ものいい

土俵での行司・勝負審判・控え力士配置 協議の様子

物言い(ものいい)とは、大相撲において、行司が下した判定(軍配)に対し、勝負審判や控え力士が異議を唱えること。

ものいいの概説

対戦(取り組み)後の行司軍配に異議のある(ほとんどは、両者の体勢が微妙な状態での決着など)場合、勝負審判は、即座に手を挙げることによって意思表示をする。その後5人の勝負審判土俵上で協議を行う。この際、ビデオ室と連絡を取り、ビデオ映像も参考にする。協議が合意に達すると、行司の下した判定の如何を問わず、改めて勝負の結果が発表される。

多くの場合は、体が落ちる、あるいは土俵を割るのが同時(同体)として、勝敗の決定をせず、取り直し(再試合)となるか、そのまま行司軍配通りの結果となるが、稀に行司の軍配と逆の結果となる場合もあり、このケース行司差し違え(もしくは行司軍配差し違え)という。

また、土俵下の控え力士も物言いをつけることができる(最近では1996年1月場所9日目に元大関・貴ノ浪が物言いを付けたことがある=エピソード項参照)が、協議に参加することは出来ない。審判委員は控え力士から物言いが出た場合には必ず協議を行わなければならない。なお、行司は取組の状況を述べる以外は協議に参加できない。

アマチュア相撲においては「異議申し立て」という。控え力士に物言いの権利のないことや、(大会にもよるが)ビデオ判定は用いられないことなどをのぞいて、形態は大相撲とほぼ同じである。

ものいいのビデオ判定

大相撲ビデオ判定が導入されるきっかけとなったのは、1969年3月10日の3月場所2日目、横綱大鵬前頭筆頭戸田の一番だった。土俵際に追いつめられ回り込む大鵬を追ううちに戸田の右足が俵を踏み越え、ほぼ時を同じくして大鵬の体が土俵を割った。22代式守伊之助の軍配は大鵬にあがったが、審判より物言いがあり協議をした結果、大鵬が土俵を割るのが先という結論(審判長の春日野(元栃錦)以外の4人が戸田の勝ちを支持)になり、行司差し違えで戸田の勝ちとなった。しかし、この時の中継映像では戸田の足が先に出たように見えた。大鵬がここまで45連勝していたこともあり、この一番の判定は「世紀の大誤審」と騒がれた。

これを受けて、日本相撲協会は目視による判定を補う方法について検討し、次の5月場所よりビデオ判定を導入することになった。

問題点として、実際にビデオ室で再生映像を確認する者と、協議を行う審判員が別であるため、どちらが先に土がついたかだけが重視され、相撲の流れや生き体、死に体の区別などがないがしろにされがちなことがあげられる。また、明らかな誤審であっても物言いがつかなければ、ビデオが参考にされることはなく、ビデオ室係が行司の軍配に疑問を持っても、物言いをつける権限はない。

勝負審判の判定が物議をかもした例として2004年7月場所中日の朝青龍?琴ノ若戦のいわゆる死に体問題や、貴乃花を引退させたくない協会の思惑がにじみ出たといわれる2003年1月場所2日目の貴乃花?雅山戦同体判定や、明らかに小錦の方が先に落ちているのにも拘らず小錦の投げ有利、若花田の死に体と見て若花田の負けにされ、物言いがつかなかった1993年5月場所千秋楽の一番等がある。

ものいいのエピソード

1877年頃、幕下和田ノ森?淀川戦は仕切り直し四十数回。しびれを切らした勝負検査役勝負預かりにしようとしたが、ある検査役の「仕切る姿が和田ノ森の方が良かった」という提案で和田ノ森の勝ちと決まった。

1895年6月場所6日目、横綱初代西ノ海?前頭筆頭鳳凰戦。8代式守伊之助は西ノ海に踏み切りありと鳳凰に軍配を挙げたが物言い。西ノ海の師匠・初代高砂取締が役員室から出てきて、踏み切ったかかとの跡のある砂を掘り「この通り、砂を払えば下は俵だ。踏み切りはない」とゴリ押し。正取締(現在の理事長職)の剣幕に押されて検査役の意見はまとまらず、深夜遅くになって協会預かりと決まった。結局、3人の検査役が辞任、伊之助が3日間謹慎ということで表面をとりつくろったが、西方力士がこれで収まるはずはなく、翌1896年1月の高砂追放事件(「中村楼事件」)に繋がった。

1897年1月場所8日目、横綱小錦?大関鳳凰戦。左四つから同体、15代木村庄之助は軍配を鳳凰に挙げたが物言い。観衆は布団や火鉢を投げ、土俵近くに群がり、小錦のファンであった歌舞伎役者の中村勘五郎は土俵の真ん中に大の字に寝て「預かりにしなければ、死んでも土俵を降りない」と叫んだ。結局は預かりと決まったが、そのときはすでに鳳凰が帰宅した後だったので、人を迎えに走らせたりするうち、日もとっぷりと暮れて回向院の場内に提灯をたてて気発灯に点火、両力士が土俵に上がって勝負預かりとなったのは、相撲が終わって実に8時間後だった。

1905年1月場所5日目、前頭筆頭太刀山?小結駒ヶ嶽戦で、駒ヶ嶽の寄りを太刀山はこらえきれず土俵下へ転落した。このとき太刀山の投げ出した足が、土俵下で控えていた行司木村瀬平を直撃した。瀬平は後ろにひっくり返り苦しんだが、際どい勝負のため検査役から物言いがついた。1時間に及ぶ協議の末「勝負預かり」となった。この間に元気を取り戻した瀬平は、次の一番を無事に裁いたが、6日目、7日目と大事を取って休場、8日目より再出場した。ところが9日目の朝、自宅の布団の中で急死。太刀山に押し潰されたことが原因による心臓麻痺だった。

1906年1月場所4日目、小結初代朝汐?前頭3枚目若左倉戦。両者立ち上がるや、若左倉が猛然と張り手の雨あられ、それも真っ向から張りまくる。朝汐も憤然とし応戦し、土俵上殺気立った。そのとき行司木村小市は「勝負あった」と両者の間に割って入り、軍配を朝汐に挙げた。小市は「張り手は、協会において厳禁とするところなり」と宣言し、朝汐に勝ち名乗りを上げた。従って若左倉反則負けとなったが、物言いがつき、検査役より「越権行為だ」とか「なぜ勝ち名乗りを上げたのか」と小市を追求する中、「行司の態度は当然」との意見もあった。協会から「正面からの張り手」「拳固にて打つこと」の厳禁の触れが出たばかりで、その矢先だった。まだ規則に不徹底だったため、裁きが決まらぬまま「協会預かり」にした。のちに協会は「行司の行為は独断であり、勝ち名乗りは検査役を無視した越権行為」と行司の責任だったとした。小市は進退伺いを提出したが慰留され、判定は引き分けで決着した。

1914年5月場所5日目、関脇2代朝潮?前頭11枚目金ノ花戦。金ノ花の突っ張りに後退した朝潮が上から叩きながら土俵を割った。行司の軍配は朝潮に挙がったが、西方控えの横綱太刀山から「朝潮に踏み切りあり」と物言い。東方控えの綾川は朝潮の勝ちを主張、検査役も意見が割れて決着がつかず、2時間後検査役たちは「協会の二階で協議する」と土俵を去り空白にして意見を闘わす間、土俵周辺怒声罵声の渦、ついには土俵上に上がって演説する男が現れたりして大混乱。この場所休場していた常陸山、2代梅ヶ谷の両横綱も駆けつけ、3時間40分後「とりあえず勝負は常陸山と梅ヶ谷が預かり、のちに発表する」と決めて、その後の取組を進め、物言いから5時間20分後の午後9時40分、朝潮の丸星、金ノ花の半星、勝負預かりでなんとかケリをつけた。

1921年5月場所5日目、横綱大錦?前頭5枚目鞍ヶ嶽戦。大錦が寄ると鞍ヶ嶽が左へうっちゃり、17代木村庄之助は鞍ヶ嶽に軍配を挙げたが物言いがつき、検査役、控え力士とも鞍ヶ嶽の踏み切りを認めたので、行司差し違えとなった。庄之助は打ち出し直後「本日の失態は本来なら切腹すべきところ」と、辞表を友綱取締に提出。協会役員、大錦、鞍ヶ嶽らの慰留に応ずることなく、53年間務めた相撲界を去った。

1929年1月場所5日目、関脇玉錦?前頭筆頭真鶴戦。2度水入り、3番後取り直しの相撲が制限時間10分を経過したため、行司の注意で玉錦が突っかけ、軍配は玉錦に挙がり物言いがついたが、協議中に真鶴が支度部屋へ引き揚げてしまうハプニングが起きた。呼び戻された真鶴は玉錦と取り直し、玉錦が勝利した。

1938年1月場所9日目、横綱双葉山?関脇両国戦。48連勝中双葉山が寄り切った相撲に、控え力士の玉錦、男女ノ川から双葉に勇み足ありと物言いがつき揉めに揉めた。双葉山の69連勝が48で止まっていたかもしれない歴史的物言いと語り継がれる。結果は、取り直しの末双葉が吊り出しで49連勝。現存する写真では双葉山の右足は大きく踏み越しているが、その前に両国の体は完全に死に体だった。

1941年5月場所14日目、横綱双葉山?大関前田山戦双葉山の「勇み足」か「送り足」かで紛糾、観客の怒号が飛び交う中協議が続き、意見がまとまらず32分間の中断だったが、双葉山の「取り直しましょう」の一言で協議の末取り直しとなり、双葉山が勝利した。

1948年10月場所6日目、横綱前田山?小結力道山戦前田山は行司の軍配を受けながら取り直しの判定が不服で、指の負傷を理由に支度部屋へ引き揚げたため、「取り直し」でも「痛み分け」でもなく棄権とみなされ、力道山の不戦勝となった。

1951年9月場所12日目、横綱東富士?大関吉葉山戦は2度の物言いがついた。最初の取組は東富士に軍配が挙がったが、協議の結果は同体で取り直し。取り直しの一番は左四つがっぷりで膠着状態が続き水入り。再開後吉葉山の一気の寄りに東富士土俵際で捨て身のうっちゃり。吉葉山に軍配が挙がるも物言いがつき、協議の結果またも同体。実はこの日、東富士は風邪をこじらせ40度の高熱だったが、無理を押して出場。3度目の取り直しになろうかというところ、検査役がこれ以上の取組は危険と判断し、勝負預かりとなった。

1954年9月場所7日目、関脇大内山?前頭筆頭出羽錦戦大内山出羽錦の食い下がりを警戒して、長い腕でのど輪を押し上げて攻める。のけぞりながら出羽錦は何とかもろ差しの体勢になり、右ふところに食いついた。これを嫌って大内山は詰まりながら右から小手を抱え、大きく小手投げを打つと、出羽錦の左ひざが折れて砂に触れたか触れないか微妙なところで、行司13代木村庄太郎は「勝負あり」と軍配を大内山に挙げた。軍配を見た大内山は当然のように力を抜く。軍配を見ていない出羽錦はそのまま大内山を寄り切った。勝ったと思った出羽錦はそのまま西方の二字口に立った。そのとき行司溜まりの西岩検査役が物言いをつけ「出羽錦につきひざはない」と主張。立浪(元横綱羽黒山)、湊川(元前頭十勝岩)、出来山元大関汐ノ海)の3者とも同意見、正面の検査長時津風は泰然と座ったまま。協議の結果「取り直し」が妥当と判断したが、時津風の裁定は大内山小手投げを打つ体勢から再開する「組み直し」という奇妙な結論に達した。再開後大内山がうっちゃりで勝ったが、何とも後味の悪い一番となった。結局詰め腹を切らされたのは行司庄太郎で翌8日目より謹慎となった。ちなみに同様の前例として1941年5月場所13日目、大関前田山?関脇照國戦がある。

1958年1月場所6日目より、勝負検査役は物言いの協議にワイヤレスマイクを使用することにした。

1958年9月場所初日、前頭7枚目北の洋?横綱栃錦の物言いで行司の19代式守伊之助が土俵を叩いて自分の軍配の正当性を主張した。いわゆる「ヒゲの伊之助涙の抗議」である。

1958年11月場所より、先場所の北の洋?栃錦戦の一件で、物言いに行司も検査役の協議に加わり発言できるようになった。

1964年5月場所4日目、序ノ口高見山(現東関)?吉瀬川戦吉瀬川は足の大きさ18文の巨漢だが気が弱く、怖くなって立ち上がるといきなり後ろを向いて逃げ出し土俵外へ、勝負検査役は「待った」と見なしてやり直し。再び逃げ腰の吉瀬川高見山はやさしくソーッと押し出した。

1964年9月場所3日目、横綱大鵬?前頭3枚目若浪戦勝負判定などで時津風理事長が全勝負検査役を叱責。これを機に勝負検査役は幹事制を設けることとなった。

1964年11月場所12日目、前頭11枚目荒波?同5枚目海乃山戦での湊川検査長の処置が不適切と、取締会がこの場所限り湊川を謹慎処分とした。

1965年1月場所より物言いは携帯マイクをやめて、正面の検査役経過説明をすることになった。

1966年11月場所4日目、小結琴櫻?前頭2枚目禊鳳戦。禊鳳が一気に寄ると、琴櫻が東土俵際で捨て身の小手投げ。2人はほぼ同体で倒れたが、行司4代木村玉治郎(のち27代庄之助)は琴櫻の負けと判断、禊鳳に軍配を挙げた。しかし物言いがつき協議の結果、行司差し違えで琴櫻の勝ち。25代庄之助も「禊鳳が先に落ちている」と玉治郎の差し違えを認めた。しかし検査役の物言いに公平さを欠くような場面があった。東土俵で勝負がついたにもかかわらず、最初に物言いをつけたのは、西の佐渡ヶ嶽検査役元小結・琴錦=琴櫻の師匠)。さらに、藤島検査役元前頭出羽湊)は、いちばん勝負の見える場所に居ながら、部屋の弟子である禊鳳の勝ちを主張した。

1967年11月場所9日目、前頭筆頭長谷川(現秀ノ山)?横綱佐田の山戦。佐田の山の廻しがほどけたため、立行司の22代式守伊之助が、両者の背中を叩いて「廻し待った」で両者の動きを止めようとしたが、佐田の山が気づかずに長谷川を吊り出してしまった。物言いがつき協議の結果、「廻し待った」をかけた時の体勢から取り直し、佐田の山が勝利した。しかし再開前再開後長谷川の差し手が変わっていた。「廻し待った」がかかった時点での長谷川の差し手は「左差し」だったが、再開時には「もろ差し」になられた体勢になっていたという。長谷川は組み手の違いを主張せずに敗れた。取組後伊之助は「差し手が見えなかったので二子山元横綱初代若乃花)、岩友(元前頭神東山両検査役に聞いたところ、(佐田の山の)もろ差しと言ったので」と弁明した。差し手を確認せず「廻し待った」をかけた伊之助にも非はあるが、長谷川自身にも問題があった一番だった。

1968年9月場所初日、十両最初の和晃?朝嵐戦。制限時間いっぱいから朝嵐が土俵内に落ちていた箒の切れ端を捨てるために土俵外に足を踏み出して負けにされた一番。陣幕審判長代行元前頭・島錦)の説明は「制限時間後土俵外に出たのは勝負規定違反なので、和晃の勝ちとします」だったが、そんな規定はどこにもなかった。

1970年7月場所12日目、前頭5枚目黒姫山(現武隈)?同8枚目大雄戦で、行司が即退場処分を受けるという前代未聞の珍事が起きた。制限時間いっぱいから黒姫山が立つと、大雄は一瞬「待った」という仕草を見せたが、そのまま力を入れ直し右を差した。ところが「待った」と思った黒姫山が力を抜いてしまい、そのまま大雄が寄り切った。この間、行司木村今朝三は完全に棒立ち、「待った」も「ハッケヨイ」の声も発しなかった。5人の審判員は協議の末、今朝三を即刻退場処分とした。審判規定行司の項第7条「両力士が立ってからは、“待った”または“ハッケヨイ”の声をなす」の職務を怠ったためだった。この一番は取り直しとなり、代わりに木村玉治郎(のち27代庄之助)が裁き、大雄が勝利した。今朝三は処分後「声を出したが、小さかった」と弁明したが、さすがに意気消沈したという。

1972年3月場所7日目、横綱北の富士と西前頭筆頭貴ノ花の結びの一番で22代式守伊之助の軍配は北の富士に挙がったが、北の富士に勇み足ありとして行司差し違えで貴ノ花勝利。この両者は前場所も北の富士の“つき手”か“かばい手”かを巡ってもめた一番を取っており、二場所連続同じ顔合わせで立行司が差し違えの珍事となった。なお伊之助はこの場所12日目の関脇長谷川(現秀ノ山)?大関大麒麟戦においても差し違えており、伊之助進退伺いを提出したが、場所前に25代木村庄之助が廃業しており、立行司不在の場所は前例がないため、翌13日目の1日のみ謹慎となった。

1974年11月場所7日目、前相撲の椰子ノ島?壇上戦。行司の軍配は壇上に挙がったが、物言いがついてトンガ王国出身の椰子ノ島の勝ちと決まり、陣幕審判元前頭・島錦)が「ただいまの勝負は行司差し違いでトンガ王国の勝ちと決まりました」と説明して館内爆笑となった。陣幕審判は時々面白い説明をする人で「残念ながら踏み越しがあり東方の勝ち」と説明したこともあった。

1975年7月場所12日目、序二段増の里?富士嵐戦。立ち合い富士嵐の変化に前へのめった増の里が手をつきかかったところで行司木村玉男は軍配を富士嵐に挙げたが、増の里はなんと前方空中回転して立ち、再び戦闘態勢をとった。当然物言い取り直しとなり、外掛けで増の里が勝った。

1976年7月場所、7日目の関脇荒勢?前頭2枚目金城戦と8日目の荒勢?前頭筆頭若三杉(のち2代若乃花、現間垣)戦で時間いっぱいから、ともに6回の「待った」があり、勝負審判全員が土俵に上がって協議、両力士に注意するという場面があった。

番外だが1980年11月場所13日目、佐ノ山審判元小結・國登)が酒に酔って審判を務め解任された。

1994年5月場所5日目、三段目雷王?竜風戦で4度の物言い、5度も取り直すという一番があった。最初は投げの打ち合いで雷王の上手投げ、2度目は雷王の押し、3度目は竜風の寄り倒しにそれぞれ軍配が挙がったが、そのたびに物言いがつき3番とも取り直し。4度目は竜風が寄り切ったかにみえたとき、行司木村圭吾は「勇み足」とみて軍配を雷王に挙げた。ここまでくると館内は「取り直せ!」の大コール。期待(?)に応えた八角審判長の説明は「足が出るのと、体が落ちるのと同時とみて???」5度目の取り直しとなり観客は大喝采疲労困憊両力士だったが、最後は竜風が雷王を寄り倒して決着した。ちなみに幕内では1988年5月場所初日、前頭11枚目霧島(現陸奥)?同13枚目水戸泉(現錦戸)戦で3度同体の混戦の末、4度目に水戸泉が霧島を寄り倒し決着した。

1995年7月場所6日目、序二段の冠甲?琴坂口戦琴坂口上手投げで勝ち、行司木村誠二はためらうことなく軍配を東の琴坂口に挙げたが、西の冠甲に勝ち名乗りを上げてしまい、場内決まり手係もそれにつられて「上手投げで冠甲の勝ち」と放送してしまった。当然物言いがつき、結局行司差し違いとなり、琴坂口に勝ち名乗りを上げ直させた。

1996年1月場所9日目、小結土佐ノ海?前頭筆頭貴闘力(現大嶽)戦。当たり合ったあと貴闘力は左からいなし、残した土佐ノ海が頭を下げて一気に出てくるところを強引に叩き込んだ。土佐ノ海は右手から落ち、貴闘力も右足から土俵を割り微妙だったが、行司8代式守勘太夫(のち30代伊之助)の軍配は土佐ノ海に挙がった。すかさず東の控えにいた大関貴ノ浪(現音羽山)が物言いをつけ協議の結果、勘太夫の差し違いで貴闘力の勝利となった。

1996年5月場所8日目、結びの横綱曙?関脇貴闘力戦貴闘力が飛び出すより、曙の左足が一瞬早く土俵外へ踏み越したため、立行司29代木村庄之助貴闘力に軍配を挙げたが物言いがついた。佐渡ヶ嶽審判長元横綱・琴櫻)は、貴闘力に軍配が挙がっているのに「曙の足が先に出たのでは、と物言いがつき・・・」と意味不明な説明だった。勝負は「引き落とし」で貴闘力の勝ちだったが、協会発表の決まり手は曙の「勇み足」だった。

1996年9月場所7日目、序二段の取組で勝負がついていないのに、行司が相撲を止めてしまうハプニングがあった。福山?藤川戦で、もろ差しになった藤川が土俵際まで寄って、福山が俵に足が掛かってこらえているとき、行司木村保之助が「勝負あった」と大声を上げ藤川に軍配を挙げようとしたが、すかさず土俵下の審判から「(足は)出ていないぞ」と声が上がり物言いとなり、協議の結果取り直しとなった。取り直しの一番は、いったん負けとなった福山が上手投げで藤川を破った。取組後保之助は「恥ずかしい。行司を辞めてしまおうかと思いました」と意気消沈

1999年1月場所8日目、物言いがついた取組で審判長が説明の際、2度も力士の四股名を言い間違えた。十両の大善(現富士ヶ根)?舞の海戦で、佐渡ヶ嶽審判長元横綱・琴櫻)が舞の海を「智乃花(現玉垣)」と間違えた。さらに同審判長は「智乃花」と3回も言い間違え、館内から失笑とブーイング。中入り後の前頭14枚目金開山(現関ノ戸)?同10枚目五城楼(現浜風)戦では、九重審判長元横綱・千代の富士)が、五城楼を「若ノ城」と言い間違えた。

1999年5月場所2日目、横綱3代若乃花?前頭筆頭琴乃若(現佐渡ヶ嶽)戦。若乃花のすくい投げに、土俵際琴乃若上手投げを打ち返した。誰もが若乃花の絶対不利と思ったが、立行司29代式守伊之助若乃花に軍配を挙げた。物言いがついて当然の一番だったが、審判員は誰も手を挙げようとはせず、館内は騒然となった。琴乃若がなぜ負けたのか、勝負判定の説明もなかった。

1999年7月場所7日目、前頭5枚目蒼樹山(現枝川)?同8枚目朝乃翔戦朝乃翔が突き勝って出るところ、蒼樹山が右に変わっていなしたとき、左手が朝乃翔のマゲに引っかかり思わず引いてしまい、朝乃翔が残るところを右おっつけ左ハズから押し出した。行司木村咸喬(のち32代庄之助)は蒼樹山に軍配を挙げたが物言い、佐渡ヶ嶽審判長元横綱・琴櫻)は「蒼樹山がマゲを引っ張ったが、マゲを引っ張ったことで勝負がついたのではないので、軍配通蒼樹山の勝ち」と決まった。実は4日目に朝乃翔旭天鵬にもマゲをつかまれていて、この時は相撲にほとんど関係なかったが、「今日(蒼樹山戦)の方が長くマゲをつかまれていた」とぼやいた。4日目の取組の後、師匠の若松親方元大関・朝潮)から「今度マゲを引っ張られたら、土俵に手をついてしまえば反則勝ちになる」とアドバイスを受けていたが、実践できぬまま敗れた。

2003年3月16日3月場所8日目、前頭10枚目武雄山(現大鳴戸)?同12枚目金開山(現関ノ戸)戦で物言いがついたが、マイクが接触不良で音声が途切れるハプニングが起きた。機転を利かせた二子山審判長元大関貴ノ花)が西方花道脇の場内放送席まで行って場内説明した。

2004年1月24日1月場所14日目、前頭9枚目琴龍?同14枚目武雄山(現大鳴戸)の取組に物言いがつき、九重審判長元横綱・千代の富士)が場内説明する際、武雄山の名を忘れ「えーと何だっけ」と発言した。なお彼の場合、「取り直し」の発表の際にいきなり「もう一丁!」とだけ言うなど、いくつかのエピソードを持っている。

講談などでは、寛政時代雷電と小野川の取組で、雷電の寄りを土俵際こらえた小野川が必死に残すも軍配は雷電、しかし小野川を抱える久留米藩の藩士が小野川がうっちゃったであろうと刀に手をかけ、土俵に駆け上って物言い、行司はいさいかまわず凛然と「雷電ン?!」と勝ち名乗りをあげ、観客の喝采を得る??という話がある。これ自体はまったくの創作だが、こうした強引な物言いは当時けして少なくなく、江戸の庶民も腹にすえかねていたことがわかる。

◇出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)『ものいい』より
取得日:2008-09-22

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