226事件

永田町一帯を占拠した兵士 決起直後叛乱軍将兵。昭和11年2月26日 投降を呼びかけるチラシ。昭和11年2月29日

二・二六事件(ににろくじけん、にてんにろくじけん)は、1936年(昭和11年)2月26日-29日に、日本において、陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こした未曾有クーデター未遂事件である。事件後しばらくは「不祥事件」「帝都不祥事件」とも呼ばれていた。

226事件の事件概要

大日本帝国陸軍内の派閥の一つである皇道派の影響を受けた一部青年将校ら(20歳代の隊付の大尉から少尉が中心)は、かねてから「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンに、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村の困窮が収束すると考えていた。彼らは、この考えの下1936年(昭和11年)2月26日未明に決起し、近衛歩兵第3連隊、歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊らの部隊を指揮して

蹶起直後半蔵門

岡田啓介内閣総理大臣

鈴木貫太郎侍従長

斎藤実内大臣

高橋是清大蔵大臣

渡辺錠太郎陸軍教育総監

牧野伸顕前内大臣

の殺害を図り、斎藤内大臣高橋蔵相、及び渡辺教育総監を殺害、また岡田総理も殺害と発表された(但し誤認)。

その上で、彼らは軍首脳を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えた。しかし軍と政府は、彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧を決意し、包囲して投降を呼びかけた。反乱将校たちは下士官・兵を原隊に復帰させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。

226事件の襲撃決意の背景

革命的な国家社会主義者北一輝が記した 日本改造法案大綱 の中で述べた「君側の奸」の思想の下、天皇を手中に収め、邪魔者を殺し皇道派が主権を握ることを目的とした「昭和維新」「尊皇討奸」の影響を受けた安藤輝三野中四郎香田清貞栗原安秀中橋基明丹生誠忠、磯部浅一、村中孝次らを中心とする一部の青年将校は、政治家財閥系大企業との癒着が代表する政治腐敗や、大恐慌から続く深刻な不況等の現状を打破する必要性を声高に叫んでいた。

これを危険視した陸軍中枢が陸軍士官学校事件において磯部と村中を免官したことも、彼等の中で上官に対する不信感を生んだ。陸軍中枢では「危険思想がある」と判断して、長期に渡り憲兵に青年将校の動向を監視させていた。皇道派統制派との反目は度を深め、統制派の領袖であった永田鉄山陸軍省軍務局長を、1935年(昭和10年)8月12日白昼に相沢三郎中佐が斬殺する事件まで引き起こされた(相沢事件)。

1932年(昭和7年)に起きた五・一五事件で、犬養毅総理を殺害した海軍青年将校らが禁錮15年以下の刑しか受けなかったことも、一部の青年将校に影響を与えたと言われる。但し、五・一五事件は古賀清志海軍中尉らの独断による行動であって、将校としての地位を利用して天皇から預かった兵卒を動員して事件を起こしたわけではない。

資金源三井財閥がテロ対策の一環として、青年将校らによる過激な運動の動向を探るために用意した金で、青年将校らに近く正確な情報が得られると一般的には考えられていた、北一輝が情報の見返りにこれを受け取り、その一部を西田税や青年将校らの周辺で直接的な活動をしていた民間人である渋川善助、水上源一を通じて安藤ら青年将校に渡していた。このため三井は襲撃の対象とされなかったと言われている。

青年将校らは主に東京衛戍の歩兵第1連隊、同第3連隊、近衛歩兵第3連隊に属していたが、第1師団の満州への派遣が内定したことから、彼らはこれを「昭和維新」を妨げる意向と受け取り、第1師団が渡満する前に決起することとなった。そして、一部青年将校らは、1936年(昭和11年)2月26日未明に決起することを決定した。なお慎重論もあり、山口一太郎大尉や、民間人である北と西田税(北の弟子であり、国家社会主義思想家)は時期尚早であると主張したが、それら慎重論を唱える者を、いわば置き去りにするかたちで決起した。

226事件の磯部と陸軍幹部の接触

この決起の前年、磯部浅一は軍上層部の反応を探るべく、数々の幹部に接触している。山下奉文少将国家改造より「アア、何か起こったほうが早いよ」言い、真崎甚三郎大将は「このままでおいたら血を見る。しかし、オレがそれを言うと真崎が扇動していると言われる」と語った。また川島義之陸軍大臣と面会した際には渡辺教育総監に将校の不満が高まっており「このままでは必ず事がおこります」と伝えた。川島陸相は格別の反応を見せなかったが、帰りにニコニコしながら一升瓶を手渡し「この酒は名前がいい。 雄叫(おたけび) というのだ。一本あげよう。自重してやりたまえ。」と告げた。また1936年(昭和11年)1月28日、磯部が真崎大将のもとを訪れて資金協力を要請すると、真崎は政治浪人森伝を通じての500円の提供を約束した。

磯部はこれらの反応から、陸軍上層部が決起に理解を示すと判断した。

226事件の蹶起趣意書

反乱部隊は決起した理由を「蹶起趣意書」にまとめ、天皇に伝達しようとした。蹶起趣意書は先任である野中名義になっているが、野中がしたためた文章を北が大幅に修正したといわれている。

また、蹶起趣意書とともに陸軍大臣に伝えた要望では宇垣一成大将、南次郎大将小磯国昭中将建川美次中将の逮捕・拘束、林銑十郎大将橋本虎之助近衛師団長の罷免を要求している。

226事件の襲撃目標

2月21日、磯部と村中は山口一太郎大尉に襲撃目標リストを見せた。襲撃目標リストは第一次目標と第二次目標に分けられていた。磯部浅一は元老西園寺公望の暗殺を強硬に主張したが、西園寺真崎甚三郎内閣組閣のために利用しようとする山口一太郎大尉が反対した。このため西園寺は第一次襲撃目標から外された。また真崎甚三郎大将教育総監から更迭した責任者である林銑十郎大将の暗殺も議題に上ったが、すでに軍事参議官に退いていたため目標に加えられなかった。また2月22日に暗殺目標を第一次目標に絞ることが決定され、また「天皇機関説」を支持するような訓示をしていたとして 渡辺錠太郎陸軍教育総監が目標に加えられた。

226事件の第一次目標

岡田啓介内閣総理大臣

鈴木貫太郎侍従長

斎藤実内大臣

高橋是清大蔵大臣

牧野伸顕前内大臣

西園寺公望(元老)

226事件の第二次目標

後藤文夫内務大臣

一木喜徳郎(枢密院議長

伊沢多喜男(貴族院議員、元台湾総督

三井高公三井財閥当主

池田成彬(三井合名会社筆頭常務理事)

岩崎小弥太三菱財閥当主

226事件の事件経過

226事件の陸軍将校の指揮による出動

占拠した山王ホテル前を見張る兵士

反乱軍襲撃先の抵抗を抑えるため、前日夜半から当日未明にかけて、連隊の武器を奪い、陸軍将校等の指揮により部隊は出動した。

歩兵第1連隊の週番司令山口一太郎大尉はこれを黙認し、また歩兵第3連隊にあっては週番司令安藤輝三大尉自身が指揮をした。事件当日は雪であった。

反乱軍は圧倒的な兵力や機関銃を保有しており、概ね抵抗を受けることなく襲撃に成功した。但し、総理官邸渡辺大将私邸高橋蔵相私邸及牧野伯爵逗留地では、警備の警察官?憲兵の激しい抵抗を受け、これら警察官?憲兵を殺害又は重傷を負わせている。また、渡辺大将自身も拳銃で応戦したとされている。

226事件の政府首脳・重臣への襲撃

226事件の岡田啓介

岡田(左) と松尾(右)

天皇大権を掣肘する「君側の奸」として内閣総理大臣予備役海軍大将岡田啓介が襲撃の対象となっている。

全体の指揮を中尉栗原安秀が執り、第1小隊を栗原自身が、第2小隊を少尉池田俊彦が、第3小隊を少尉林八郎が、機関銃小隊曹長尾島健次が率いた。

反乱部隊総理大臣官邸に乱入する際、官邸警備に当たっていた巡査部長村上嘉茂衛門官邸内で殺害)、巡査土井清松林八郎を取り押さえようとするが、殺害される)、巡査清水与四郎(庭)、巡査小館喜代松官邸玄関)の4名の警察官は拳銃で応戦するが、襲撃部隊の圧倒的な兵力により殺害される。

警察官の応戦の隙に岡田は押入れに隠れることができた。その間に岡田の義弟で総理秘書官兼身辺警護役をつとめていた大佐松尾伝蔵は反乱将校らの前に自ら走り出て銃殺された。松尾はもともと岡田と容姿が似ていた上、銃撃によって前額部が大きく打ち砕かれ容貌の判別が困難になったため将校らは総理と誤認。目的を果たしたと思いこんだ。

一方、総理生存を知った総理秘書官福田耕総理秘書官迫水久常らは、麹町憲兵分隊憲兵曹長小坂慶助憲兵軍曹青柳利之及び憲兵伍長小倉倉一らと奇策を練り、翌27日に岡田と同年輩の弔問客を官邸に多数入れ、変装させた岡田を退出者に交えてみごと官邸から脱出させた。

226事件の高橋是清

高橋(左)と斎藤(右)
ともに滞米経験があり親米英派だった高橋と斎藤は、個人的に親しい友人でもあった。写真は昭和11年2月20日、斉藤が蔵相官邸に高橋を訪れた際に撮影されたもの。この六日後に両者は壮絶な最期を迎える。

大蔵大臣元総理高橋是清陸軍省所管予算の削減を図っていたために恨みを買っており、襲撃の対象となる。

積極財政により不況からの脱出を図った高橋だが、その結果インフレの兆候が出始め、緊縮政策に取りかかる。高橋は軍部予算海軍陸軍問わず一律に削減する案を実行しようとしたが、これは平素から海軍に対する予算規模の小ささ(対海軍比十分の一)に不平不満を募らせていた陸軍軍人の恨みに火を付ける形となっていた。

叛乱当日は中尉中橋基明及少尉中島莞爾襲撃部隊を指揮し、赤坂表町3丁目の大蔵大臣高橋是清の私邸を襲撃した。警備の巡査玉置英夫が奮戦するが重傷を負う。反乱部隊は蔵相の殺害に成功した。

高橋是清は事件後に位一等追陞されるとともに大勲位菊花大綬章が贈られる。27日午前9時に商工大臣町田忠治兼任大蔵大臣親任式を挙行した。

226事件の斎藤實

内大臣前総理・子爵・予備役海軍大将斎藤實は、天皇の側近たる内大臣の地位にあったことから襲撃を受ける。

襲撃部隊は、中尉坂井直少尉高橋太郎少尉麦屋清済少尉安田優が率いる。東京府東京市四谷区仲町3丁目(現:東京都新宿区)の内大臣斎藤実の私邸が襲撃される。襲撃部隊は警備の警察官の抵抗を制圧して、特に抵抗もなく内府の殺害に成功する。他に犠牲者はいない。斎藤の体からは四十数発もの弾丸が摘出されたが、それが全てではなく、彼の体には摘出不可能な弾丸がなお多く存在していた。

目の前での殺人に妻春子は「撃つなら私を撃ちなさい」と、銃を乱射する青年将校たちの前に立ちはだかり、筒先を掴もうとした。その結果腕貫通銃創を負う。春子はひるまず、なお斎藤をかばおうと彼に覆いかぶさったという。春子の傷口はすぐに手当がなされたものの化膿等により、その後一週間以上高熱が下がらなかった。春子は98歳まで生存したが、晩年に至るまで当時の出来事を鮮明に覚えていた。この事件発生当時に着用していた斎藤実および春子の衣服が斎藤実記念館に現物展示されている。

事件後に位一等追陞されるとともに大勲位菊花大綬章が贈られ、昭和天皇より「誄」(るい:お悔やみの言葉の意)を賜った。

226事件の鈴木貫太郎

侍従長鈴木 (ただし写真は連合艦隊司令長官当時のもの)

侍従長(男爵・予備役海軍大将鈴木貫太郎は、天皇側近たる侍従長、「大御心」(「おおみこころ」と読む。天皇の意思のこと)の発現を妨げると反乱将校が考えていた枢密顧問官の地位にいたことから襲撃を受ける。

叛乱当日は、大尉安藤輝三襲撃部隊を指揮し、東京市麹町区三番町(現:東京都千代田区)の侍従長官邸に乱入した。鈴木は複数の銃弾を撃ち込まれて瀕死の重傷を負うが、妻の鈴木たかの懇願により安藤大尉は止めを刺さず敬礼をして立ち去った。その結果、鈴木は辛うじて一命を取り留める。

安藤は、以前に侍従長鈴木を訪ね時局について話を聞いた事があり、互いに面識があった。面会後、安藤は鈴木について「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。あの人(鈴木)は西郷隆盛のような人で懐が大きい」と言い、一時、決起を思い止まろうとしたとも言われる。

その後、太平洋戦争末期内閣総理大臣となった鈴木は岡田総理を救出した総理秘書官迫水久常鈴木内閣内閣書記官長)の補佐を受けながら、事件当時に侍従武官として職場を同じくしていた阿南惟幾鈴木内閣陸軍大臣)と共に、立場を異にしつつも終戦工作に関わることとなる。

226事件の渡辺錠太郎

教育総監渡辺

陸軍教育総監陸軍大将渡辺錠太郎は反乱将校らが心酔する大将真崎甚三郎の後任として教育総監になったことから、襲撃を受ける。真崎を追い落とした奸賊であるとされたのである。

斎藤内府私邸襲撃後少尉高橋及少尉安田が襲撃を指揮する。時刻は遅く、午前6時過ぎに東京市杉並区上荻窪2丁目の教育総監渡辺錠太郎の私邸が襲撃される。その際、牛込憲兵分隊から派遣されて警護に当たっていた憲兵伍長及憲兵上等兵並びに渡辺大将は、反乱部隊に拳銃で応戦するが殺害される。ここで注意すべきなのは、斎藤や高橋といった重臣が暗殺されたという情報が、渡辺の自宅には入っていなかったということである。

渡辺が殺された重臣と同様、青年将校から極めて憎まれていたことは当時から周知の事実であり、斎藤や高橋が襲撃されてから1時間経過してもなお事件発生を知らせる情報が彼の元に入らず、結果殺害されるに至ったことは、彼の身辺に「敵側」への内通者がいた可能性を想像させる。死の直前、殺されるであろう事を感じた渡辺錠太郎は傍にいた次女 渡辺和子を近くの物陰に隠し、その直後、その場で渡辺錠太郎は殺害された。また目前で父を殺された彼女の記憶によると、機関銃掃射によって渡辺の足は骨が剥き出しとなり、肉が壁一面に飛び散ったという。

事件後に位一等追陞されるとともに勲一等旭日大綬章が贈られる。28日付で、教育総監部本部長陸軍中将中村孝太郎教育総監代理が仰せ付けられた。

226事件の牧野伸顕

牧野

伯爵牧野伸顕は、欧米協調主義を採り、かつて内大臣として天皇の側近にあったことから襲撃を受ける。

大尉河野寿が民間人を主体とした襲撃部隊(河野航空兵大尉以下8人)を指揮し、湯河原伊藤屋旅館元別館である「光風荘」にいた牧野伸顕前内府を襲撃した。警護の巡査皆川義孝は河野らに拳銃を突きつけられて案内を要求され、従う振りをしつつ、振り向きざまに発砲し、襲撃部隊大尉河野及予備役曹長宮田晃を負傷させた。巡査皆川は殺害されたがこれによって襲撃を食い止めた。

脱出を図った牧野は襲撃部隊に遭遇したが、旅館の従業員が牧野を「ご隠居さん」と呼んだために旅館主人の家族と勘違いした兵士によって石垣を抱え下ろされ、近隣の一般人が背負って逃げた。この際、旅館の主人・岩本亀三と牧野の使用人で看護師森鈴江が銃撃を受けて負傷している。

なお吉田茂の娘で牧野の孫にあたる麻生和子は、この日牧野をたずねて同旅館に訪れていた。麻生が晩年に執筆した著書 父吉田茂 の二・二六事件の章には、襲撃を受けてから脱出に成功するまでの模様が生々しく記されているが、脱出に至る経緯については上の記述とは異なった内容となっている。

226事件の警視庁

28日時点で反乱部隊は霞ヶ関・三宅坂一帯を占拠していた

当時、不穏な世情に対応するため警視庁特別警備隊(現在の機動隊に相当する)を編成しており、反乱部隊にとっては脅威とされた。そのため、大尉野中四郎指揮襲撃部隊(約500名)が警視庁を襲撃する。午前5時、襲撃部隊はその圧倒的な兵力及重火器によって、抵抗させる間もなく警視庁全体を制圧、「警察権の発動の停止」を宣言した。

警察は、事件が陸軍将校個人による犯行ではなく、陸軍将校が軍隊を率いて重臣・警察を襲撃したことから、当初より警察による鎮圧を断念し、陸軍、憲兵隊自身による鎮圧を求め、警察は専ら後方の治安維持を担当することとし、警視庁は「非常警備総司令部」を神田錦町警察署に設けた。

226事件の内相官邸

警視庁占拠後警視庁襲撃部隊の一部は治安維持を担当する後藤文夫内務大臣官邸も襲撃され、占拠された。歩兵第3連隊の鈴木金次郎少尉襲撃部隊を指揮していた。後藤本人は外出中で無事だった。

226事件の霞ヶ関・三宅坂一帯の占拠

更に、反乱部隊陸軍省及参謀本部、朝日新聞東京本社なども襲撃し、日本の政治の中枢である永田町、霞ヶ関、赤坂、三宅坂の一帯を占領した。

226事件の鎮圧へ

緊張してカメラマンに銃口を向ける兵士 27日の戒厳令施行を受けて軍人会館に戒厳司令部が設立された 岡田総理の無事と事件後の政局を伝える新聞 三方向から包囲された反乱部隊は抵抗のすべもなかった(29日)

226事件の26日

事件後まもなく北一輝のもとに渋川善助から電話連絡により蹶起の連絡が入った。同じ頃、真崎甚三郎大将も政治浪人亀川哲也からの連絡で事件を知った。

午前5時、本庄繁侍従武官長のもとに反乱部隊将校の一人で、本庄の女婿である山口一太郎大尉の使者伊藤常男少尉が訪れ、事件の勃発を告げた。また午前5時40分には侍従甘露寺受長電話連絡により昭和天皇も事件を知ることになる。天皇は直ちに軍装に着替え、執務室に向かった。

また反乱部隊将校の香田清貞大尉村中孝次、磯部浅一が陸相官邸を訪れ、「蹶起趣意書」を川島義之陸軍大臣に手渡し、要望を伝えた。川島陸相が対応に苦慮しているうちに他の将校も現れ、陸相をつるし上げた。

午前9時半、川島陸相が天皇に拝謁し、反乱軍の「蹶起趣意書」を読み上げた。天皇はなぜそのようなものを読み上げるのかと下問し、川島陸相は反乱軍将校の心情を理解していただきたいと述べた。これに対して天皇は 朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ凶暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ と告げ、 事件ヲ鎮定セヨ と鎮圧の意志を告げた。天皇はこの後本庄侍従武官長を30分おきに呼び出し、暴徒鎮圧の指示を繰り返した。また正午頃迫水秘書官大角岑生海軍大臣岡田首相が官邸で生存していることを伝えたが、大角海相は「聞かなかったことにする」と答えた。

正午半過ぎ、荒木貞夫真崎甚三郎阿部信行林銑十郎植田謙吉・寺内寿一・西義一・朝香宮鳩彦王梨本宮守正王東久邇宮稔彦王といった軍事参議官によって宮中で非公式の会議が開かれ、穏便に事態を収拾させることを目論んで26日午後に川島陸相名で告示が出された。

一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ
二、諸子ノ真意ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム
三、国体ノ真姿顕現ノ現況(弊風ヲモ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘズ
四、各軍事参議官モ一致シテ右ノ趣旨ニヨリ邁進スルコトヲ申合セタリ
五、之以外ハ一ツニ大御心ニ俟ツ

この告示は山下奉文少将によって陸相官邸に集まった香田・野中・津島・村中の将校と磯部浅一らに伝えられたが、意図が不明瞭であったため将校等には政府の意図がわからなかった。しかしその直後、軍事課長村上啓作大佐が「蹶起趣意書」をもとにして「維新大詔案」が作成中であると伝えたため、将校らは自分たちの蹶起の意志が認められたものと理解した。

午後3時、前述の告示が東京警備司令部によって印刷・下達された。しかしこの際に第二条の「諸子の真意は」の部分が

諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム

と「行動」に差し替えられてしまったため、反乱部隊は蹶起が認められたと喜んだ。怪文書としてまともに受け取らない部隊も出てくる有様であった。 午後4時、戦時警備令に基づく第一師団命令が下った。この命令によって反乱部隊は歩兵第3連隊連隊長指揮下に置かれたが、命令の末尾には軍事参議官会議の決定に基づく次のような口達が付属した。

一、敵ト見ズ友軍トナシトモニ警戒ニ任ジ軍相互ノ衝突ヲ絶対ニ避クルコト
二、軍事参議官ハ積極的ニ部隊ヲ説得シ一丸トナリテ活溌ナル経綸ヲ為ス。閣議モ其趣旨ニ従ヒ善処セラル

前述の告示とこの命令は一時的に反乱部隊の蹶起を認めたものとして後に問題となった。反乱部隊の元には次々に上官や友人の将校が激励に集まり、糧食が原隊から運び込まれた。

午後になるとようやく閣僚が集まりはじめ、午後9時に後藤文夫内務大臣が首相臨時代理に指名された。後藤首相代理は閣僚の辞表をまとめて天皇に提出したが、時局の収拾を優先せよと命じて一時預かりとした。その後、閣議が開かれて午後8時40分に戒厳令施行閣議決定された。当初警視庁や海軍は軍政につながる恐れがあるとしてこの戒厳令に反対していた。すみやかな鎮圧を望んでいた昭和天皇の意向を受け、枢密院の召集を経て翌27日早暁ついに戒厳令は施行された。

午後9時、主立った反乱部隊将校は陸相官邸で皇族を除いた荒木・真崎・阿部・林・植田・寺内・西らの軍事参議官と会談したが結論は出なかった。磯部は手記でこの時の様子を親が子供の尻ぬぐいをしてやろうという 好意的な様子を看取できた としている。

226事件の27日

戒厳令の施行により九段の軍人会館に戒厳司令部が設立され、東京警備司令官香椎浩平中将戒厳司令官に、また参謀本部作戦課長で早くから討伐を主張していた石原莞爾大佐戒厳参謀にそれぞれ任命された。しかし、戒厳司令部の命令「戒作命一号」では反乱部隊を「二十六日朝来出動セル部隊」と呼び、反乱部隊とは定義していなかった。

皇軍相撃」を恐れる軍上層部の動きは続いたが、天皇の鎮圧の意志は固く、午前8時20分にとうとう「戒厳司令官三宅坂付近占拠シアル将校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ徹シ各所属部隊ノ隷下ニ復帰セシムベシ」の奉勅命令参謀本部から上奏され、天皇は即座に裁可した。奉勅命令は翌朝5時に下達されることになっていたが、天皇はこの後何度も鎮定の動きを問いただし、さらには 朕自近衛師団ヲ率ヰテ此レガ鎮定ニ当タラン という強い意思を明らかにした。

正午に香椎戒厳司令官は宮中に参内し戒厳令下における帝都の治安状況について奏上した。同日午後0時45分には川島陸相が天皇に拝謁、その後に本庄繁侍従武官長と会見した。この日だけで本庄武官長は天皇と13回も会話を交わし、決起した将校の精神だけでも何とか認めてもらいたいと天皇に言上した。また午後1時20分、岡田首相が官邸から救出された。

奉勅命令はまだ叛乱部隊に伝わってなかったが、「皇軍相撃」を恐れる陸軍首脳反乱部隊の将校らも駆け引きを活発化させた。午後2時、陸相官邸で真崎・西・阿部ら3人の軍事参議官が反乱軍将校と会談を行った。この直前、反乱部隊に北一輝から「人無シ。勇将真崎有リ。国家正義軍ノ為ニ号令シ正義軍速カニ一任セヨ」という「霊告」があった旨連絡があり、反乱部隊は事態収拾を真崎に一任するつもりであった。しかし真崎は原隊復帰を要求するばかりであったため、会談は物別れに終わった。午後4時25分、反乱部隊首相官邸農相官邸文相官邸鉄相官邸山王ホテル、赤坂の料亭「幸楽」を宿所にするよう命令が下った。

226事件の28日

午前0時、反乱部隊奉勅命令の情報が伝わった。午前5時、遂に奉勅命令が下達された。自他共皇道派とされる香椎戒厳司令官反乱部隊に同情的であり、説得による解決を目指し、反乱部隊との折衝を続けていた。この日の早朝には自ら参内して「昭和維新」を断行する意志が天皇にあるか問いただそうとまでした。しかしすでに武力鎮圧の意向を固めていた杉山参謀次長石原戒厳参謀が反対したため「討伐」に意志変更した。

正午、山下少将奉勅命令の下達を反乱部隊に告げた。これをうけて、栗原中尉が反乱部隊将校が自決するかわりに、自決の場に勅使を派遣してもらうことを提案した。川島陸相山下少将の仲介により、本庄侍従武官長から奏上を受けた天皇は 自殺スルナラバ勝手ニ為スベク、此ノ如キモノニ勅使ナド以テノ外ナリ と激怒し拒絶した。しかしこの後もしばらくは軍上層部の調停工作は続いた。

また、奉勅命令を知った反乱部隊兵士の父兄数百人が歩兵第3連隊司令部前に集まり、反乱部隊将校に対して抗議の声を上げた。午後11時、「戒作命十四号」が発令され反乱部隊を「叛乱部隊」とはっきり指定し、「断乎武力ヲ以テ当面ノ治安ヲ恢復セントス」と武力鎮圧の命令が下った。

226事件の29日

29日午前5時10分に討伐命令が発せられ、午前8時30分には攻撃開始命令が下された。戒厳司令部近隣住民を避難させ、反乱部隊の襲撃に備えて愛宕山の日本放送協会を憲兵隊で固めた。同時に投降を呼びかけるビラを飛行機で散布した(冒頭写真)。午前8時55分、ラジオで「兵に告ぐ」と題した「勅命が発せられたのである。既に天皇陛下のご命令が発せられたのである…」に始まる勧告が放送され、また「勅命下る軍旗に手向かふな」と記されたアドバルーンもあげられた。また師団長を始めとする上官が涙を流して説得に当たった。これによって反乱部隊下士官兵は午後2時までに原隊に帰り、安藤輝三大尉は自決を計ったものの失敗した。残る将校達は陸将官邸に集まり、法廷闘争を決意した。この際野中四郎大尉は自決したが、残る将校らは午後5時に逮捕され反乱はあっけない終末を迎えた。同日、北、西田、渋川といった民間人メンバーも逮捕された。

226事件の終焉

3月4日午後2時25分に山本又元少尉東京憲兵隊に出頭して逮捕される。東京第一衛戍病院に収容されていた河野大尉が3月5日に自殺を図り、6日午前6時40分に死亡した。

3月6日の戒厳司令部発表によると、叛乱部隊に参加した下士官兵の総数は千四百数十名で、内訳は、近衛歩兵第3連隊は五十数名、歩兵第1連隊は四百数十名、歩兵第3連隊は九百数十名、野戦重砲兵第7連隊は十数名であったという。

226事件の憲兵隊の動き

憲兵隊は、反乱部隊を制圧できるほどの装備・兵力を有していなかったので事件後は表立って決起将校の逮捕は出来ずにいたが、事件を通じて反乱部隊に与せず職務に忠実であった。

226事件の海軍の動き

芝浦埠頭に上陸する海軍陸戦隊(2月26日)

襲撃を受けた岡田総理鈴木侍従長斉藤内大臣がいずれも海軍大将であったことから、東京市麹町区にあった海軍省は事件直後より反乱部隊に対して徹底抗戦体制を発令、臨戦態勢に移行した。26日午後には横須賀鎮守府米内光政司令長官井上成美参謀長)の海軍陸戦隊を芝浦に上陸させて東京に急派した。また、第1艦隊を東京湾に急行させ27日午後には戦艦長門以下各艦の砲を陸上の反乱軍に向けさせた。

この警備は東京湾のみならず大阪にも及び、27日午前9時40分に、加藤隆義海軍中将率いる第2艦隊旗艦愛宕以下各艦は、大阪港外に投錨した。この部隊は2月29日に任務を解かれ、翌3月1日午後1時に出航して作業地に復帰した。

226事件の事件後の処理

226事件の政府・宮中

事件の収拾後岡田内閣総辞職し、元老西園寺公望後継首相の推薦にあたった。しかし組閣大命が下った近衛文麿西園寺政治思想が合わなかったため、病気と称して断った。一木枢密院議長が広田弘毅西園寺に推薦した。西園寺は同意し、広田に組閣大命が下った。しかし陸軍は入閣予定者の吉田茂ら5名に不満があるとして広田に圧力を掛けた。広田は陸軍と交渉し、3名を閣僚に指名しないことで内閣成立にこぎつけた。

226事件の反乱軍将校の免官等

2月29日付で反乱軍の20名の将校が免官となる。3月2日に山本も免官となる。3月2日に山本元少尉を含む21名の将校が、大命に反抗し、陸軍将校たるの本分に背き、陸軍将校分限令第3条第2号に該当するとして、位階の返上が命ぜられる。また、勲章も褫奪された。

226事件の殉職警察官処遇

村上嘉茂衛門  巡査部長警視庁警務部警衛課勤務総理官邸配置)。死亡。 土井清松  巡査。警視庁警務部警衛課勤務総理官邸配置)。死亡。 清水与四郎  巡査。警視庁杉並署兼麹町署勤務総理官邸配置)。死亡。 小館喜代松  巡査。警視庁警務部警衛課勤務総理官邸配置)。死亡。 皆川義孝  巡査。警視庁警務部警衛課勤務牧野礼遇随衛)。死亡。 玉置英夫  巡査。麻布鳥居坂警察署兼麹町警察署勤務蔵相官邸配置)。重傷。

殉職した警察官は、勲八等に叙された上で白色桐葉章を授けられ、内務大臣より警察官吏及消防官吏功労記章を付与された。

226事件の皇道派陸軍幹部

事件当時に軍事参議官であった陸軍大将のうち、荒木・真崎・阿部・林の4名は3月10日付で予備役に編入された。侍従武官長本庄繁は女婿の山口一太郎大尉が事件に関与しており、事件当時は反乱を起こした青年将校に同情的な姿勢をとって昭和天皇の聖旨に沿わない奏上をしたことから事件後に辞職し、4月に予備役となった。陸軍大臣であった川島は3月30日に、戒厳司令官であった香椎浩平中将は7月に、それぞれ不手際の責任を負わされる形で予備役となった。

やはり皇道派の主要な人物であった陸軍省軍事調査部長の山下奉文少将は歩兵第40旅団長に転出させられ、以後昭和15年に航空本部長を務めた他は二度と中央の要職に就くことはなかった。

また、これらの引退した陸軍上層部陸軍大臣となって再び陸軍に影響力を持つようになることを防ぐために、次の広田弘毅内閣の時から軍部大臣現役武官制が復活することになった。この制度は政治干渉に関わった将軍らが陸軍大臣に就任して再度政治に不当な干渉を及ぼすことのないようにするのが目的であったが、後に陸軍が後任陸相を推薦しないという形で内閣の命運を握ることになってしまった。

226事件の事件に関わった下士官兵

以下この事件に関わった下士官兵は、一部を除き、その大半が反乱計画を知らず、上官の命に従って適法な出動と誤認して襲撃に加わっていた。事件後、中国などの戦場の最前線に駆り出され戦死することとなった者も多い。特に安藤中隊にいた者たちは歩兵による突撃戦法を強要されて殆どが戦死した。

なお、歩兵第3連隊の機関銃隊に所属していて反乱に参加させられてしまった者に小林盛夫二等兵(後の5代目柳家小さん。当時は前座)や畑和二等兵(後に埼玉県知事、また社会党衆議院議員)がいる。

226事件の捜査・公判

事件の裏には、陸軍中枢皇道派大将クラスの多くが関与していた可能性が疑われるが、「血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走した」という形で世に公表された。

この事件の後、陸軍の皇道派は壊滅し、東条英機統制派の政治的発言力がますます強くなった。事件後に事件の捜査を行った匂坂春平陸軍法務官(後に法務中将。明治法律学校卒業。軍法会議首席検察官)や憲兵隊は、黒幕を含めて事件の解明のため尽力をする。

当時の陸軍刑法(明治41年法律第46号)第25条は、次の通り反乱の罪を定めている。

第二十五条 党ヲ結ヒ兵器ヲ執リ反乱ヲ為シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス
首魁ハ死刑ニ処ス
謀議ニ参与シ又ハ群衆ノ指揮ヲ為シタル者ハ死刑、無期若ハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処シ其ノ他諸般ノ職務ニ従事シタル者ハ三年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
附和随行シタル者ハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

この構成要件に基づいて、戒厳令下緊急勅令で特設された東京陸軍軍法会議で裁判が行われた。常設軍法会議にくらべ、裁判官の忌避はできず、一審制で非公開、かつ弁護人なしという過酷で特異なものであった。

事件の捜査は、憲兵隊等を指揮して、匂坂春平陸軍法務官らが、これに当たった。また、東京憲兵隊特別高等課長福本亀治陸軍憲兵少佐らが黒幕の疑惑のあった真崎大将などの取調べを担当した。

そして、小川関治郎陸軍法務官(明治法律学校卒業。軍法会議裁判官)を含む軍法会議において、公判が行われる。青年将校・民間人らの大半に有罪判決が下る。磯部浅一はこの判決を死ぬまで恨みに思っていた。また栗原や安藤は「死刑になる人数が多すぎる」と衝撃を受けていた。反乱将校たちは事件の重大性を分かっていなかった。「行動を起こせば天皇陛下はお喜びになる」と楽観していた。

現在から見れば勝手な独りよがりに見える彼らのこの思いこみは、当時は彼らなりに根拠を伴っていた。五・一五事件において、殺人テロの実行者に死刑判決は下されなかった。これを受けて二・二六事件の実行者達は、なぜ五・一五では、総理を殺害しておきながら死刑を受けた者がいなかったのか、という命題に対し、"実行者達の維新実行の気概がお上のお心に達し、実行者達はお上から情状酌量を直々に賜ったのだ"と思い込んでいた。名指しの糾弾にしろ自決指名にしろ、天皇が一軍人のことを考えるという時点で、その軍人にとっては非常な名誉であった時代である。教育では、明治維新を「御一新」、上からの改革として、混乱きわまる幕末において天皇がついに親政を持って君臨され、その光が君側匪賊どもを退治し、世の中を完全に浄化することが出来た、それがために日本は列強に並ぶ国家になることが出来たのだ、つまり天皇は絶対に正しく、間違いがあるとすれば天皇を何者かが妨害した時である、と教えていた。皇国無窮の歴史観である。そして世の中は、彼らの目には幕末以来の混乱を示しているように見えた。だからこそ、彼らは親政を望み、昭和維新を実行したのである。但しこの見解について阿川弘之は、戦後に行われた二・二六事件の生き残りによる座談会での「つまり陛下(引用者註:昭和天皇)が二・二六事件を失敗に追い込んだということですね。私は、いまでも(中略)ああ、この方がわれわれの事件を潰したんだなあ、と思いますよ」との発言を取り上げ、「天皇絶対と言いつのっていた彼らが一番陛下をないがしろにしてる」と厳しく批判している。

226事件の判決

226事件の自決

自決等

階級 氏名 所属部隊 年齢
歩兵大尉 野中四郎 歩兵第3連隊第7中隊長 32歳
航空兵大尉 河野寿 所沢陸軍飛行学校操縦科学生 28歳

階級・所属部隊・年齢等は事件当日のもの。階級名の「陸軍」は省略した。罪名中の「群集指揮等」とは「謀議参与又群集指揮等」のこと。以下各表について同じ。

226事件の第1次処断(昭和11年7月5日まで判決言渡)

罪名 階級 氏名 所属部隊 陸士期
死刑 叛乱罪(首魁) 歩兵大尉 香田清貞 第1旅団副官 37期
死刑 叛乱罪(首魁) 歩兵大尉 安藤輝三 歩兵第3連隊第6中隊長 38期
死刑 叛乱罪(首魁) 歩兵中尉 栗原安秀 歩兵第1連隊 41期
死刑 叛乱罪群衆指揮等 歩兵中尉 竹嶌継夫 40期
死刑 叛乱罪群衆指揮等 歩兵中尉 対馬勝雄 豊橋陸軍教導学校 41期
死刑 叛乱罪群衆指揮等 歩兵中尉 中橋基明 近衛歩兵第3連隊 41期
死刑 叛乱罪群衆指揮等 歩兵中尉 丹生誠忠 歩兵第1連隊 41期
死刑 叛乱罪群衆指揮等 歩兵中尉 坂井直 歩兵第3連隊 44期
死刑 叛乱罪群衆指揮等 砲兵中尉 田中勝 野戦重砲第7連隊 45期
死刑 叛乱罪群衆指揮等 工兵少尉 中島莞爾 46期
死刑 叛乱罪群衆指揮等 砲兵少尉 安田優 陸軍砲工学校生徒 46期
死刑 叛乱罪群衆指揮等 歩兵少尉 高橋太郎 歩兵第3連隊 46期
死刑 叛乱罪群衆指揮等 歩兵少尉 林八郎 歩兵第1連隊 47期
死刑 叛乱罪(首魁) 元歩兵大尉 村中孝次 37期
死刑 叛乱罪(首魁) 元一等主計 磯部浅一 38期
死刑 叛乱罪群衆指揮等 渋川善助
無期禁錮 叛乱罪群衆指揮等 歩兵少尉 麦屋清済
無期禁錮 叛乱罪群衆指揮等 歩兵少尉 常盤稔 歩兵第3連隊 47期
無期禁錮 叛乱罪群衆指揮等 歩兵少尉 鈴木金次郎 歩兵第3連隊 47期
無期禁錮 叛乱罪群衆指揮等 歩兵少尉 清原康平 歩兵第3連隊 47期
無期禁錮 叛乱罪群衆指揮等 歩兵少尉 池田俊彦 歩兵第1連隊 47期
禁錮4年 歩兵少尉 今泉義道 近衛歩兵第3連隊 47期

226事件の第2次処断(7月29日判決言渡)

罪名 階級 氏名 所属部隊 年齢
無期禁錮 叛乱者を利す 歩兵大尉 山口一太郎 歩兵第1連隊中隊長
禁錮4年 叛乱者を利す 歩兵中尉 柳下良二 歩兵第3連隊
禁錮6年 司令官軍隊を率い故なく配置の地を離る 歩兵中尉 新井勲 歩兵第3連隊
禁錮6年 叛乱予備 一等主計 鈴木五郎 歩兵第6連隊
禁錮4年 叛乱予備 歩兵中尉 井上辰雄 豊橋陸軍教導学校
禁錮4年 叛乱予備 歩兵中尉 塩田淑夫 歩兵第8連隊

226事件の背後関係処断(昭和12年1月18日判決言渡)

罪名 階級 氏名 所属部隊 陸士期
禁錮3年 歩兵中佐 満井佐吉 26期
禁錮5年 歩兵大尉 菅波三郎 37期
禁錮4年 歩兵大尉 大蔵栄一 羅南歩兵第73連隊 37期
禁錮4年 歩兵大尉 末松太平 39期
禁錮3年 歩兵中尉 志村睦城
禁錮1年6月 歩兵中尉 志岐孝人
禁錮5年 予備役少将 斎藤瀏 12期
禁錮2年 越村捨次郎
禁錮3年 福井幸
禁錮3年 町田専蔵
禁錮1年6月 宮本正之
禁錮2年(執行猶予4年) 加藤春海
禁錮1年6月(執行猶予4年) 佐藤正三
禁錮1年6月(執行猶予4年) 宮本誠三
禁錮1年6月(執行猶予4年) 杉田省吾

226事件の背後関係処断(昭和12年8月14日判決言渡)

罪名 階級 氏名 所属部隊 年齢
死刑 叛乱罪(首魁) 北輝次郎 52歳
死刑 叛乱罪(首魁) 元騎兵少尉 西田税 34歳
無期禁錮 叛乱罪謀議参与 亀川哲也
禁錮3年 叛乱罪(諸般の職務に従事) 中橋照夫

1937年(昭和12年)8月19日に、北輝次郎西田税の刑が執行された。

226事件の真崎大将判決(昭和12年9月25日判決言渡)

事件の黒幕と疑われた真崎甚三郎大将前教育総監皇道派)は、1937年(昭和12年)1月25日に反乱幇助軍法会議に起訴されたが、否認した。論告求刑は反乱者を利する罪で禁錮13年であったが、9月25日に無罪判決が下る。もっとも、1936(昭和11)年3月10日に真崎大将予備役に編入される。つまり事実上の解雇である。そして戦後まで生き長らえる。彼自身は晩年、自分が二・二六事件の黒幕として世間から見做されている事を承知しており、これに対して怒りの感情を抱きつつも諦めの境地に入っていたことが、当時の新聞から窺える。また、26日に蹶起を知った際には連絡した亀川に「残念だ、今までの努力が水泡に帰した」と語ったという。

しかし、反乱軍に同情的な行動を取っていたことは確かであり、26日午前9時半に陸相官邸を訪れた際には磯部浅一に「お前達の気持ちはヨウッわかっとる。ヨウッーわかっとる。」と声を掛け、川島陸相反乱軍蹶起趣意書を天皇に上奏するよう働きかけている。このことから真崎の関与を指摘する主張もある。

推理作家の松本清張は取材に基づき、

「26日午前中までの真崎は、もとより内閣首班を引きうけるつもりだった。彼はその意志を加藤寛治とともに自ら伏見宮軍令部総長に告げ、伏見宮より天皇を動かそうとした形跡がある。 真崎はその日の早朝自宅を出るときから、いつでも大命降下のために拝謁できるよう勲一等の略綬を佩用していた。(略)真崎は宮中の形勢不利とみるやにわかに態度を変え、軍事参議官一同の賛成(荒木が積極、他は消極的ながら)と決行部隊幹部全員の推薦を受けても、首班に就くのを断わった。この時の真崎は、いかにして決行将校らから上手に離脱するかに苦闘していた。」

と主張している。


罪名 階級 氏名 所属部隊 年齢
無罪 叛乱者を利す 大将 真崎甚三郎 軍事参議官

226事件のその他判決

罪名 階級 氏名 所属部隊 年齢
死刑 水上源一 27歳
禁錮15年 予備役歩兵曹長 中島清治 28歳
禁錮15年 予備役歩兵曹長 宮田晃 27歳
禁錮15年 軍曹 宇治野時参 歩兵第1連隊 24歳
禁錮15年 予備役歩兵上等兵 黒田昶 25歳
禁錮15年 一等兵 黒沢鶴一 歩兵第1連隊 21歳
禁錮15年 綿引正三 22歳
禁錮10年 予備役歩兵少尉 山本又 42歳

226事件の刑の執行

二・二六事件慰霊碑(東京都渋谷区

二・二六事件を記念し死没者を慰霊する碑が、東京都渋谷区神南にある。昭和11年2月26日、同所にあった皇道派将校により起こった二・二六事件の首謀者である青年将校・民間人17名の処刑場旧東京陸軍刑務所敷地跡に立てられた渋谷合同庁舎の敷地の北西角に立つ観音像(昭和40年2月26日建立)がそれである。17名の遺体は郷里に引き取られたが、磯部のみが本人の遺志により東京都墨田区両国回向院に葬られている。

226事件のその後

もともと明治憲法下では天皇は輔弼する国務大臣の副署なくして国策を決定できない仕組みになっており、昭和天皇も幼少時から「君臨すれども統治せず」の君主像を叩き込まれていた。二・二六事件は首相不在、侍従長不在、内大臣不在の中で起こったもので、天皇自らが善後策を講じなければならない初めての事例となった。戦後に昭和天皇は自らの治世を振り返り、立憲主義の枠組みを超えて行動せざるを得なかった例外として、この二・二六事件と終戦時の御前会議の二つを挙げている。

それでもこの事件に対する昭和天皇の衝撃とトラウマは深かったようで、事件から41年後の昭和52年2月26日に、就寝前に側近の卜部亮吾に「治安は何もないか」と尋ねていたという。

なお当時、陸軍中央幼年学校の校長だった阿南惟幾は、事件直後に全校生徒を集め、「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず軍服を脱ぎ、しかる後に行え」と、極めて厳しい口調で語ったと伝えられている。

◇出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)『226事件』より
取得日:2009-02-28

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