日本航空123便墜落事故(にほんこうくう123びんついらくじこ)とは1985年8月12日18時56分、日本航空(当時)123便、東京(羽田)発大阪(伊丹)行ボーイング747SR-46(「ジャンボジェット」、機体記号JA8119)が群馬県多野郡上野村の高天原山に墜落した事故である。
123便の概説
JAL123便の墜落地点は御巣鷹山のすぐ南の高天原山(たかまがはらやま)にある無名の尾根である。後に、この尾根は上野村村長・黒沢丈夫(当時)によって「御巣鷹の尾根」と命名されるが、実際は御巣鷹山に属する尾根ではない。
事故調査は、「同機がしりもち着陸事故を起こした後のボーイング社の修理が不適切だったことによる圧力隔壁の破損が原因」とする事故調査報告書が1987年6月19日に公表され終了している。一部に再調査を求める声があるが事故調査報告書を否定するような決定的な証拠は発見されておらず、再調査は行われていない。
123便の事故概要
運輸省航空事故調査委員会による事故調査報告書によると死亡者数は乗員乗客524名のうち520名、生存者は4名だった。死者数は日本国内で発生した航空機事故では最多、単独機の航空事故では世界最多である。
なお、この事故以前の日本国内で最多の航空機事故死者数は1971年7月30日に発生した「全日空機雫石衝突事故」の162名だった。世界で最多の死者数を出した航空事故は1977年3月27日に発生した「テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故」で、滑走路上で2機のボーイング747が激突した事故によって583名の死者を出している。この事故以前の単独機の航空機事故死者数が最多のものは1974年3月3日にフランス・パリ郊外で発生した「トルコ航空DC-10パリ墜落事故」の346名だった。
乗客の中には著名人が多数含まれていた。また夕方のラッシュ時とお盆の帰省ラッシュが重なったことなどにより乗客が多かったこともあり、企業の役員や外国人、家族連れの犠牲者も多かった。
社会全体に大きな衝撃を与えたため一般的に「日航機墜落事故」「日航ジャンボ機墜落事故」と言う場合、この事故を指すことが多い。
123便の事故機
本事故により、同年8月19日に登録抹消される。日本の航空会社が旅客機として運航しているボーイング747で墜落事故によって登録を抹消されたのは、2008年6月現在に至るまで本機のみである。
機体記号 JA8119
型式 ボーイング747SR-46
製造年月日 1974年1月30日
製造番号 20783
耐空証明 第48-028
総飛行時間 25,030時間18分
総着陸回数 18,835回
新規登録年月日 1974年2月19日
123便の型式 747SR
ボーイング747SR-46型機世界でも、日本の航空会社である日本航空と全日本空輸の2社のみがボーイング社に発注している747の特別仕様である(747SR-46の46は日本航空のボーイング社におけるカスタマーコードであり、また100型の場合通常百の桁は表記しない。全日本空輸のカスタマーコードは81である)。SRとは「Short Range(短距離)」の略で、国土の狭い日本の国内線を運航する航空会社が幹線及び準幹線に投入する目的に特化している(1990年にボーイング社は747在来型の受注を打ち切るが、この仕様は747-400Dとして受け継がれている。これも世界で日本航空と全日本空輸の2社のみがボーイング社に発注している特別仕様の747である)。
空港へ乗り入れる便数を少なくする代わりに一度に輸送できる旅客数(最大で550人)を多くするため、従来の747ベースに1?2時間程度の短距離飛行用に設計された。短距離便ではあまり必要のない機内のラバトリー(トイレ)やギャレー(調理室)を減らして座席数を増やしている。また、国際線仕様の747では備え付けられている長距離飛行用の燃料タンクを搭載していない。その他に離着陸が頻繁であるため降着装置を強化、重量が重い状態で短い滑走路へ着陸する際にブレーキの摩擦熱で発火するのを防ぐため強力な冷却装置を取り付ける等の変更がなされている。
また、頻度の多い離着陸によって国際線よりはるかに多い高度変化による気圧の変化で機体に負担がかかるため金属疲労の進行を抑える加工も施されていたが、皮肉にもJA8119はボーイング社による隔壁の修理ミスと検査での金属疲労の見落としによって墜落した。
123便の事故の経過
本事故は、機体JA8119にとっては3度目の事故である。
123便の墜落前の事故
1978年6月2日、東京国際空港(羽田空港)から大阪国際空港(伊丹空港)へのフライトで着陸しようとした際、パイロットが操縦桿の操作を誤ったため機体が通常の着陸角度より上に上がりすぎ滑走路に機体尾部を接触させるしりもち事故を起こし、機体尾部にある圧力隔壁を破損。機体のバウンドによりケガ人が3名発生。この事故での圧力隔壁のボーイング社における修理ミスが日本航空123便墜落事故の引き金になったとされている。
1982年8月19日、羽田空港から千歳空港へ飛行し着陸の際、機体が右に逸れ誤って第4エンジンを地上に接触させたため機長は着陸をやり直した。原因は天候による視界不良である。
なお後者の事故によるエンジン損傷は事故調査報告書によれば、本墜落事故の直接の原因にはなっていない。
123便の事故当日のJAL123便
当日の123便は18時00分羽田発、離陸後は南西に進んだ後、伊豆大島から西に巡航、串本上空で北西に進み18時56分伊丹着のフライトプランだった。
フライトに使用されたJA8119は就航以来約18800回飛行し当日は503・504便で羽田?千歳、363・366便で羽田?福岡を往復し123便で5回目のフライト。伊丹到着後、130便として伊丹発羽田着の最終便を運航する予定だった。また、燃料は3時間15分程度の飛行が可能な量を搭載していた。
乗務員は、高濱雅巳機長(49歳)、佐々木祐副操縦士(39歳)、福田博航空機関士(46歳)の男性3人のコックピット・クルーと波多野純チーフパーサー(39歳)を筆頭とする客室乗務員(女性11人)12人の計15人。乗客は509人。コックピットでは機長昇格訓練を受けていた副操縦士が機長席に座り操縦、クルーへの指示を担当。機長は副操縦士席で副操縦士の指導、無線交信などの副操縦士の業務を担当していた。当日、航空機関士は363便と366便でJA8119に、副操縦士は別の機にそれぞれ乗務し機長は当日最初のフライトだった。
18時04分に乗員乗客524人を乗せた123便は定刻をやや遅れて羽田空港18番スポットを離れ、18時12分に当時の滑走路15から離陸した。資料によれば遅れは4分ほどだった。各航空会社は15分以上の遅延で初めて「遅れ」としていたため、この規定での場合、当時123便は一応「定刻」で離陸したことになる。搭乗方式はボーディングブリッジではなく、沖止めで搭乗機連絡バスによる移動での搭乗だった。
123便の異常事態発生
18時24分(離陸から12分後)、相模湾上空を巡航高度の24000ft(7200m)へ向け上昇中、23900ftを通過したところで異常事態が発生する。突然の衝撃音と共に123便の垂直尾翼は垂直安定板の下半分のみを残して破壊され、その際ハイドロプレッシャー(油圧操縦)システムの4系統全てに損傷が及んだ結果エンジンと電気系統は無事だったが、油圧を使用したエレベーター(昇降舵)やエルロン(補助翼)の操舵が不可能になってしまう。フゴイドやダッチロールを起こした機体は迷走するとともに上昇、降下を繰り返すもののクルーの操縦により17分間は20000ft(6000m)以上で飛行を続ける。18時40分頃、空気抵抗を利用する降下手段としてランディング・ギア(降着装置)を降ろした後、富士山東麓を北上し山梨県大月市上空で急な右旋回をしながら高度22000ftから6000ftへと一気に15400ft(4600m)も降下する。その後、機体は羽田方面に向かうものの埼玉県上空で左へ旋回、群馬県南西部の山岳地帯へと向かい出す。
123便のキャビン内の状況
機内では衝撃音が響いた直後に各座席に酸素マスクが落下し、予め録音してあって緊急時に自動的に流れる男性の声で乗客にシートベルトの着用やマスクの装着を指示したプリレコーデット・アナウンスが流れた。乗客は客室乗務員の指示に従って酸素マスクを着用したほかシートベルトを着用し、タバコを消すなど非常時の対応を行う。また一部座席では着水に備え、救命胴衣の着用なども行われた。男性チーフパーサーは全客室乗務員に対し、機内アナウンスで酸素ボトルの用意を指示している。なお生存者の証言によれば、機内は異常発生直後から墜落までさほど混乱に陥ることはなく全員落ち着いて行動していたという。その後、乗客は衝撃に備えるいわゆる「安全姿勢」(前席に両手を重ね合わせて頭部を抱え込むようにし、全身を緊張させる)をとって衝撃に備えた。
一般的に航空事故は離陸後3分と着陸前8分の、いわゆる「魔の11分」に集中して発生する傾向がある。それ以外の事故でも異常発生の直後に墜落する事が多く、いずれにしても異常発生から墜落までに数分の余裕も無い事がほとんどである。しかし123便は、18時24分の異状発生から操縦不能になりながらも30分以上も飛行を続けた。これは航空事故としては特異的なものだった。この間に乗客の中には最期を覚悟し、不安定な機体の中で懸命に家族への遺書を書き残した者が複数いた。これらの遺書は後に事故現場から発見され、犠牲者の悲痛な思いを伝えている。
なお客室乗務員は終始乗客のサポートをしていたと生存者が語っており、機体後部に取り付けられていたコックピットボイスレコーダー(CVR)には幼児連れの親に子供の抱き方を指示する放送、身の回りを確認するよう求める放送、不時着を予想してか「予告無しで着陸する場合もある」との放送、「地上と交信できている」との放送が墜落直前まで記録されている。また墜落現場からは不時着後に備えて乗客に出す指示をまとめた一人の客室乗務員によるメモや、異常発生後のキャビン内を撮影したカメラが見つかっている。
123便の地上との交信
123便は18時24分47秒に緊急救難信号「スコーク77(7700)」を発信、信号は東京航空交通管制部(ACC)に傍受される。直後に機長が無線でACCに対して緊急事態発生のため羽田へ戻りたいと告げ、ACCはそれを了承した。123便は伊豆大島へのレーダー誘導を要求した。ACCは右左どちらへの旋回をするか尋ねると、機長は遠回りとなる右旋回を希望した。羽田は緊急着陸を迎え入れる準備に入った。
27分 ACCが123便に緊急事態を宣言するか確認し、123便から宣言が出された。続いて123便に対してどのような緊急事態かを尋ねたが、応答は無かった。またACCは、日航本社に123便が緊急信号を発信していることを知らせる。
28分 ACCは123便に真東に向かうよう指示するが123便は操縦不能と返答。ACCはこの時初めて123便が操縦不能に陥っている事を知る。
31分 ACCは羽田より近い名古屋に緊急着陸を提案するが123便は羽田を希望する。通常航空機と地上との交信は英語にて行われているが123便のパイロットの負担を考え、日本語の使用を許可し以後ACCと123便は一部日本語による交信が行われている。
33分頃 日航はカンパニーラジオ(社内専用無線)で123便に交信を求め、35分、123便からドアが破損したとの連絡があった後、その時点で緊急降下しているので後ほど呼び出すまで無線をモニターするよう求められ日航は了承した。
40分 ACCは123便と他機との交信を分けるため123便専用の周波数が準備され、123便にその周波数に変えるよう求めたが応答は無かった。
42分 逆に123便を除く全機に対してその周波数に変更するよう求め交信は指示があるまで避けるように求めたが、一部航空機は通常周波数で交信を続けたためACCは交信をする機に個別で指示し続けた。
45分 無線のやり取りを傍受していた在日アメリカ軍の横田基地(RAPCON)が123便の支援に乗り出し、123便にアメリカ軍が用意した周波数に変更するよう求めたが123便からは操縦不能との声が返ってきた。ACCが東京(羽田)アプローチ(APP)と交信するかと123便に提案するが、123便は拒んだ。
47分 123便は千葉の木更津へレーダー誘導するよう求めACCは真東へ進むよう指示し、操縦可能かと質問すると123便から「アンコントローラブル」(操縦不能)と返答がきた。その後、APPの周波数へ変更するよう求め123便は了承した。
48分 無言で123便から機長の荒い呼吸音が記録されている。
49分 日航がカンパニーラジオ(社内専用無線)で3分間呼び出しを行ったが応答は無かった。
53分 ACCが123便を呼び出した。123便から「アンコントロール」と無線が入ってくる。ACCとRAPCONが返答、RAPCONは横田基地が緊急着陸の受け入れ準備に入っていると返答。ACCもAPPの周波数へ変更するよう求め、123便が了承する。
54分 日航も呼び出しを行ったが応答は無かった。123便から現在地を尋ねられ、APPが羽田から55マイル(100km)北西で、熊谷から25マイル(45km)西と告げる。
55分 (この時だけ「日本語にて申し上げます」と前置きして)APPから羽田と横田が緊急着陸準備を行っておりいつでも最優先で着陸できると知らせ、航空機関士が「はい了解しました」と返答する。この言葉が123便からの最期の交信となった。その直後にAPPが123便に対し、今後の意向を尋ねたが応答は無かった。その後も56分前までAPPとRAPCONが123便に対して呼び出しを行ったが応答は無いままだった。
57分 RAPCONが123便に対し「貴機は横田の北西35マイル(65km)地点におり、横田基地に最優先で着陸できる」と呼びかけ、ACCも123便に対して横田基地に周波数を変更するよう求めたがこの時、既に123便は墜落していた。
123便のコックピットと機体の状況
衝撃音がした直後、機長は航空管制官への無線交信で羽田空港への引き返しを要求している。
その際、管制官の「右と左のどちらへ旋回するか?」という問いに対し機長は羽田空港へは遠回りになる「右旋回」を要求している。この事は「海山論争」として多くの議論を呼ぶ。
コックピットボイスレコーダー(CVR)の記録によると、異常発生から墜落まで操作不能状態の操縦桿やペダルなど油圧系の操作は副操縦士、進路の巡視・計器類などの監視・パネルの操作・管制官との交信・クルーへの指示などは機長、エンジンの出力調整・緊急時の電動によるフラップとギアダウン、日航との社内無線交信、さらに副操縦士の補助は航空機関士がしていたと推測されている。異常発生直後から油圧操作の効果がほとんど無いにもかかわらず繰り返し操縦桿での操舵を試みるなど、クルーは操縦不能になった理由を最期まで把握できていなかった模様である(操縦席から尾翼部分は目視できないため、把握できなかったのは致し方ない)。また、油圧系統全滅を認識しながらもクルーは油圧での操縦を試みている。
CVRには18時24分12秒から18時56分28秒までの32分16秒間の音声が残っていた。はじめに残っていた音声は「最初の衝撃音」直前の客室とコックピットとのやり取りだった。当時のCVRは30分の1/4インチ・エンドレステープレコーダー(始点と終点の無い輪になったテープを巻いて用いるもの)だったが、30分を超える録音が残っていたのはテープに余分があったためである。
18時24分35秒頃、何らかの衝撃音が録音される。報告書には「ドーン」という爆発音が一度で表されているが音は「ガコン」に近い音が続けて2度。続いて離陸警報音または客室高度警報音が1秒間鳴動し、機長が「なんか爆発したぞ」と発言。衝撃音の直後にオートパイロットが解除されたが、解除されたときに鳴るはずの警告音は何故か記録されていなかった。次に機体(エンジン、ギア等の表示)の点検が行われ、4つのエンジン、着陸ギア等に異常がなかったが、航空機関士が「ハイドロプレッシャー(油圧機器の作動油の圧力)をみませんか」と提案する。25分、機長はスコーク77を発信し、ACCに羽田へ引き返すことを要求した。無線交信の後、機長が副操縦士に対し「バンク(傾き)そんなにとるなマニュアル(手動操縦)だから」「(バンクを)戻せ」と怒鳴る声が記録されている。しかし、副操縦士は「戻らない」と返答した。その際、航空機関士がハイドロが異常に低下している事に気づいた。27分、異常発生から僅か3分足らずで圧力の喪失を示したとみられる「ハイドロプレッシャーオールロス」という航空機関士の音声が記録されている(事故調査報告書では、異常発生後1分足らずで油圧喪失に陥ったとしている)。
同じ頃客室の気圧が減少している事を示す警報音が鳴っている為、とにかく低空へ降下しようとした。しかし、ほとんどコントロールが出来ない機体にはフゴイド運動やダッチロールが生じピッチングとヨーイング、ローリングを繰り返した。そのため、墜落の瞬間まで頻繁に「あたま(機首)下げろ」「上げろ」という言葉が記録されている。
31分頃、航空機関士に対し客室乗務員から客室の収納スペースが破損したと報告が入る。33分、航空機関士が緊急降下(エマージェンシー・ディセンド)と同時に酸素マスク着用を提案。酸素マスク着用を促す航空機関士に対して機長、副操縦士が同意するが、3名とも墜落まで着用した形跡はない。その理由については不明である。35分、羽田空港にある日航のオペレーションセンターとの交信では航空機関士が「R5のドア(機体右側最後部のドア)がブロークン(破損)しました」と連絡している。R5のドアは墜落現場で破損していない状態で発見されている。航空機関士は機長に対して「R5付近の酸素がおっこちてます、ディセンドしたほうが良いと思います」と報告した、後に「荷物の収納スペースのところがおっこちてる」と報告している。なぜ「R5のドアがブロークン」と羽田の日航オペレーションセンターへ連絡したのか、そもそも連絡がどのような内容だったかは不明であるが機体維持に必死だったために混沌した状況下、言ってしまった可能性が高い。
37分、機長が降下(ディセンド)を指示するが機首は1000mあまりの上昇や降下を繰り返すなど、不安定な飛行を続けた。これを回避するために38分頃着陸ギアを降ろそうとするが油圧喪失のため降ろせなかった。40分、パイロットはギアの自重により着陸ギアを出すバックアップシステムを用いて着陸ギアを降ろした。この操作によって機体は右に大半径で旋回しながら降下し、同時にロール軸の振幅が縮小して多少安定した。
46分、機長の「これはだめかもわからんね」との発言が記録されている。47分頃から彼らの中でも会話が頻繁になり、焦りが見え始めていた。この頃から山岳地帯へと迷走していった。右、左との方向転換が繰り返し指示されている。その会話の中、機長が操縦している副操縦士に対して「山にぶつかるぞ」と緊迫した会話が数回記録されている。この時機体は6000ft(1800m)前後をさまよっていた。48分頃には航空機関士が、操縦する副操縦士に「がんばれー」と励ますとともにたびたび副操縦士の補助をしていた様子が記録されている。この頃からエンジン出力(パワー)の強弱で高度を変化させる操縦を行いはじめたと思われる。機長の機首下げの指示に対して副操縦士は「今舵いっぱい」と返答している。
49分頃、機首が39度に上がり、速度は108kt(200km/h)まで落ちて失速警報装置が作動した。この頃から機体の安定感が崩れ何度も機首の上げ下げを繰り返し、そのたびに「パワー」と指示する声が残っている。50分、困惑する副操縦士に機長が「どーんといこうや」と励ます音声が残っている。機長が「あたま下げろ、がんばれ」との励ましに対して副操縦士は「今舵いっぱいです」と叫んでいる。この頃速度が頻繁に変化し不安定な飛行が続いていたためか、副操縦士が速度に関して頻繁に報告をしている。51分、依然続くフゴイド運動を抑えるために電動でフラップが出され、53分頃から機体が安定しだした。
54分、クルーは現在地を見失い航空機関士が羽田に現在地を尋ね、埼玉県熊谷市から25マイル西の地点であると告げられる。その間、しばらく安定していた機体の機首が再び上がり速度が180kt(330km/h)まで落ちた。パワーと操縦桿で機首下げを試みたが機首は下がらなかった。55分01秒、機長は副操縦士にフラップを下げられるか尋ね副操縦士は「はいフラップー10(今10度下がっているという意味)」と返答し、フラップを出し機体を水平に戻そうとした。
しかし55分12秒、フラップを下げた途端、機体は右にそれながら急降下を始める。55分15秒から機長は機首上げを指示。43秒、機長が「フラップ止めな」と叫ぶまでフラップは最終的に25度まで下がり続けた。45秒、「アーッ」という叫び声が記録されている。50秒頃、副操縦士が「フラップアップフラップアップ」と連呼し、すぐさまフラップを引き上げたが更に降下率が上がった。この頃高度は10000ft(3000m)を切っていた。56分00秒頃、機長がパワーとフラップを上げるよう指示するが航空機関士が「あげてます」と返答する。07秒頃には機首は36度も下がり、ロール角も最大80度を超えた。機長は最期まで「あたま上げろー、パワー」と叫んだ。
123便の墜落
クルーの努力も空しく123便は降下し続け、18時56分14秒に対地接近警報装置が作動。同17秒頃、機体はわずかに上昇しだしたが18時56分23秒、機体後部と右主翼が樹木と接触した。このとき、機首を上げるためエンジン出力を上げたことと急降下したことで、速度は346kt(640km/h)に達していた。接触後、水切りのように一旦上昇したものの機体は大きく機首を下げ右に傾いた。26秒、右主翼が地面をえぐり同時に機体の破壊が始まった(垂直・水平尾翼、右主翼の脱落)。28秒には機体後部が分離。機体は機首を下げながら右側に回転してゆき18時56分30秒、高天原山の斜面に前のめりに反転するような形で衝突、墜落した。
これらの正確な墜落時間は、東京大学地震研究所が長野県川上村に設置していた地震計に異常な震動が記録されていたため特定できた。18時56分28秒まで録音され続けていたボイスレコーダーには23秒と26秒頃に衝撃音が残されていた。23秒の衝撃音の直前には、機長の「もうだめだ」とも聞き取れる叫び声も記録されていた(その後、ボイスレコーダーに録音されていた音声は活字の形で公表されたがこの叫び声は判読不能とされている)。
衝撃によって、機体前部から主翼付近の客室は原形をとどめないほどバラバラになり炎上した(後の調査によれば機体の大部分は数百Gの衝撃が加わったとされる)。両主翼も離断し炎上した。一方、28秒に分離した客室後部と尾翼は山の稜線を超えて斜面を滑落していった。客室後部は尾根への激突を免れて、斜面に平行に近い角度で着地し、樹木をなぎ倒しながら尾根の斜面を滑落して時間をかけて減速した。
このため最大の衝撃が小さく、それ以外の部位と比較して軽度の損傷にとどまった。また、火災も発生しなかった。これらの要因によって、客室後部の座席に座っていた女性4名は奇跡的に生還できた。しかしその他の者は即死(遺体さえバラバラに吹き飛び原型を留めなかった者もあった。機長も唯一、一部の歯と見られるものが残っていただけだった)もしくはそれに近い状況だった。
123便の捜索・救難活動
123便の機影は墜落直前、18時56分02秒にレーダーから消失した。高度3000m以上は通常レーダーにより監視されていることからアンテナが箱根山の山頂にあるレーダーにも写らない低空飛行、地上への墜落のいずれかの事態が考えられた。18時59分、救難調整本部が警視庁、航空自衛隊、海上保安庁に通報した。一部関係者は低空飛行をし続けている事を願い、日航、ACCなどが123便に対して呼び出しを続けていた。社内専用無線では同僚たちからクルー達への励ましの言葉も伝えられたと言われている。19時21分に自衛隊機が秩父市近郊で山火事を発見する。
後述の通り、この時点では上空からのおおよその特定のみで墜落現場の正確な地点の発表や報道はされていない。一部でここが123便の墜落地点かと推測も飛び交ったが、日航、ACCなどは諦めずに交信し続けた。だが19時半を過ぎても依然としてレーダーに123便の機影は写らず、どの空港や基地にも123便が着陸したとの情報もなく墜落がほぼ確実なものとなった。たとえ低空飛行を続けていたとしても燃料が枯渇する頃と推測されたため、各機関は捜索準備に取りかかる。レーダー消失地点などから捜索エリアは群馬県と長野県の県境付近と設定され19時45分、運輸省(当時)に捜索本部が設置され捜索が開始された。そして20時30分、関係機関は山火事が確認された長野県南佐久郡近郊を123便の正式な墜落地点とした。
複雑な地形、険しい山地、日暮れの時間帯という悪条件が重なり、更に県境だったため管轄面のことから一部の新聞社などのヘリコプターや自衛隊機では墜落現場を確認できたが正確な場所の特定にはなお時間がかかった。救助も当時のヘリコプターの装備・仕様では、夜間における接近は困難だったために地上からの救出に全力を挙げることとされたが、レスキュー隊が墜落現場に向けて動き出したのはあくる13日4時前だった。大半は徒歩で現場まで向かい、付近は険しい地形だったため墜落現場に到着したのは事故から14時間ほど経った13日8時半だった。
捜索開始当初、墜落現場は長野県側(テレビのニュース速報テロップでは「長野県佐久市付近に墜落か」と出た時もあった)ではないかという憶測が飛び交ったこと、防衛庁(現・防衛省)の発表やNHKによる「墜落現場」の報道が二転三転したうえ悪戯や誤報の情報に惑わされ各機関が独自の憶測で行動し、連係がとれずおおよその位置しか掴めなかったことも現場の発見を遅らせた。
また、123便が輸送していた医療用放射性同位体や一部動翼のマスバランスに使われていた劣化ウランなどによる周辺への放射能汚染の警戒も、到着が遅れた一因となった。
結局、現場に一番早く到着したのは日の出とともに登った地元の消防団だった。
123便の自衛隊の捜索協力
事故直後、123便が墜落したと判断した航空自衛隊レーダーサイト要員からの具申を受け、当時の中部航空方面隊司令官・松永貞昭空将は捜索機の緊急発進を了承。百里基地にスクランブル待機していた第305飛行隊のF-4EJ戦闘機が現場へ向かったほか、百里救難隊(航空救難団)も待機状態に入ったが災害派遣命令がなかなか出されなかったため、事故から1時間後に独自で出動。また、入間基地及び陸上自衛隊立川基地のヘリコプターも夜間から朝方にかけて現場の詳細な位置を確認して報告した。百里基地のRF-4E偵察機は当時即応体制になかったため、発進は翌朝6時だった。
当時、海上公試中だった海上自衛隊の護衛艦「まつゆき」(艦番号DD-130)は相模湾で事故機の垂直尾翼の一部を偶然発見、回収した。
正式な災害派遣命令が下された後に、陸上自衛隊の部隊などが現地入りして捜索救出活動を行った。現場は険しい山中だったために車輌の進入やヘリコプターの着陸は容易ではなかった。遺体収容に先立って生存者4名が陸上自衛隊の輸送ヘリコプターV-107によって現場から救出・搬送された。この際の上空でホバリング中の機体への生存者の収容作業は、救出活動を象徴する映像となった。
当時の自衛隊には夜間しかも山間部での救難活動が可能なヘリコプターがなく、事故発生直後、事故現場上空で捜索活動を行った航空自衛隊・百里救難隊所属の救難ヘリコプターV-107「バートル」に現場周辺を明るく照らす照明弾が装備されていたものの照明弾が地上に落下した後、「燃焼熱で山火事を誘発する危険性がある」として使用が出来なかった。
これを教訓として1990年より夜間捜索可能な赤外線暗視装置を装備した、UH-60 ブラックホーク救難ヘリコプターが順次調達されている。
事故発生翌日朝、報道のヘリコプターが多数、墜落事故現場上空に殺到した為、現場上空の航空管制の為、航空自衛隊入間基地航空総隊司令部飛行隊所属のYS-11FCが派遣された。
ちなみにそれと時同じくして16年後に付属池田小事件の犯人となる宅間守も元自衛官という肩書きを活かし、生存者の救出活動に飛び入り参加をしている。
123便のアメリカ軍の捜索協力
在日米空軍のC-130123便の墜落位置の特定
墜落機の飛行状況は、アメリカ軍(在日米軍)も把握していた。テレビで放送されたACCの録音テープによれば、米空軍横田基地の管制官は迷走飛行中の123便に対して繰り返し呼びかけていた。
墜落場所も早い段階で把握していたとされており墜落から約1時間後に近くを飛行していたアメリカ空軍のC-130輸送機が墜落現場付近上空に到着、詳細な現場の位置を測定する。
123便の現場に急行
その後、米海軍厚木基地から暗視カメラを搭載している海兵隊の救助ヘリコプターが現場に急行。墜落から僅か2時間で救助態勢が整っていた。しかし救助のためにヘリから隊員を降ろそうとしたとき、基地の当直将校からすぐ基地に帰還するよう命令された。
日本の事故に対する米軍の救出活動の参加には日本政府の許可が必要だったため米軍は日本政府に支援を打診、政府は警察庁に連絡したが不要とされたと言われている。国内の事故に対する米軍の救出活動への参加と政府の迅速な判断に課題を残した。
なお警察庁上層部が米軍の協力を拒んだ理由は明らかになっていないが、メンツが理由とも国内の事故に指揮命令系統が違う米軍が介入することで現場に混乱をきたすことを避けたとも諸説ある。
123便の関係機関の連携体制
この在日米軍による現場特定・ヘリによる救出の申し出は事故当日にニュース速報として流されたが、翌日未明には「アメリカ軍の現場特定及び救出活動の申し出はすべて誤報だった」として否定された。
佐藤守元航空自衛隊空将は後日、「在日アメリカ軍報道部長から確認したこと」として「アメリカ軍から援助の申し出があったのは事実であるが当時の在日アメリカ軍は特殊な機材を搭載したヘリコプターを装備しておらず、具体的な支援の内容は救出された怪我人の搬送等でありさらにそれを日本側が拒否した事実もない」とし、「オーストラリアの新聞記事に無批判に追随した報道各社がデマを広げた」と批判した。これらの報道の流れは事故原因に関する憶測を生む一因ともなった。
なお、事故より10年後に「在日アメリカ軍の現場特定・救助の申し出は事実だった」と改めて発表されている。この内容は後年に新潮社の週刊誌に詳細記事として掲載されたり、上智大学文学部で英語の入試問題として採用されたりしている。
また当時の東京消防庁航空隊には強力サーチライトを搭載したアエロスパシアル製ヘリコプターが2機配備されており、事故当夜は関係省庁からの要請に備えいつでも出動できるように待機していたが東京消防庁に出動要請は来なかった。のちに運輸省・警察庁・防衛庁ともに、この東京消防庁所有の高性能ヘリコプターの存在を知らなかった事が明らかになった。東京消防庁も自ら出動を申し出なかった受身の状態だった事もあり、緊急時における縦割り行政の救難体制の問題点が浮き彫りになった。
123便の遺体収容・検屍・身元確認作業
墜落時の猛烈な衝撃と火災によって、犠牲者の遺体の大半は激しく損傷していた。盛夏だったこともあり遺体の腐敗の進行も早かった。遺体は機体から投げ出され樹木に突き刺さったもの、機体の残骸に挟まれたり切断されたもの、一部が落下の衝撃で地中深くに埋もれたもの、圧力によって2名の体が一つにめり込むように合体したようなものなどが発見された。遺体の部位によっては、挫砕され完全に識別困難となった部位や墜落の摩擦で完全に消失した部位もあった。また当時はDNA型鑑定の技術も確立されていなかったために、身元の特定は困難を極めた。例として、機長の遺体は顎の骨(前歯5本)のみだった。これは墜落時の体にかかる衝撃の凄まじさを物語っている(推算によるとこの墜落事故で一人にかかる衝撃は980tと言われている)。当便の乗客だった歌手の坂本九は、胴体しか残っておらず身に付けていた笠間稲荷神社のペンダントで判明した。
当初遺体は墜落現場から山道を自衛隊員・地元消防団・警察官等で人海戦術を使い上野村で検屍、身元確認作業を考えていたが「遺体の損傷が酷く、山道で降ろす場合上野村まで時間も掛かり気候・気温と時間経過により遺体の腐敗進行が早まっている為、人海戦術では無理」と判断され、「上野村ではあまりにも規模が大きく対処しきれない」と結論付けられた。一部書籍によると、表向き「上野村では不便」「上野村までの交通が混雑する」となっているが、本当の理由は「膨大な数になる棺(棺桶)を安置する場所がなかった」との事だった。墜落現場に臨時のヘリコプター発着場が自衛隊によって突貫作業で造られ8月14日午前から遺体搬出作業が始まり、直線距離で墜落現場から約45キロ離れた群馬県藤岡市へ自衛隊・警察のヘリコプターで運ばれた。藤岡市立藤岡第一小学校・校庭が、墜落現場からヘリコプターで搬出された遺体を載せたヘリコプターの発着場となった。
群馬県藤岡市にある「藤岡市民体育館」に遺体検視兼安置所が設置された。家族待機所・遺体安置所として藤岡市内の小学校・中学校・高校の体育館が開放された。地元群馬県警察医師会所属の医師のほか群馬県内外の医師、群馬大学医学部の教授陣、法医学者、法歯学者、歯科医師、看護師、日赤などが全国から駆け付け、猛暑・悪臭などの劣悪な環境の中で判別作業が進められた。事故現場から搬出され、検屍された遺体総数は指1本、臓器だけの部位遺体も含めて2065体に上り、520人の犠牲者のうちほぼ五体揃った遺体として発見されたのは177体。その殆どが機体後部からのものだった。他は身体の一部や遺留品のみで識別され、身元が判別できないままの膨大な量の遺体片が約400体強残された。機長は下顎と歯のみが発見されている。膨大な量の遺体片が残ってしまった理由が、ジグゾーパズルのようになった遺骨を、ひとつひとつ合わせていく気の長くなるような作業を、一刻も早く弔ってやりたい遺族が待てるはずなどなかったことである。そんな中、海外から訪れた遺族の中には、遺体安置所に駆けつけて生存不可能と判断して、骨も遺品もいらないと法医学者に言い残して立ち去っていた。
また、アメリカ人1名を含む2名の遺体は遂に確認できなかった。最終的な身元確認作業の終了までには、約4ヶ月の時間と膨大な人員を要した。また死体回収にかかわった大半の人が普段の生活において、肉類の食事を取る事が出来なかったという。「米が蛆に見えてしまう」との理由から、米類を食べられなかった者もいた。最終的に確認できなかった部位は同年12月に群馬県前橋市の群馬県民会館で執り行われた合同慰霊祭で出棺式が行なわれ、荼毘にされた後、墜落現場に近い上野村の「慰霊の園」に納骨埋葬された。その後十数年を経た頃に、現場跡から遺骨片が発見されるケースもあった。
123便の日本航空123便墜落事故の報道態勢
(報道順)
123便のNHK
NHK総合テレビにおいては19時の定時ニュースの終了直前(19時26分)に、松平定知アナウンサーから「羽田の空港事務所に入った連絡によると、午後6時に羽田を出発した大阪行き日航ジャンボ機の機影がレーダーから消えた」と短い原稿読み上げがあった。ミニ番組 テレマップ を挟み、19時30分からはお盆の夏季編成としてNHK特集 人間のこえ・日独米ソ・兵士たちの遺稿 が予定通り始まったが19時35分頃には「急遽番組を中止します」のアナウンスとともに画面はニューススタジオに切り替わった。このとき専門家として マッハの恐怖 などの航空事故解析の著書に実績のある柳田邦男(元NHK社会部記者でもある)が解説に入ったが、当日の21時40分からは柳田原作のドラマ マリコ が放送される予定でドラマの作者が航空専門家という偶然があった。ただし事故発生当時、本人は自宅にいて当時 ニュースセンター9時 のキャスターだった木村太郎からの出演要請により、多摩の自宅からタクシーで入局した。局に向かうタクシーの中で、テレビの1-3チャンネルが受信できる携帯ラジオを使ってNHKテレビのニュースを聴きながら事故の全貌を分析したという。 死角 -巨大事故の現場- (新潮社文庫版)では、解説で倉嶋厚が当時のスタジオ内の状況を書いている。この後、日航本社、運輸省、帝国ホテル(乗客家族の対応拠点)、羽田東急ホテル(乗客家族の対応拠点)、羽田空港、大阪空港、当初墜落地点とされた長野県の長野放送局や長野県警などからの中継を交え、終夜放送となった。翌13日朝からの通常番組は休止され、報道特番態勢が続けられ墜落現場上空からヘリの生中継を伝えていた。
2005年に放送されたNHKテレビドラマ クライマーズ・ハイ のワンシーンにドラマ内映像として松平アナウンサーが速報で第一報を伝えるシーン、大阪空港日航対策室からの報告するシーン、NHK長野放送局からの報告するシーン、NHK社会部からの最新情報を伝えるシーン等、当時の映像が使われた。
123便のTBS
TBSの第一報は20時までの放送予定だった クイズ100人に聞きました 内で19時半頃流した「ニュース速報」だった。TBSは通常通りの放送態勢だったが20時から 水戸黄門 、20時55分から5分間ニュースで速報を伝えた後、21時から 月曜ロードショー 映画 東京裁判・後編 を放送していたが各番組内で逐一「ニュース速報」を流し続けた。TBSは映画 東京裁判・後編 を最後まで放送した後、日付が変わった13日0時2分からの JNNニュースデスク は内容を大幅変更して放送し、0時17分からの JNNスポーツデスク の通常通りの放送を経て0時32分から予定していた深夜番組を休止し、「JNN報道特別番組」に切り替え JNNニュースコープ 司会の田畑光永キャスターを、メイン・キャスターとして JNN報道特別番組 を朝まで伝える終夜放送とした。翌13日朝の 森本ワイド モーニングEye も報道特番態勢で、墜落現場上空からヘリの生中継を伝えていた。
123便のフジテレビ
フジテレビの第一報は 月曜ドラマランド 「一休さん」(富田靖子主演)放送中の19時半頃に流した「ニュース速報」だった。その後ドラマを中断することなくドラマ内で逐一「ニュース速報」を流し続けた。22時より露木茂アナウンサーをメインにした FNN報道特別番組 を放送を開始、約10時間に渡り放送した。現在はスポーツ中継担当の三宅正治アナ(当時は入社4ヶ月の新人)が日航機墜落事故のリポーターを務めたことでも知られている。「金曜エンタテイメント」特別企画 8・12日航機墜落事故 20年目の誓い?天国にいるわが子へ? の再現ドラマ内の第一報のシーンは「ムツゴロウ王国」の映像が使われていた。
翌13日朝の おはようナイスデイ も報道特番態勢で、墜落現場上空からヘリの生中継を伝えていた。生中継に必要な機材を墜落現場に運び上げ、現場上空の同社ヘリが受信中継し FNNニュースレポート11:30 において生存者救出の映像を事故現場から唯一生中継した(他局は生中継機材が間に合わず、録画取材となった)。 笑っていいとも! は放送開始後10分で途中中断され、生存者が陸上自衛隊ヘリに引き上げられる映像の生中継に変更された。
123便のテレビ朝日
テレビ朝日の第一報は 月曜スペシャル90 内で19時半頃流した「ニュース速報」だった。21時から予定していた番組を変更し「ANN報道特別番組」に変更された。翌13日朝の モーニングショー も報道特番態勢で、墜落現場上空からヘリの生中継を伝えていた。
123便の日本テレビ
日本テレビの第一報は、19時過ぎにアニメ番組 ダーティペア (当時:毎週月曜19時から放送)内にて日本航空123便が行方不明になったことを「ニュース速報」としてテロップで流した。その後、19時45分にもバラエティー番組 大きなお世話だ (当時:毎週月曜19時30分から放送)内でも乗員乗客数を付け加えた「ニュース速報」を流した。続いて放送されていた日本テレビの ザ・トップテン (当時:毎週月曜20時から放送)では番組冒頭に報道センターから小林完吾キャスターが速報で日本航空123便が行方不明になったこと(この時点では墜落は未確定)を報道していた、その後時折番組を中断して報道センターから最新情報(長野県警による「墜落確認」が入る)を伝えた。20時55分のNNNニューススポットを経て、21時から予定していた通常番組を変更し NNN報道スペシャル の報道特番に変更され、久保晴生キャスターがメインキャスターで伝え、専門家として航空評論家・中村浩美が解説した。その後23時からの きょうの出来事 も大幅に内容を変更し報道特番態勢になり、後続番組 11PM を休止し小林完吾キャスターが きょうの出来事 から引き続き NNN報道特別番組 を朝まで伝える終夜放送とした。翌13日朝の ズームイン!!朝! 、 ルックルックこんにちは も報道特番態勢で墜落現場上空からヘリの生中継を伝えていた。
123便のニッポン放送
AMラジオ局のニッポン放送は、通常放送の生番組の中で随時速報を入れた。13日1時からの生放送番組 中島みゆきのオールナイトニッポン は、この日事前に録音されていた。このため同番組の中止を決定し、オールナイトニッポン第2部担当の上柳昌彦アナウンサーが早朝5時まで報道特番を担当した。
123便の毎日放送ラジオ
大阪のラジオ局・毎日放送は、月曜22時からのレギュラー番組 MBSヤングタウン のほとんどを関連のニュースに充てた。この日のパーソナリティー・明石家さんまも123便に乗ってスタジオに入る予定だったが、急遽搭乗便を1本早め難を逃れた。このため明石家自身のショックも大きく、ニュース以外の部分では音楽が流された。
123便の毎日放送テレビ
大阪のテレビ局・毎日放送はTBSと同じ編成だったが、翌13日の MBSナウ では関連ニュースを中心に伝えた。
123便のFM東京
FM東京では、13日0時からのJALのスポンサー番組 JET STREAM ではアナウンサーが搭乗者名簿を読み上げた。他のネット局向けには通常の同番組と同様に城達也が出演したものの、一切のCMおよび番組中のCMメッセージを流すことなく(もちろん提供クレジットの読み上げもなし)生放送で対応した。なお、事故後しばらくの間、同番組のスポンサーから一時的に撤退することになった。また毎年8月12日放送分は遺族に配慮し、JALのCMは放送されない。
123便の新聞各紙
翌朝の新聞一面はこの事故がトップとなったが夜間の為、墜落地点の情報が錯綜したまま朝刊締切時間となり印刷され「長野で墜落」や「長野・群馬県境付近で墜落」などの見出しとなった。
123便の写真週刊誌など
最初に現場へ到着したカメラマンは、FLASHが専属契約をしていた大学生アルバイトカメラマンだった。カメラマンの間では、今でも折に触れ日航機事故の話題がのぼる。カメラマンらの撮影した現場写真の多くが、写真週刊誌に無修正で掲載された。
123便の記者会見
1985年8月13日8時、羽田空港オペレーションセンターで高木養根社長による5分間の記者会見。
8時30分ごろ羽田空港21番スポット(VIP用〈当時〉)に到着した遺族搭乗の大阪発臨時便のタラップ下で高木養根社長が遺族に頭を下げた(機内で行なう予定が報道陣のため降りた)。その写真をAFPが配信、ニューヨーク・タイムスの8月14日の記事や8月17日の社説などに取り上げられた。
出典:新藤健一 映像のトリック 講談社現代新書 1986年 ISBN 4-06-148804-X による。
123便の事故の原因
ボーイング747型機の後部圧力隔壁(機内側より)航空事故調査委員会が結論付けた事故原因の要点は以下の通りである。
1978年6月2日に伊丹空港で同機がしりもち事故を起こした。
その後のボーイング社による修理が不適切だったため、飛行の度に客室へ与圧を繰り返す内に圧力隔壁に金属疲労が蓄積した。
金属疲労が限界を超え、そのために飛行中に圧力隔壁の破壊が発生した。
圧力隔壁から漏れ出した空気が後部の空洞を伝って垂直尾翼を破壊し、航空機後部の4系統ある油圧操縦システムの全てが失われて操縦不能に陥った。
油圧の無い状況でフラップを出しすぎたため、急激なダイブに陥り墜落した。
123便のその他の仮説
航空事故調査委員会による結論以外に様々な仮説が出されているが、科学的検証が不十分な(もしくは全く無い)仮説が散見されており注意が必要である。
「航空事故調査委員会による結論」は当時の乗員・乗客の行動や生存者の証言との矛盾点として圧力隔壁破壊が発生した場合に起きる急減圧、室温低下などの現象が証言からは発生したことが窺えない点が指摘されている。それによれば7000メートルを超す高空で圧力隔壁が破壊された場合、機内の気圧が急激に低下し減圧症により乗員・乗客が意識を喪失してしまう可能性が高いにもかかわらず、同機では前述のように遺書を残したり機内を撮影した乗客がいることを考えると急減圧が起きていなかったのではないかと推測されるのである(実際に2005年8月14日にキプロス・ヘリオス航空のボーイング737型機がギリシャ北部の山中へ墜落したヘリオス航空522便墜落事故では、与圧装置のモード変更ミスによって同レベルの高高度で上記の「急減圧」が発生し操縦士が意識を喪失したことが墜落の主原因とされている。救援に向かったギリシャ空軍戦闘機のパイロットが目撃。急減圧が発生すれば人体への影響が大きい事を示している)。
この矛盾のため、フラッター現象や機体の構造的欠陥(2002年に機体の老朽化によりチャイナエアラインのボーイング747型機が南シナ海海上で空中分解を起こしたチャイナエアライン611便空中分解事故がある)などの他の事故原因を主張する専門家やジャーナリストも多い。また垂直尾翼が破損した後に多くの部品が相模湾に落下したが、事故調査委員会が事故原因の鍵を握っているはずのそれらの部品の捜索を早期に始めず、またすぐに打ち切ったことが「航空事故調査委員会による結論」に疑問的見解を持つ者たちの一つの拠り所になっている。
また、当時ボーイング社が事故原因の結論を急いでいたとの指摘もある。これは同年6月に大西洋上でインド航空のボーイング747が墜落する事故(後に爆破テロと判明)が発生しており、ボーイング747シリーズ全体に重大な欠陥が存在していた可能性があると考えられたためである。結果的に事故機固有の欠陥が原因であるとされたが、400型では垂直尾翼の設計が変更になっている。このことからボーイング747型機の気密安全の構造上の問題(急激ではない、慢性的な圧力漏れがあった際には、圧力隔壁後部の機体側に存在する安全弁が働かない可能性など)を隠し、世界中で運行されていた747型機を飛行停止にしないために事故原因を単なる修理ミスによる圧力隔壁の急激な破壊として事故の早期解決を図ったとの意見もあり、実際に事故後に400型機へと改良された際に上記の気密安全構造が改修されているという事実も存在する。
一部で、自衛隊の訓練用空対空ミサイル標的機や訓練用空対空ミサイルの衝突など外部から受けた衝突などの説が囁かれているがもし標的機やミサイルなどが衝突した場合、空中分解に至らずも尾翼周辺に何らかの痕跡が残るのは必至で隠滅も困難だが、機体後部は垂直尾翼を除き大半が回収されており痕跡も発見されていない。
このことから最も有力な事故原因の仮説としてはボーイング社による修理ミスを起因とした圧力隔壁の破壊ではなく、ボーイング社による垂直尾翼の設計時の不備が主因として唱える者もいる。
なおCVRは現在日本航空が管理していて、今後再調査の必要が生じれば提供する用意があるとのことである。日本航空機長組合、日本航空乗員組合は2006年11月現在も事故調査結果に納得しない旨、再調査を求める意見をウェブサイト上に掲げている。しかし事故から20年を迎えた2005年、航空・鉄道事故調査委員会は「現在のところ事故の再調査をする予定はない」と公表している。
123便の乗客
この日は夏休み中で翌日の「お盆の入り」を控えていたこともあり、休みに入っていた人が多かった。そのため同機には出張帰りのサラリーマンのほか、帰省客や翌日に行われる甲子園球場での高校野球選手権大会に出場する学校の関係者、茨城県筑波郡(現・つくば市)で開催されていて日航は同博覧会の「オフィシャル・エアライン」を務めていた筑波科学万博や東京ディズニーランドなどからの帰宅者、海外からの観光客なども多くの搭乗者があり、ほぼ満席の状態だった。高校野球観戦のため一人で搭乗していた9歳の子供も犠牲となってしまった。生存者は4名(全員女性)で、うち1名は日本航空の非番の客室乗務員だった。
歌手の坂本九、元宝塚歌劇団娘役で女優の北原遥子、21年ぶりのリーグ優勝を目前にした阪神タイガース球団社長の中埜肇、ハウス食品社長の浦上郁夫、大相撲の伊勢ヶ濱親方(元大関・清國)の妻子、タレントの吹田明日香の母、大阪大学教授の塚原仲晃、コピーライターで中島らもの師匠でもあった藤島克彦など著名人が多く乗り合わせていたことも大きな関心を引いた。中埜は阪神電鉄の久万俊二郎社長(阪神タイガースオーナー)の代理として東京へ出張し、大阪の阪神電鉄本社に帰る途中に事故に巻き込まれた。浦上はグリコ・森永事件が収束したことを先代社長の墓前に報告するため大阪のハウス食品本社へ帰る途中事故に巻き込まれた。
元・宝塚歌劇団雪組の麻実れいとタレントの明石家さんまは搭乗する予定だったが、いずれも急遽搭乗便を1本早めたため難を逃れた。また当時フジテレビのアナウンサーだった逸見政孝も夏期休暇で大阪への帰省で搭乗する予定だったが妻・晴恵の勧めで直前に取り消し、新幹線に変更していた。当時逸見が司会を務めていた スーパータイム は先輩の露木茂が代行を務め、事故発生後のFNN報道特番も露木が担当した。西川のりお、長江健次、岸本裕史らもこの123便に搭乗予定だったというがこれは本人による談話のため、話題づくりの可能性もある。また有名人と同姓同名の搭乗者がいたため、テレビ局にこの件について多くの問い合わせがあった。当時在京キー局で勤めていたアナウンサーと同姓同名の搭乗者がおり、年齢もほぼ同じだったため多くの人に勘違いされた。また、著名なプロ野球OBと似た名前の搭乗者がいたためそのOBの元にも問い合わせがあったが、名前の読み方が異なり年齢も大幅に違っていたため、誤解は広がらなかった。
事故当日のダイヤでは18時羽田発、19時大阪着の同時刻・同区間で全日空機も飛んでおり、日航機に乗るか全日空機に乗るかで事故に遭うか否かを分ける結果となった。またその日その時間帯に限って羽田空港と浜松町を結ぶモノレールが10分程度遅れたために搭乗を逃し、バスやタクシーで羽田空港に向かっていたものの渋滞に巻き込まれ搭乗できず結果的に難を逃れた客もいた。一例を挙げると123便の搭乗間際になり老女が腹痛を訴え搭乗をキャンセルしたため、難を逃れた老夫婦と孫もいた。
また新聞等のメディアで公表された搭乗者リストの中に名前があり、生存が絶望視されていたと思われた最中に自宅に帰宅していたり実は乗っていなかったという人も複数(少なくとも3名以上)いた。これは本人名義で既に購入していた事故機の航空券を直前に金券ショップに名義を変えずにそのまま売却したり、その場で第三者にその航空券を譲渡したりしたためである。
結果的に名義人は難を逃れたが代わりに搭乗して犠牲になった第三者は当初搭乗者リストに載らなかったため、第三者の遺族への通達も大幅に遅れ、現場の遺体の識別作業に時間が掛かることとなった。なおこの件に関しては事故の数日後にマスコミにも知らされ、後日改めて新聞等に掲載された搭乗者リストでは名義人の名前は削除されている。当時の報道で、2日程名前の出ていた女性と数日にわたって名前の出ていた男性が確認できる。
なお、阪神の中埜社長の不慮の死で阪神タイガースの選手一同は奮起して21年ぶりのリーグ優勝→日本一達成を果たしたと言われている。8月12日の時点で阪神は首位だったが、この事故の直後に連敗したために一時期は広島に首位の座を譲っていた。
123便のその後
123便の事故後の便名
この事故以降、JAL123便は翌日は欠航、同時刻に臨時便として羽田-大阪間の運航をした。その後8月14?31日までは123便のままで運航していた。9月1日から1ヶ月間は同ダイヤで応急的に133便となり、同年10月以降は同ダイヤで125便として運航が継続されることとなった。以降、JAL123便は無期限の欠番となる。事故による番号の欠番については2005年4月25日のJR福知山線脱線事故で事故列車の列車番号だった「5418M」を無期限欠番とした例もある。また、1966年2月4日の全日空羽田沖墜落事故の「60便」は事故便と同じ羽田?札幌線で最近まで使用されていたものの、現在は何らかの理由で欠番となっている。
1994年9月には関西国際空港が開港し大阪便としての便数振り分けに伴って伊丹便は便数減となり、同ダイヤで107便となり120番台便名は使われなくなった。2000年4月には昼間時間帯に増便されたため同ダイヤで109便となった。
1997年7月には羽田-高知便が開設され再度120番台便名が使用されたが2往復中、羽田発が121便と125便、高知発が122便と126便で123便は使われていない。
2003年4月には日本エアシステムとの統合準備に伴い羽田-高知便は日本エアシステムによる運航に統一されたため、再度120番台便名は使われなくなった。翌年の便名4桁化まで使われることはなかったため、この時点で日本航空の120番台便名は一旦消滅した。
2004年4月の日本航空と日本エアシステムの統合後は便名4桁化に伴い同ダイヤで1525便として運航されていたが、2005年11月に運航ダイヤが調整され1525便は18時30分発に変更された。
2007年4月より羽田発着の幹線を中心とした主要路線の一部便名を3桁に変更した。羽田-伊丹便では2004年3月までと同様に100から(149まで)が使用されることとなり再々度120番台便名が使用されることとなったが、羽田発は121便の次は125便、伊丹発は120便の次は124便となっており123便は使われていない。
123便の運航時刻上の流れを汲む1525便は2007年4月より事故の翌月に応急的に使用された133便となり、18時25分発に変更された。
また、「123」は「任意の3桁の数字」として便宜的にしばしば用いられる数字である。そのため航空に関する事項の説明を行う際、日本のフラッグ・キャリアである日本航空を冠して「日本航空123便」が航空便名の例として用いられることがある。これらを例として用いる場合の多くは、日本航空123便墜落事故の便を指しているのではない。また「日本航空123便」がいわゆる「日航ジャンボ墜落事故」の便名であると知らない者が、意図せず使用することもある。
なお、JALに限らなければ現在ANAが羽田から那覇へ向かう国内路線に123便を使用している。2007年12月現在、羽田9時発・那覇11時45分着、機種は747のハイテク版であるボーイング747-400である。
123便の事故の影響
事故直後に「原因」として航空機の知識に欠けるマスコミによって取りざたされていたものの一つに「操縦ミス説」があった。事故前当時、日本航空ではトラブルが多発していた上、事故の3年前に日本航空が起こした羽田沖墜落事故では機長の異常な操縦が原因で墜落し大惨事を起こした直後ということもあって、世間は事故原因が特定していないにもかかわらず感情的に日本航空関係者やクルー、さらにはその家族にまで怒りをぶつけた。
クルー遺族には連日、嫌がらせや抗議の電話や手紙などが相次いだ。また遺体安置所では日本航空社員が乗客遺族らから暴言、暴行を受ける被害が出ていたためクルーの遺体確認の際は乗客遺族を一度全て退出させた後、裏側から入室、数十分間の限られた時間で確認させたり乗客遺族が帰った深夜に行うなどの措置をとった。そのほか、旅客から地上係員や客室乗務員、空港関係者に対する嫌がらせも一時問題となっていた。なお調査の結果操作ミスではないことが直ちに判明している。
当時の日本航空の社長である高木養根は事故の責任を取って直後に辞任した。1982年の就任(この直後に羽田沖墜落事故が発生)以来わずか4年の社長在任だった。
また事故当時、後楽園球場外野右中間フェンスにあった日本航空の広告看板が事故直後の宣伝活動自粛により一時的に消された。他にもテレビやラジオ、雑誌、新聞などの広告が一定期間出稿停止された。
加えて、1963年の放送開始から優勝者のハワイ旅行の協賛スポンサーだった毎日放送(MBS)制作・TBS系列の アップダウンクイズ は放送を休止した。この事故発生後も同番組は一時的に放送されていたが、概ねプロ野球中継で穴を埋めた。なお放送分も最終回を除き、この事故発生以前に収録されたと推測される。実際、9月8日に放送された「大学生大会」(同番組最後の3人ハワイ行き獲得大会でもあった)では断りのテロップ表示、スチュワーデス登場シーンの割愛等が行われた。同番組は、同年10月6日の放送をもって22年の歴史に幕を閉じた。
さらに、日本航空の客室乗務員をモデルにしたドラマ スチュワーデス物語 の再放送も事故以後しばらく行われなくなった。
この事故に関して日本航空が支払った賠償金の総額は、当時の額で約600億円である。以後数年間、特に帰省ラッシュシーズンには競合相手である全日本空輸と東亜国内航空に利用者が流れ込み、日本航空の業績は一時的に大幅に傾く事態となった。また同社だけでなく全日空や東亜国内航空の利用者も一時的に減ったが、もう1つの競合相手である東海道新幹線(およびその他の鉄道路線)の利用客は増加した。
この事故で日本航空は会社のイメージを一新させるため、CI(コーポレート・アイデンティティ)により塗装を事故時の赤帯の鶴丸塗装から統合前までの実質最後の鶴丸塗装へ一新させた。
123便の現在
墜落現場である「御巣鷹の尾根」には事故の翌年、慰霊碑が建立され毎年8月12日には慰霊登山などが行われている。事故発生から20年以上が経ち、遺族の高齢化が進んでいることから2006年8月より墜落現場付近を通る砂防ダム工事用道路が村道兼林道として一般開放され、墜落現場までの歩く距離が約2.2kmから約800mに短縮された。
事故から15年を目前とした2000年、運航乗務員の遺族が長年訴え続けたCVRの音声が運航乗務員遺族のみに(聴取後に日本航空に返却する条件で)テープで公開された。しかし、同年7?8月にかけて事故調査の資料がマスコミなどに大量に流出した。この中にはCVRの音声テープも入っており、以前に運航乗務員遺族が聞いた音声よりも鮮明だったという。8月8日にはテレビで一部音声が全国で放映され、この報道によって運航乗務員の努力が明らかとなりそれまで運航乗務員に批判的だった多数の乗客遺族らからも感謝や過去に非難・批判した事への謝罪の手紙や声が運航乗務員の遺族に届けられたという。
またこれと前後する形で同年8月、運輸省の航空事故調査委員会が保管期間の切れた一部の事故調査資料を廃棄していたことが毎日新聞により報じられ、再調査を求める遺族からは運輸省側の対応を批判する声も上がった。
2006年4月24日、羽田空港整備地区に日本航空安全啓発センターが開設された。JA8119残存機体の一部など、事故に関する資料を展示している。一般公開されているが、見学には事前の申し込みが必要となる。館内は、一般の入館者は撮影禁止となっている。
123便のその他
陸上自衛隊はこの事故による出動の際、メーカーから「野外入浴セット」の提供を受けた。これが隊員の疲労回復に役立つと判明したため制式採用されることとなった。
この事故から、航空機パイロットの間でエンジンパワーの操作だけでもある程度までは飛行機の操縦が可能であることが知られるようになった。
事故発生当初、「ドアが破損した」という交信があったことから1974年に発生したDC-10の墜落事故のように貨物室ドアが外れたために操縦系統に損傷を受け、操縦不能に陥ったと疑われていた。
機内誌「ウインズ」(現・SKYWARD)の当月号には連載中の全国市町村巡りの記事があり、墜落現場である上野村村長の記事が掲載されていたという偶然があった。
機長の発した「これはだめかもわからんね」という言葉はインターネット上で語り継がれており、若い世代が事故を知るきっかけになっている。
1984年頃、「コロコロコミック」に掲載された パーマン 関連の特集ページでパーマン1号に扮した子役が日本航空の747型機を持ち上げている合成写真が掲載されていたが、その機体は「JA8119」だった。
「コロコロコミック」1985年10月号の読者投稿ページ「コロコロファンクラブ」に日本航空機墜落事故の犠牲となったファン達の冥福を祈るメッセージが編集部独自で掲載された。それによると墜落現場からバラバラになった ドラえもん や パーマン の単行本が発見されていたという。
NHKはこの事故を契機に、山岳での報道に対応できる体制を整備した。
123便の遺族側による科学的事故の検証
遺族会員で技術者だった川北宇夫は、技術者の視点から犠牲者がシートベルトで腹を割かれ前方座席に頭を強打する形で死亡していた事実から、三点式のシートベルトの採用や座席を後方向きに設置する案を提起している。これに対して製造元からは座席の位置の変更を行っても床の強度が同じではあまり意味がない、また後ろ向きの姿勢は居住性を損なう可能性があり、あまり実用的な提案ではないとの回答が返ってきた。
しかしこの話とは別に3点式のシートベルトの採用は経費や重量増加の問題をクリアできる可能性があり、すでに一部の小型自家用ジェット機の客席のシートベルトにオプションとして採用されている。またヘルメットの設置、エアバッグの設置や遊園地のジェットコースターのような座席への固定装置の採用は(快適性に問題があるかもしれないが)現実的な選択肢である。2008年現在、エアバッグ内蔵のシートベルトは実用化されており日本航空国際線のプレミアムエコノミークラスでも採用されている。
なお、事故時にシートベルトを軸に体がくの字に折り曲げられる現象は航空業界では「ジャックナイフ」という名前で認知されているようである。
123便の事故を題材にした出版物など
この事故が社会的に与えた影響は大きく、この事故をテーマにした文学作品や漫画なども数多い。
123便の小説
山崎豊子 沈まぬ太陽
当時の日本航空をモデルとして社内からの視点で描いたフィクションの作品。横山秀夫 クライマーズ・ハイ
報道における地元新聞社の苦悩を描いた作品。後述のようにテレビドラマ化・映画化された。123便の漫画
金田一少年の事件簿 では日航機事故をモチーフとした復讐殺人事件として、 海猿 では同様の原因で着水する事故として、 ゴッドハンド輝 では主人公が航空機事故の唯一の生存者であるという話としてそれぞれの作品に取り上げられている。諸星大二郎の連作短編 花咲爺論序説 幻の木 川上より来たりて 天孫降臨 (「妖怪ハンター 天の巻」所収)では、墜落事現場近くにあった“生命の樹”の力により唯一生き残った兄妹とその力を狙うものたちとの攻防が描かれている。小林源文の 御巣鷹山の暑い夏 は自衛隊による事故現場処理の様子を描いた劇画。
123便のテレビ番組
一方テレビでは、ドキュメンタリーやドキュメンタリーと実録ドラマ並行形式等があり2005年は8月12日を前後に放送が相次いだ。
NHK「NHKスペシャル」 思いをつづった文集-あの日を忘れないで-日航機事故 20年目の遺族 - 2005年8月12日放送。
「土曜ドラマ」 クライマーズ・ハイ - 2005年12月10・17日放送(2006年9月30日・10月7日再放送)。
上記の原作をドラマ化。 日本テレビ「NNNドキュメント」 ドキュメント05.「あの夏…御巣鷹山・日航機墜落それぞれの20年」 - 2005年8月14日(深夜)放送。
TBSボイスレコーダー?残された声の記録?ジャンボ機墜落20年目の真実 - 2005年8月12日放送。
途中生放送で慰霊会場からの生中継をはさむ。ドラマでは高浜機長夫人と原因究明に奔走する先輩機長から見た視点を中心に描かれている。 フジテレビ「金曜エンタテイメント」特別企画 8・12日航機墜落事故 20年目の誓い?天国にいるわが子へ? - 2005年8月12日放送(2007年12月15日には一部地域で再放送)。
物語の核は甲子園での高校野球観戦をするため1人で搭乗し、亡くなったある小学生の母親から見た視点で描かれている。また合間には東京航空管制部での対応や、生存者をスクープしたフジテレビカメラマンの話も実録ドラマで描かれている。 テレビ東京坂本九没後20年ドラマスペシャル 上を向いて歩こう 坂本九物語
物語はあくまで坂本九の生涯を描いたためか「大阪行きの航空機」という表現にとどまり、「JAL日本航空」ならびに「JAL123便」の名称は使われなかった。 ナショナルジオグラフィックチャンネルメーデー!3:航空機事故の真実と真相 第3話「御巣鷹の尾根」
123便の演劇
8・12 (劇団裏長屋マンションズ) - 同劇団の座長を務める俳優 赤塚真人が、同事故で親友を失った事実をもとに書き下ろした作品。2004年に初演、事故後20年の節目となった翌年には続編(第二章)が上演され2008年には 8・12 〜絆〜 として再演される。
物語は、父親との確執を抱えたまま事故機に搭乗した青年の思いを軸に実在したクラブハウスを舞台に描かれる。同劇団では、作品の上演にあたり毎年御巣鷹山への慰霊登山を実施しているという。CVR チャーリー・ビクター・ロミオ - さまざまな航空事故のCVRを再現。そのうちのひとつが本事故。2003年。
赤い鳥逃げた・・・日航123便墜落事故より (劇団離風霊船) - 事故の翌年(1986年)1月、池袋シアターグリーンにて初演。同年11月「フルスロットル編」として再演。その後1988・89・95・2005年にも再演されている。
123便の映画
御巣鷹山 - 渡辺文樹監督作品。自主制作のフィクション。上野村をはじめ、全国各地で上映を告知する異様な捨て看板が目撃されている。
クライマーズ・ハイ - 横山秀夫の原作を映画化。2008年、7月公開。
123便の脚注・出典
123便の参考文献
日航ジャンボ機墜落事故 朝日新聞社会部編 朝日新聞社 1985年
ジャンボ墜落 吉原公一郎 人間の科学社 1985年
疑惑?JAL123便墜落事故 角田四郎 早稲田出版 1993年 ISBN 4898271529
JAL123便は自衛隊が撃墜した 池田昌昭 文芸社 1998年 ISBN 4887371535
墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便 飯塚訓 講談社 2001年 ISBN 4062565153
日本怪死人列伝 安部譲二 産経新聞 2002年 ISBN 459403487X → 文庫版 扶桑社 2004年 ISBN 4594045588
隠された証言?JAL123便墜落事故 藤田日出男 新潮社 2003年 ISBN 4104620017
日航機墜落 123便、捜索の真相 河村一男 イースト・プレス 2004年 ISBN 4872574486
壊れた尾翼-日航ジャンボ機墜落の真実 加藤寛一郎 講談社 2004年 ISBN 9784062568548
御巣鷹の謎を追う-日航123便事故20年 米田憲司 宝島社 2005年 ISBN 4796646671
◇出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)『123便』より取得日:2008-08-14
123便の関連サイト
- 123便事故特集 - 日本航空三乗組
日本航空機長組合、乗員組合、先任航空機関士組合による。 - 123便 メモ
123便は日本への、日本人への攻撃であり天皇陛下への脅しであるという意味において私は怒りがこみ上げてくるわけであり膨大な写真集を作成する原動力となったものであります。 - 123便事故特集 目次
乗客乗員520名が犠牲になった日本航空123便事故から15年の歳月が流れました。 - 日本航空123便墜落事故 - Wikipedia
123便は18時24分47秒に緊急救難信号「スコーク77(7700)」を発信、信号は東京航空交通管制部(ACC)に傍受される。 - 123便とは - はてなダイアリー
123便 - 1985年8月12日の日航機墜落事故において墜落した事故機の便名。 - 123便
日本航空123便(JA8119号機)の事故から22年目の ... 123便事故後、「何故日本航空に事故が多発するのか」と糾弾され、「儲けるためには法律・規程・約束事も守らない」という「違法体質」が問われました。 - 日航123便(ねこすけ)
日本航空123便(JA8119号機) 御巣鷹山墜落事件 (リンクフリーです) 掲示板を復活させました. 掲示板. MENU. 0.はじめに. 1.概要. 2.CVR音声. 3.CVR全文及びヒアリング. 4.「急減圧」と「しりもち事故」 - 123便
日本航空123便(JA8119号機)の事故から21年目にあたっての ... 1985 年8 月12 日、未曾有の大惨事となった123 便事故の反省を踏まえ日本航空は、再びこのような事故を起こさないために、「絶対安全の確立」を誓いました。 - YouTube - JAL 123便 墜落 3 of 5
1985年 8月 12日 日航機123便 墜落 - 日本航空123便
1985年8月12日、東京発大阪行き日本航空123便が群馬県の山中に墜落し、乗員乗客524名中520名が死亡する大惨事となった。


















