多18:21着)

こだま769号 博多行き▲×★(小倉18:36発→博多18:56着)

上り

こだま620号 新大阪行き★(福山6:09発→岡山6:34着/35発→新大阪7:47着)

こだま638号 岡山行き▲★(博多9:19発→小倉9:38着/39発→広島11:29着/30発→岡山12:53着)

こだま762号 小倉行き×★(博多18:04発→小倉18:24着)

こだま674号 新大阪行き×(博多18:42発→小倉19:03発/04発→広島20:40着/49発→岡山22:04着/05発→新大阪23:21着)

こだま724号 広島行き▲×★(博多19:12発→小倉19:33着/34発→広島21:20着)

こだま682号 福山行き×★(広島23:15発→福山23:58着)

定期運用最終日の2008年11月30日の「こだま」659号は、博多駅での定期運転終了セレモニーのため、博多南線には直通せず、博多南線には100系P編成(4両)使用の臨時列車が運転された。 また、×印の列車は定期運用最終日は運転されなかった。

なお、2008年12月1日(一部列車は2日より)★マークの列車に関しては、500系による運転になる。500系による置き換えについては次節で述べる。

0系新幹線の廃止および廃車に至った経過

落成当時の塗装に復元されたR67編成 ファイナル運転では速達タイプの「赤いひかり」のみに使われた方向幕が復活した さよなら運転での姫路駅停車中の臨時ひかり340号 車内チャイムも従来のものに復元(2008年8月録音)

0系は経年が20年を越え高速運転に供されているために、老朽化が進み車両の状態が悪かった。

当初、JR西日本では「0系はN700系の営業開始まで使用する」と発表していた。

その後、2007年9月に発表されたN700系の追加増備計画に伴い、500系を16両編成から8両編成に短縮し、山陽新幹線「こだま」として運用することにより、0系を置き換えることが同年12月19日にJR西日本より正式に発表された。これにより0系は2008年11月30日をもって営業運転を終了し、全車廃車と発表された。そして同年2月27日には、6月ごろまでに3本の編成(R61/67/68編成)を落成当時のクリーム10号と青20号の車体塗装に変更することが発表され、塗り替えられた編成は、同年4月18日より運用を開始した。なお、3編成以外の塗装変更されない残りの編成は6月頃までに廃車された。また同年11月の定期運転終了後の12月6日、13日、14日にさよなら運転を実施することも発表された。同年9月24日の社長定例会見では12月14日に新大阪 - 博多間を1往復する臨時「ひかり」(下りは6日・13日も運転)を最後の運転とすることが発表された。この「ひかり」は主要駅にしか停車しない速達運行で、久々に「赤ひかり」の幕が使用された。当日は新大阪、広島、博多の各駅でお別れセレモニーが開催され、大勢のファンと報道陣が夢の超特急の最後の勇姿を見届ける中、乗客業務最終のひかり347号として、寄せられた5460通ものメッセージを乗せて力走、開業以来同系列の車両として44年と44日、車両事故による死亡者を出さず、無事に役目を全うした。さよなら運転の乗客には記念乗車証が配られ、12月14日にはGoogleを0系がサイトジャックし、Googleトップページに在りし日の0系の姿と富士山が描かれた。

2008年6月20日からは、運用につく0系は全て白地に青帯の原色編成となった。また、同日より車内チャイムも2003年秋まで使用されていたものに戻された。なお、塗料の材質が落成当時と異なっているため、落成時と全く同じ色合いにはできず若干異なったものとなった。

ちなみに、0系は6両編成で3台のパンタグラフを上げて走行していたが、当時の東海道・山陽新幹線の中で1編成で実際に使用するパンタグラフが最も多い系列となっていた。100系以降の編成は組成両数にかかわらずすべて2台使用である。

なお、屋上・床下機器などに有害物質のポリ塩化ビフェニルPCB)が使用されているため、廃車する際にはこれまでの貯蔵分も含めて処理費用が70億円以上かかるとされている。

0系新幹線の保存車両

21-1,22-1,16-1,35-1:大阪府大阪市港区 交通科学博物館 この車両は量産先行編成として製造された編成の一部で、2007年8月に機械遺産として認定されたものである。また、2008年10月にはJR西日本より鉄道記念物に指定された。

21-2,22-2:大阪府吹田市 JR西日本社員研修センター ただし、21-2は鉄道博物館へ収蔵されることになり、鉄道博物館に隣接している大宮総合車両センターへ搬送された。搬送は2008年8月27日JR西日本社員研修センター内でクレーン吊上げ、トレーラー積込み、同月28日にセンターから搬出、神戸港から船積み、東京港大井埠頭到着後、同月31日未明大宮総合車両センターに搬入された。鉄道博物館での展示時期、場所、方法などは未定としている。日本車輌製造製で、1964年7月24日の車両落成時はN2編成と命名、1972年から「ひかり」用のH2編成に改称、1977年に営業運転終了、1978年4月から国鉄関西鉄道学園(現・JR西日本社員研修センター)で運転士車掌養成用訓練設備として活用後、保管されていた。JR西日本から東日本旅客鉄道(JR東日本)に無償譲渡されたもの。ほとんどが東海道新幹線開業時の仕様そのままである。

21-86,22-86,36-84,37-2523,16-2034:静岡県浜松市中区 JR東海浜松工場

21-25(前頭部のみ):埼玉県さいたま市大宮区 鉄道博物館

22-56(前頭部のみ):北海道中川郡池田町 ワインの国

21-59:静岡県富士市 新通町公園 園内の案内板によると、この公園が日本で最初に新幹線を展示したとのこと。

21-73:大阪府摂津市 新幹線公園

22-75:東京都青梅市 青梅鉄道公園 以前は200系の緑帯に塗られていたが、後の整備の際に青帯に塗り直された。しかし塗り分け線は緑帯時代のままである。また、運転台側の窓帯の処理が正しい塗装とやや異なったものになっており、丸みを帯びさせるのが正しいが、角っぽくなっている。

22-77:福岡県福岡市早良区 さつき幼稚園

21-100:東京都昭島市 昭島市民図書館つつじが丘分室昭島市つつじが丘公園内図書館として利用されている。市民でかつて新幹線に携わっていた人がいたことから整備され、ヘッドライトの点灯や警笛、行先表示器なども動作する。本棚の関係で大半の座席が取り外されたが一部当時のものが残っている。2008年時点ではヘッドライトは土休日の開館日のみ点灯することができる。展示屋根がないため状態は悪いが、定期的に塗装を塗りなおしている。

21-141(前頭部のみ):愛媛県西条市 四国鉄道文化館 2007年10月までは四国旅客鉄道(JR四国)多度津工場で保存されていた。

22-141:イギリスヨーク 国立鉄道博物館 当車両と21-141は、H94編成先頭車。2001年に西日本旅客鉄道(JR西日本)によって寄贈された。

22-1003(前頭部のみ):京都府亀岡市 鉄道歴史公園

21-2023(前頭部のみ):静岡県浜松市天竜区 佐久間レールパーク

22-2029(JR東海YK8編成16号車):愛知県豊川市 日本車輌製造豊川製作所

21-7038(←21-2026)(前頭部のみ):兵庫県神戸市中央区 神戸海洋博物館カワサキワールド

21-5035(←21-1032):台湾高速鉄道 建築限界測定用として使用されている。

沖縄コンベンションセンター(沖縄県宜野湾市)に 22-73 が保存されていたが、塩害による劣化が激しく1998年12月末に解体された。

0系新幹線の備考

新下関新幹線乗務員訓練センターに留置されている0系

2008年7月現在、山陽新幹線新下関駅の側線(新下関新幹線乗務員訓練センター)にて白3号と青20号原形風の塗装4両編成1本(元Q3編成・JRマーク貼付)がゆっくりと往復している状態を見ることができる。側線の配置の関係で、新幹線側よりも在来線山陽本線)側の方が見やすい。21-1047 + 26-1093 + 37-1505 + 22-1047の陣容で、すでに車籍はなく、車両の状態は決していいとは言えないものの、新下関駅側にあるJR西日本乗務員訓練センター教習車として使用されている。訓練が行われる日には新下関駅新幹線ホーム付近まで走行、新下関駅新幹線上りホームからその状態を間近で見ることができる。なお37-1505は1995年夏期に客室の座席を撤去した上、プレイルームとして試行されたことがある。

◇出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)『0系新幹線』より
取得日:2008-12-16

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