かっけ

脚気(かっけ、英 beriberi)は、ビタミンB1欠乏症の一つで、ビタミンB1(チアミン)の欠乏によって心不全と末梢神経障害をきたす疾患である。心不全によって下肢のむくみが、神経障害によって下肢のしびれが起きることから脚気の名で呼ばれる。心臓機能の低下・不全(衝心(しょうしん))を併発するため、脚気衝心と呼ばれることもある。

ほかのビタミンB1欠乏症による代表疾患には、ウェルニッケ脳症や高ピルビン酸血症がある。

かっけの概要

江戸時代の江戸では、富裕層の間で玄米にかえて精米された白米を食べる習慣が広まり、将軍をはじめ富裕層に脚気患者が多かった。幕末には一般庶民も発症し、江戸患いと呼ばれた。経験的に米にかえて蕎麦(Vitamin B1を含む)を食べると、快復に向かうことが分かっていたため、漢方では療法として用いられていたものの、その知識が一般化することは無かった。大正期以降、ビタミンB1を含まない精米された白米が普及するとともに安価な移入米が増加し、副食を十分にとらなかったことで多くの患者を出し、脚気は結核とならぶ二大国民病といわれた。

国民の脚気死亡者数は、大正末期に年間2万5千人を超え、昭和期に入っても日中戦争拡大などで食糧事情が悪化する1938年(昭和13年)まで毎年1万人?2万人の間で推移し、千人を下回ったのが1950年代後半であった(1950年(昭和25年)3,968人、1955年(昭和30年)1,126人、1960年(昭和35年)350人、1965年(昭和40年)92人)。また、1975年(昭和50年)ごろからジャンクフードの普及により、脚気が再発してきた。アルコール依存症患者にも多く、アルコール分解の際にビタミンB1が消費されることと、偏食が関わっている。高齢社会超高齢社会)をむかえた最近では、ビタミンB1を含まない高カロリー輸液での発症も問題視されている。

かっけの歴史

かっけの明治期の主な脚気原因説

脚気の原因がわからなかった明治期、脚気の流行に拍車がかかり(都市部富裕層陸海軍の若い兵士に多発)、その原因究明と対策が急がれていた。脚気の原因がわからなかった理由として、子供や高齢者など体力の弱い者が冒されずに元気そうな若者が冒されること、一見よい食物をとっている者が冒されて一見粗食をとっている者が冒されないこと、西洋医学に脚気医学がなかったこと、当時の医学にヒトの栄養に不可欠な微量栄養素があるという知識がなかったこと等が挙げられる。明治期の主な脚気原因説としては、米食(白米食原因説漢方医遠田澄庵)、伝染病説ベルツなど)、中毒説三浦守治など)、栄養障害説ウェルニッヒなど。ただし、正式な医学研究に基づいておらず、また既知の栄養素を問題にした)が挙げられる。しかし、いずれの脚気原因説も誤りであり、未知の微量栄養素ビタミンB1(チアミン)の欠乏こそ、脚気の原因であった。

かっけの高木兼寛の先覚的業績とその限界

ビタミンの先覚的な業績を挙げたのが海軍軍医高木兼寛で、1910年(明治43年)にアベリ酸(のちにオリザニンと改名、ビタミンB1)の単離に成功したと報告したのが鈴木梅太郎である(ただし抽出当初オリザニン結晶ニコチン酸をふくむ不純化合物であり、その純粋単離に成功したのが1931年(昭和6年)。翌年、脚気病研究会オリザニンは脚気に特効のあることが報告された)。高木は、海軍で洋食をとる士官に脚気が少なく、日本食(主食が白米、貧困な副食)をとる下士卒(兵曹と兵。のちの下士官兵)に脚気が多いことから、栄養に問題があると考えた。1884年(明治17年)、軍艦筑波で前年、別の艦で行なった遠洋練習航海と食生活以外は全く同じ内容で遠洋練習航海を行なわせる試験案を上策し、それが採用された。試験の結果、洋食支給の艦で脚気患者が出なかったことから、栄養障害説を確信したとされる。その後、海軍兵食に洋食が採用されたものの、下士官兵にパンが極めて不評であったため、パンのほか麦飯も支給された(ただし麦飯も不評で、後記のとおり大正期の中頃から脚気患者が急増すると対処に苦慮することとなった)。

しかし、高木の脚気原因説(たんぱく質の不足説))と麦飯優秀説(麦が含むたんぱく質は米より多いため、麦の方がよい)は、原因不明の死病(脚気)の原因を確定するには、根拠が少なすぎ、医学論理が粗雑すぎた。このため、東京大学医学部から次々に批判された。とくに大沢謙二(東京大学生理学教授)の消化吸収試験結果により、食品分析表に依拠した高木の脚気原因説は、机上の空論にすぎず、誤説であることが明らかになった。その実験成績に基づく正論には、高木も反論できず、海軍での兵食改良(洋食+麦飯)の結果をいくつか公表して沈黙した。一般医界も高木の脚気原因説麦飯優秀説への反対が多く、国内で賛同を得るどころか、四面楚歌のような状況におちいった。日清戦争とその後の台湾平定戦で、陸軍の脚気患者が急増したことを受け、某海軍軍医が陸軍を批判したものの、学問上の疑問点を挙げて反論されると、その海軍軍医も沈黙した(ビタミンを知らない当時の栄養・臨床医学では説明できなかった)。

もっとも、そうした疑問を解消できなかったが、海軍軍医部は、日露戦争の戦訓もふまえ、海軍の兵食(洋食+麦飯)で脚気を「根絶」したと過信してしまう。現実には、高木が没した大正期の中頃から、海軍の脚気患者が急増した(その後、1928年(昭和3年)1,153人、1937年(昭和12年)から1941年(昭和16年)まで1,000人を下回ることがなく、12月に太平洋戦争が勃発した1941年は3,079人(うち入院605人)という有様であった)。その理由として、兵食の問題(実は航海食ビタミン欠乏状態)、艦船の行動範囲拡大、高木の脚気原因説が誤っていた影響、「海軍の脚気は撲滅した」という信仰がくずれたこと(脚気診断の進歩もあって見過ごされていた患者を把握できるようになった(それ以前、神経疾患に混入していた可能性がある))が挙げられる。ちなみに日露戦争の頃から海軍は、「脚気」をほかの病名にかえて脚気患者数を減らしている、という風評があった。実際に海軍の統計をみると、脚気の入院率が50%?70%と異常に高いことが指摘されている。

脚気患者の増加を受け、1921年(大正10年)に海軍省が「兵食研究調査委員会」を設置し、1930年(昭和5年)まで海軍兵食の根本的な調査を行った。苦心(兵員に人気のない麦飯で麦の比率を上げることも、生鮮食品長期鮮度保持も難しい)の結果、島薗順次郎が奨励していた胚芽米に着目し、1927年(昭和2年)から試験研究を行って良好な成績を得ることができたため、海軍省は1933年(昭和8年)9月に「給与令細則」で胚芽米食を指令した。しかし実際には、胚芽米をつくる機械を十分に設置できなかったことと、腐敗しやすい胚芽米は脚気が多発する夏に供給するのが困難であったことから、研究倒れの感がいなめず、上記のとおり日中戦争が勃発すると毎年1,000人を超える脚気患者がでることとなった。

なお現在でも、海軍は麦飯で脚気を「根絶」したと賞賛されやすいが、海軍の外に目を転じると、国民の脚気死亡者数は、大正末期に年間2万5千人を超えていた。昭和期に入っても、日中戦争の拡大や移入米減少等によって食糧事情が悪化する1938年(昭和13年)(翌年12月1日、「白米」禁止と7分搗(つ)き米の強制)まで、毎年1万人?2万人の間で推移していた。

かっけの日清戦争での陸軍脚気大流行

海軍の兵食改良(洋食+麦飯)に否定的な陸軍は、日清戦争時に勅令で「戦時陸軍給与規則」を公布し、戦時兵食として「1日に精米6合(白米900g)、肉・魚150g野菜類150g漬物類56g」を基準とする日本食を採用した(1894年(明治27年)7月31日)。ただし、大本営陸軍部野戦衛生長官をつとめる石黒忠悳陸軍軍医総監陸軍省医務局長)の米飯過信副食軽視が災いの大もととなった。

戦時兵食の内容が決められたものの、軍の輸送能力が低いこともあり、兵站がしばしば滞(とどこお)った。とくに緒戦の朝鮮半島では、食料の現地調達・補給に苦しみ、平壌攻略戦では野津道貫第五師団長以下が黒粟などを口にする有様であった。黄海海戦後、1894年10月下旬から遼東半島に上陸した第二軍の一部で脚気患者がでると、夏季の脚気発生が経験的に知られている中、事態を憂慮した土岐頼徳第二軍軍医部長が麦飯給与の稟議(りんぎ)を提出した(1895年(明治28年)2月15日)。しかし、森林太郎森鴎外)第二軍兵站部軍医部長が反対したとされ、麦飯は給与されなかった(上記のとおり勅令の「戦時陸軍給与規則」に麦はなく、また当時の戦時衛生勤務令では「野戦衛生長官ト連絡ヲ絶ツ時」を除き、戦時兵食の変更は野戦衛生長官職務権限。のちに独断で麦飯給与を指示した土岐(陸軍軍医・序列第三位)は、石黒(序列第一位)と大喧嘩をしたのち休職)。

日清戦争後の台湾平定戦では、高温という脚気が発生しやすい条件の中、内地から白米が十分に送られても副食が貧弱であったため、脚気が流行した。しかも、海軍軍医たちが台湾での脚気流行について陸軍批判の投稿をする中、1895年(明治28年)11月「台湾戍兵(じゅへい)ノ衛生ニ就(つい)テ意見」という石黒の意見書陸軍中枢に提出されており、同書で石黒は兵食の基本(白米飯)を変えてはならないととした。そうした結果、かつて遼東半島麦飯給与に動いた土岐が台湾に着任し(1896年(明治29年)1月16日)、独断で麦飯給与に踏み切るまで、脚気の流行がしずまる兆候がなかった。最終的に陸軍の脚気患者は、日清戦争とその後の台湾平定戦をあわせて41,431人(脚気以外をふくむ総患者284,526人)、脚気死亡者4,064人、ちなみに戦死者977人、戦傷死者293人であった(陸軍省医務局編 明治二十七八年役陸軍衛生事蹟 。なお同書が刊行されたのは日露戦争後の1907年(明治40年))。また、台湾での惨状を伝える報道等は途中からなくなっており、石黒にとっても陸軍中枢にとっても、国内が戦勝気分に浸っている中、隠蔽したい出来事であった。

このように、陸軍で脚気が大流行したにもかかわらず、衛生の総責任者である石黒は、長州閥トップ山県有朋薩摩閥トップ大山巌、また児玉源太郎などと懇意で、明確な形で責任をとることがなく、その後、予備役に編入されても陸軍軍医部(後年、陸軍衛生部に改称)に隠然たる影響力をもった。

かっけの日露戦争での陸軍脚気惨害

陸軍省医務局長小池正直に代わっていた1900年(明治33年)に義和団の乱(北清事変)が勃発し、第五師団(戦闘員15,780人、非戦闘員4,425人、兵站部員1,030人)が派遣されたときも、首都北京をめぐる局地戦が主で輸送に支障が少なかったにもかかわらず、前田政四郎(第五師団軍医部長)が麦飯の支給を希望しながら麦が追送されなかったこともあり、1年ほどで2,351人の脚気患者が出た。ちなみに戦死者349名、負傷者933名。なお、凱旋した第五師団に代わって清国駐屯軍が置かれたとき、小池医務局長同軍病院長に与えた訓示は、上記の日清戦争時に土岐が独断で麦飯を給与したことに対し、石黒医務局長が発した麦飯給与禁止の訓示とほぼ同じ内容である。

日露戦争のときも、麦飯派寺内正毅陸軍大臣であった(麦飯を主張する軍医部長がいた)にもかかわらず、大本営陸軍部が「勅令」として指示した戦時兵食は、日清戦争と同じ白米飯精白米6合)であった。その理由として「麦は虫がつきやすい、変敗しやすい、味が悪い、輸送が困難などの反対論がつよく」、その上、脚気予防(理屈)とは別のもの(情)もあったとされる。白米飯は庶民あこがれのご馳走であり、麦飯は貧民の食事として蔑まれていた世情を無視できず、また部隊長の多くも死地に行かせる兵士に白米を食べさせたいという心情があった。

しかし戦地では、1904年(明治37年)6月頃から脚気が増えはじめ、気温の上昇とともに猛烈な勢いで増加した。このため、8月から軍の一部で麦飯を支給し、翌年3月に全軍での麦飯支給が決定した。また国内で、脚気患者の大量発生と軍医不足という悲惨な状況が知られはじめると、陸軍衛生部さらに大本営野戦衛生長官・小池(陸軍省医務局長)に対する批判が高まり、戦後も小池が辞任するまで 医海時報 に陸軍批判の投稿がつづいた。最終的に陸軍は約25万人の脚気患者を出し、うち約2万7,800人が病死したとされる。まさに脚気惨害である。ちなみに、日露戦争の戦死者は約4万7,000人。ただし、戦死者中にも脚気患者が多数いるものと推測される(日清戦争時と同様に史料により人数が異なる。なお、高木の提案を採用して兵員に麦飯を支給していた海軍では、軽症患者が少数発生したのみで死者なしと伝えられているが、上記のとおり後年、患者数が大幅に増加した)。

かっけの臨時脚気病調査会による原因究明

陸軍から多数の犠牲者が出たものの、日露戦争が終わると、世論の脚気問題への関心が急速に薄れてしまう。脚気問題を取り上げつづけた 医海時評 が孤軍奮闘する中(ときにはマッチポンプさえして陸海軍の対立をあおった)、1908年(明治41年)に脚気の原因究明を目的として臨時脚気病調査会が創設された。当時、陸軍大臣であった寺内正毅の伝記によると、発案者は陸軍省医務局長に就任してまもない森林太郎(ただし上記のとおり日清戦争のとき、土岐第二軍軍医部長の麦飯支給案に反対し、石黒野戦衛生長官に同調)で、寺内自身も熱心に活動したという。その臨時脚気病調査会は、文部省(学術研究を所管)と内務省(衛生問題を所管)から横槍が入ったものの、陸軍大臣の監督する国家機関として、当代一流の研究者が総動員され、多額の予算がつぎ込まれた。その結果、1924年(大正13年)4月8日の第29回総会で、大規模なヒトのビタミンB欠乏食試験の結果にもとづき、脚気ビタミン欠乏説を事実上確定した(ただし、試験担当の委員1名が学問的な厳密性を追求したために態度を保留。その委員も翌年に同調)。当初の目的を達成するとともに政府の財政事情もあり、臨時脚気病調査会は廃止されたものの、多くの業績(個人の業績として公表されたものを含む)を挙げ、また、その後の脚気病研究会の母体となった。脚気研究の土台をつくり、ビタミン研究の基礎をきずいたと位置づけられている。

なお、自身も脚気に苦しんでいた明治天皇が海軍や漢方医による食事療法を希望したとき、ドイツ系学派の侍医団から反対されて西洋医学そのものへの不信を抱いて一時期に侍医の診断を拒否するなどしたため、天皇の糖尿病が悪化したときに侍医団が有効な治療手段が取れなかったのではないかとも言われている。

また、明治期から昭和初期にかけて「迷信的」といわれて絶滅寸前だった鍼灸医等漢方医であったが、栄養起源説が定着する前に明治末期より西洋医学の栄養学の概念を取り入れ、麦飯の推奨や脚気治療に対して味噌汁に糠を投入する「糠療法」を提唱し、民間療法として取り入られはじめた。これが効果を示したことにより、社会で漢方医地位保持に貢献したという側面がある(板倉聖宣 模倣の時代 参照)。

かっけの脚気研究会

脚気研究会は、臨時脚気病調査会の最終報告会の席上(1924年(大正13年)6月)、入沢達吉東京帝大)と北島多一(慶應大)の提案により、学術研関として同年秋に創設された。翌年4月6日の第一回総会以後、毎年、多くの研究報告がなされた。とくに東京帝大島薗内科香川昇三は、1932年(昭和7年)に鈴木梅太郎オリザニン結晶が脚気に特効があることを報告した。翌年には、脚気の原因がビタミンB1の欠乏にあることを報告した(1927年(昭和2年)ビタミンBはB1とB2の複合物であることが分かり、どちらが脚気の原因であるのかが問われていた)。また、胚芽米の奨励でも知られていた島薗順次郎は、脚気発病前の予備状態者がいることを認め、1934年(昭和9年)に「潜在性ビタミンB欠乏症」と名づけて発表した。真に脚気を撲滅するには、発病患者の治療だけでなく、潜在性脚気を消滅させることが不可欠であることを明らかにし、脚気医学に新生面を開いた。そうした学術業績により、次の課題は、ビタミンB1自体の研究と治療薬としての純粋B1剤の生産、潜在性脚気を消滅させる対策にしぼられてきた。しかし、脚気病研究会キーパーソンである島薗が1937年(昭和12年)4月に没した。また同年7月に日中戦争が勃発したため、医学者の関心は、地味な学術研究よりも時流の戦時医学に向けられた。そして脚気病研究会は、以後、中絶となった。

なお、ビタミンB1が発見された後も、一般人にとって脚気は難病であった(上記のとおり脚気死亡者が毎年1万人?2万人)。その理由として、ビタミンB1製造を天然物質からの抽出に頼っていたために値段が高かったこと、もともと消化吸収率がよくない成分であるため、発病後の当該栄養分の摂取(つまり治療)が困難であったことが挙げられる。

かっけのビタミンB研究委員会

太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)11月16日、ビタミン生産が思いどおりにならない中、突然「ビタミンB1連合研究会」という国家総動員的な組織が誕生した。会員の構成、発会の趣旨、研究の方針は、かつての臨時脚気病調査会(陸軍大臣所管国家機関)・脚気病研究会(学術研究機関)とよく似ていた。ビタミンB1連合研究会は、3回の開催で敗戦となったものの、解散を命じられることなく、改名しながら「ビタミンB研究委員会」(1954年(昭和29年)以降)としてつづく。そして一連の研究会は、多くのすぐれた業績を挙げた。

とくに京都大学衛生学の藤原元典は、1950年(昭和25年)12月2日の研究会で、ニンニクビタミンB1が反応すると「ニンニクB1」という特殊な物質ができると報告した。さらに藤原は、武田薬品研究部と提携して研究をすすめ、1952年(昭和27年)3月8日に「ニンニクB1」はニンニク成分アリシンがB1(チアミン)に作用してできる新物質であること(よって「アリチアミン」と命名)。そのアリチアミンは、体内でB1にもどり、さらに腸管からの吸収がきわめて良く、血中B1濃度の上昇が顕著で長時間つづく、という従来のビタミンB1にはない驚くべき特性があることを報告した。B1誘導体アリチアミンの特性には、研究会の委員一同が驚愕した。以後、研究会では、その新物質の本体を解明するため、総力をあげて研究が行われた。

また、藤原と提携して研究をすすめる武田薬品研究部は、アリチアミン製剤化に力を入れた。多くのアリチアミン同族体を合成し、薬剤に適する製品開発につとめた結果、ついに成功したのである。1954年(昭和29年)3月、アリチアミン内服薬アリナミン錠」が、翌年3月には注射楽の「アリナミン注」が発売された。ともに従来のビタミンB1剤に見られないすぐれた効果をしめした。その効果によってアリナミンは、治療薬保健薬として医学界にも社会にも広く歓迎され、また同業他社を大いに刺激した。そして1968年(昭和43年)までに11種類のB1新誘導体が発売されたのである。アリナミンとその類似品の浸透により、手の打ちどころがなかった潜在性脚気が退治されることになった。国民の脚気死亡者は、1950年(昭和25年)3,968人、1955年(昭和30年)1,126人、'1960年(昭和35年)350人、1965年(昭和40年)92人)と減少したのである。

しかし、1975年(昭和50年)には脚気が再燃し、原因には砂糖の多い飲食品や副食の少ないインスタント食品といったビタミンの少ないジャンクフードがあることが分かった。


かっけの病態

本症は多発神経炎、浮腫(むくみ)、心不全(脚気心脚気衝心)を三徴とする。

かっけの分類

かっけの乾性脚気

多発神経炎を主体とし、表在知覚神経障害からしびれ、腱反射低下などを来たす。

かっけの湿性脚気

末梢血管抵抗の低下から高拍出性心不全を呈して浮腫になる。

かっけの検査

膝蓋腱を叩いて膝関節が伸展する膝蓋腱反射末梢神経障害の有無を見ている。脚気の多発していた1960年代頃までは健康診断必須項目であった。

かっけの歴史上の有名死亡者

桜町天皇

徳川家定

徳川家茂

和宮親子内親王

小松帯刀

◇出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)『かっけ』より
取得日:2009-06-10

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