レッド・ツェッペリン(Led Zeppelin, 1968年 - 1980年)はイギリスのロックバンド。人気・実力共に1970年代を代表する世界的なロックバンドである。略称は、Zep若しくはLed Zep。
レッド・ツェッペリンの概要
1970年代、世界中で圧倒的な人気を誇ったロックバンドである。日本においても彼らのアルバムが発売されるとすぐにスーパースターとなり、1971年の初来日公演の衝撃と演奏の素晴らしさは日本の音楽史上に残る伝説となった。
常にマスメディアと距離を置き、最初期を除きTVでは殆ど演奏しなかったにもかかわらず、アルバムセールスや観客動員数・ギャランティで他に類を見ない空前の記録を作り続けた。解散して27年以上経った現在でも世界中でアルバムは売れ続け、巨大な影響力を持ち続けている。アメリカだけでも通算アルバムセールスは1億枚を超えており、エルヴィス・プレスリーやビートルズ と並ぶセールスを誇る。これはマイケル・ジャクソンやローリング・ストーンズの倍以上のセールスである。なお、全世界でのアルバムセールスの累計は現在のところ3億枚を突破している[1]。
1960年代中頃、イギリスの若いミュージシャンの間では、本国アメリカでは忘れられていたブルーズがブームとなっており、それをさらにパワーアップし、ドラマティックにした彼らは後の世代にロック、もしくはハードロックと言われる音楽を世界中に知らしめた。また彼らの楽曲にはアコースティックナンバーも多く、ブリティッシュ・トラッド、フォークから中近東音楽に渡る幅広い音楽性を持ち、1960年代のビートルズとはまた違った方法論でロックの限界をより押し広げた。
レッド・ツェッペリン I でデビューした彼らは音楽シーンに衝撃を与えると同時に、またたく間に人気を得たが、オフステージでの乱痴気騒ぎは酒池肉林を地で行く激しさで、大抵のロックバンドのご乱行には慣れているはずのプレスの眉をしかめさせた。また新人としては破格の、アルバム5枚で20万ポンドというレコード会社との契約金は、牧歌的ヒッピー文化の色濃い当時にそぐわぬ華々しさであり、その素行などは常にマスメディアからの攻撃の的であった。またTVでの演奏を拒否し、プレスに対し辛辣な態度を取るツェッペリンにマスメディアの大勢は、熱狂する聴衆と市場に反してバンドの解散まで酷評し続けていたという逸話が残っている。
レッド・ツェッペリン登場以前は、口ずさみやすい歌が入ったシングルレコードを出し、それをラジオやテレビで聴いてもらってレコードを買ってもらい、スターとなるのが普通であった。しかし彼らが本国イギリスで発売したシングルは解散前年である1979年の「ホット・ドッグ」一枚のみである。デビュー当時、アルバムは若者にとってまだまだ高価なため裕福なファンの多いクラシック以外で、アルバムだけで勝負するのは考えられない時代であった。TV出演回数もほんのわずか。それでも小さなクラブや大学のステージでの歌と演奏の凄まじさが口コミで伝わって巨大な旋風を呼んでいったのである。現代においてもツェッペリンのアルバムはアメリカだけでも年に100万枚以上を販売する実績を誇り、また海賊盤CDやブートレッグ・ビデオなど非公式の音源も豊富である。
また1995年には「ロックの殿堂」入りを果たし、2004年には日本ゴールドディスク大賞を受賞[2]。2005年にはアメリカの音楽賞で最大であるグラミー賞(功労賞)を受賞。2006年にはUKミュージックの殿堂「UK Music Hall Of Fame」入りを果たすなどレッド・ツェッペリンは数多の栄冠をいただくアーティストである。
レッド・ツェッペリンの経過・歴史
レッド・ツェッペリンの結成までの経過
スタジオ・セッション・ギタリストを経てエリック・クラプトン、ジェフ・ベックに続く、ヤードバーズ最後のリードギタリストとなったジミー・ペイジが、同バンドの録音を経験するうち、レコード制作に要求される配慮やボーカリストの重要性に目覚め、偶然性も加わってオーソリティーともいえる各パートのメンバーをそろえて結成されたものとされる。
ヤードバーズは1968年7月7日のコンサートを最後に、キース・レルフ(vo)とジム・マッカーティ(ds)が脱退。クリス・ドレヤ(b)とペイジは同じミッキー・モスト・プロダクションにいたテリー・リード(vo.g)とプロコル・ハルムのB.J.ウイルソン(ds)をメンバーに誘うが、テリーには自らのバンドのアメリカツアーが決まっていたため断られ、ウイルソンにはプロコル・ハルムが成功しているとして断られた。
ところがすぐにテリーから「シンガーを見つけた」とペイジに電話があった。テリーはバクストンで共演したバンド・オブ・ジョイで歌っていたロバート・プラントを推薦。ペイジはステージをチェックしロバートを引き抜いた。そしてロバートがバンド・オブ・ジョイにいたことのあるドラマー、ジョン・ボーナムを推薦。ボーナムはアメリカのシンガーソングライター、ティム・ローズのUKツアーに参加しており、より高いギャラが保証されるならとヤードバーズ入りを承諾。しかしドレヤがメンバー探しの途中にカメラマンに転向するとして脱退。そこで以前からペイジとスタジオ・セッションで顔を合わす機会の多かった、ベーシスト兼キーボーディストのジョン・ポール・ジョーンズを誘う。ジョーンズは、黒人音楽に精通するアレンジャーとしての地位を既に確立していて、ペイジ同様、若いながらも、売れっ子のスタジオセッションプレイヤーとして活躍していた。
ヤードバーズとしての契約が残っていたスカンジナビア・ツアーをNew Yardbirdsと名乗り行う。この時既にレッド・ツェッペリンのデビューアルバムの曲が演奏されている。(因みにそれにも関わらずレコード会社がツェッペリンとヤードバーズで違うのは、ペイジが当時ヤードバーズの所属していたレコード会社の商業主義に嫌気が差していたからである)帰国後すぐにアルバムを録音。
1968年10月15日、サリー大学でのイギリス初のコンサートではNew Yardbirds featuring Led Zeppelinと名乗っている。ヤードバーズはアメリカのMSGでコンサートをしたほどのビッグ・ネームであったが、古いポップグループのイメージが残る名前と決別したかったため改名したといわれている。
ヤードバーズの音楽性を継承しつつも、ブルースベースのハードロックをより推し進めた彼らの1stアルバムにおける音楽性について、同じミッキー・モスト・プロダクションにいた(第一期)ジェフ・ベック・グループがヒントであったといわれることがある(ジェフ・ベックはツェッペリンのステージを見て「あれは俺のパクリだ」と言ったらしい)。しかし、ツェッペリン結成時の状況を鑑みるに、音楽性が似通っていることは偶然であった可能性も否定できない。
レッド・ツェッペリンのバンド名の由来
1966年5月16日、ジェフ・ベックのソロ・シングルの録音のためジェフとジミー・ペイジ(ギター)、ジョン・ポール・ジョーンズ(ベース)、ニッキー・ホプキンス(ピアノ)、キース・ムーン(ドラムス、ザ・フー)の5人によるセッションが行われる。このセッションは非常に充実したもので、5人中4人はパーマネントなバンドとしての活動を希望したが、ジョーンズが乗り気でなかったことと、いいシンガーが見つからなかったことを理由にその計画は頓挫する。その時にムーンが「もしも俺たちが今いるバンドを辞めたら、きっと向こうは鉛の風船みたいに急降下だろうぜ、いや、鉛の飛行船(lead zeppelin)かな?」と発言したことによる。「going like lead Zeppelin」はムーンの口癖であったという。
また、デンマーク公演の最中にツェッペリン飛行船の開発者の子孫であるエヴァ・フォン・ツェッペリン女史にファミリーネームの無断使用で訴えられかけて一時「THE NOBS(ザ・ノブス)」(=紳士たち、または陰茎の隠語)と名乗っていたこともあった。エヴァは法廷で「金切り声を上げて飛び回る猿どもに、当家の栄誉ある名前を名乗らせるわけには参りません」と宣言したと言う。
レッド・ツェッペリンのデビュー後の快進撃
1968年10月に録音したアルバムのテープはペイジとマネージャーのピーター・グラントとの共同出資によるものであった。そのテープを持って渡米したグラントは当時としては破格の20万ドルでアトランティック・レコードと契約。グラントがマネージメントしていたジェフ・ベックがヴァニラ・ファッジとのアメリカツアーに参加できなくなった代わりにレッド・ツェッペリンを送り込み、12月26日から参加させる。このツアーでツェッペリンは爆発的な評判を呼び、1969年1月12日にアメリカで発売予定のデビューアルバムに5万枚の予約が入り全米10位、イギリスでは3月28日に発売され、全英6位となっている。
1969年10月に発売されたセカンドアルバムはビートルズのアビーロードを蹴落とし英米共に1位、1970年10月発売のサードアルバムも英米共に1位となった。1970年のメロディー・メーカー紙の人気投票でもビートルズを破りベストグループ1位となった。その後も解散するまで全てのアルバムが巨大セールスを記録、コンサートツアーの売上もトップであった。
レッド・ツェッペリンの音楽的独自性
各メンバーの担当パートにおける、実力に裏打ちされたオーソリティーとしての感性や音楽性、特にドラムスの独特のタイム感覚(グルーブ感)、そして、当初ペイジが中心になり、後にプラント、ジョーンズそしてボンゾも参加しだした楽曲の完成度は、「ブリテッシュハードロックの聖域」といわれるほど独自なもので、各メンバーのピーク時のコピーは、現在に至っても当の本人すら不可能なものであった。インプロヴィゼーション、つまり即興演奏を得意としたバンドであり、ライブにおける「胸いっぱいの愛を」や「幻惑されて」は30分以上に及ぶこともあった。ただ、ロバートが喉を痛め、かつてのような神ががり的な音域や声量を失ってしまった後の1973年以降のライブでは、ジミーのプレイも年を追うごとに雑になってしまう。一部では「デビューから最後まで演奏能力の向上することのなかった唯一のバンド」との評価もある。一般に単なるハードロックバンドの一種であると誤解されやすいが、独特のタイム感、リズム感を持つツェッペリンには、典型的なハードロックにとどまらない楽曲が非常に多く、またアコースティックギター中心のナンバーにも力を入れ、トラッド風、メローなバラード調をはじめ、中東風民族音楽的要素、踊れないファンク調等々、特に5枚目のアルバム以降は様々な音楽を意図的に取り入れ(正確には、あらゆる音楽を自分流に作曲・演奏できた)、1980年に解散するまで貪欲にその音楽的独自性を高めていた。またツェッペリンは結成当初トラッド・フォーク・ロックバンドとして活動する構想もあったといわれている。これはジミー・ペイジのフォーク趣味とプラントのケルト志向、民族音楽志向もあってのことであったが、結果的にジョン・ボーナムという最高のドラマーを得たことにより、バンドは轟音のロックを基本的に志向することになる。しかしこのペイジとプラントのフォーク・トラッド志向は「天国への階段」をはじめ、ツェッペリンの様々な曲に大きく影響している。彼らの多様な音楽性を物語るエピソードとして、6枚目のアルバム「フィジカル・グラフィティ」に収録された「トランプルド・アンダー・フット」は当時ニューヨークのアンダーグラウンドで黒人の間で盛り上がっていたディスコ(ここで言われるディスコとは日本で通常使用される風俗としてのディスコではなく、いわゆるクラブ音楽としてのディスコ。ディスコの項参照)で頻繁にプレイされ、現在に至るもディスコ音楽においてDJ達からクラシックとして敬意を払われ、プレイされ続けてきている。本人たちも意図しない形で他のジャンルの名曲を作り出したという形であり、彼らのハードロックはもとよりロックにもとどまらない音楽的、リズム的な懐の広さを良く表している。
特に4thアルバム収録の「天国への階段」は、かのカラヤンをして「私がこの曲をアレンジしたとしても、全く同様になったことであろう」と言わしめたロックの名曲であり、近年での再結成時においても、存命中のメンバー3名がそろった時にしか(歌入りで)完奏されない、彼らのシンボル的曲である。
レッド・ツェッペリンの活動の歴史
ライヴツアーの行われた年は、以下の通り
1968年
1969年
1970年
1971年初来日。
1972年二度目で、「レッド・ツェッペリン」としては最後の来日。
1973年前年から兆候はあったが、この年にプラントの喉が支障をきたしてしまい、往年の歌い方がほぼ不可能になってしまう。プラントは73年のアメリカツアーの後、傷めた喉の手術をしたと82年に雑誌のインタビューで独白。
1975年ギリシャのロードス島でプラントが自動車の運転中事故に遭い両脚を折る重態となりワールドツアー後半で中止。
1977年若干、ボーカルのコンディションが75年より回復。だがツアー後半、プラントの長男カラックがウィルス性感染症で死去、その後の活動は無期限で中止となる。
1979年イギリス、ネブワースでの復活コンサートの2回を含む4回のライブのみ。
1980年この年のヨーロッパ・ツアーの後、アメリカツアーが予定されていたが、ジョン・ボーナムの死によってキャンセルとなり、活動を終了。
レッド・ツェッペリンの解散
1980年9月24日のドラマーのジョン・ボーナムの事故死(過剰飲酒後の就寝時に吐瀉物が喉に詰まったための窒息死)によって、同年12月4日に解散を表明した。後継者として何名かのドラマーが名乗りを上げ、バンドでも人選について議論されたが、ボーナムのドラミングに見られるグルーブ感やノリには余人の模倣を許さないほどの特徴があり、彼のバンドサウンドへの貢献度は非常に高かったため、「彼なしでのバンド継続は無理」と判断されたもの。1982年には彼への追悼アルバム CODA が発表されている。
レッド・ツェッペリンの解散後、再結成
1985年のライヴエイドでフィル・コリンズがパフォーマンス中、ロバート・プラント、ジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズを呼び込み、「ロックン・ロール」「天国への階段」「胸いっぱいの愛を」を演奏した(ドラムスはト二ー・トンプソンとフィル・コリンズが担当)。この時は「LED ZEPPELIN」名義では無かった(フィル本人がツェッペリンと共演したいが為にイベントを利用したと後日語っている)が、その後、残りの元メンバー3人が集まった時のみ(1988年からは、ジョン・ボーナムの息子であるジェイソン・ボーナムがドラマーとして参加し)、「LED ZEPPELIN」名義のステージパフォーマンスが、何度か行われている。
2007年12月10日にはロンドンのO2アリーナにて、2006年12月に死去したアトランティック・レコードの創始者、アーメット・アーティガンを追悼するチャリティーライブとして、先述のメンバーで一夜限りの再結成が行われ、アンコールを含め約2時間の演奏をした。このライブには実に世界50ヶ国以上から彼等のファンが訪れ、インターネットを経由してチケットの購入を登録を済ませた約2500万人。の応募者から、抽選で約2万人の観客が選ばれた。観客の中にはチャリティーオークションに出品された1枚のペアチケットに、8万3000ポンド(約1900万円)もの値をつけ、購入した者が居たことでも話題となった。それまで数回の再結成を不本意なものと感じていた彼らは、この日のためにリハーサルを繰り返し、その結果全盛期を彷彿とさせる圧倒的なパフォーマンスを見せた[3]。この再結成の話題は彼らの本国を含め世界各国の新聞やテレビのニュース番組でも盛んに報道されるほどの騒ぎとなり、会場にはミック・ジャガー、デヴィッド・ギルモア、ノエル・ギャラガー、ケイト・モス、ナオミ・キャンベルなど多数の有名著名人の姿があった[4]。
レッド・ツェッペリンの影響と評価、功罪
レッド・ツェッペリンの政治性に関して
ツェッペリンの残した音楽性や奏法が、いまなお後進のミュージシャンに多大な影響を与えたのは論を待たないが、いわゆる政治や社会性に触発されたと思しきストレートなメッセージ作品はほとんど残していない。
これは1980年代以降の商業ベースが定着したシーンにおいてさして特筆すべきことでもないが、元来ロックミュージックはエルヴィス・プレスリーが白人音楽に黒人の「ブルース」テイストを融合させセクシャルに歌いあげた事件以降、タブーへの挑戦や反逆性を秘めたジャンルであった。とくにツェッペリンが結成された1960年代後半はラブ・アンド・ピース、ウッドストックなどに代表される反戦メッセージや、ヒッピー文化を背景にした理想の追求が音楽面にとどまらず世代的ムーブメントにまで昇華したのであるが、後述のように今日彼らの活動や高い音楽性がそれら政治思想の影響として評価される例はほとんど稀である。その極めて政治的に中庸なバンドコンセプトもまた、現在まで連なるHR/HMの様式のひとつとして無意識に継承されているといえるかも知れない。
ただしその中でも1971年9月の来日時自ら広島でチャリティーコンサートを開き、当時の金額にして約700万円の売上金を広島市役所を通して原爆被災者に寄付している。[5]
これには前月1日ニューヨークでジョージ・ハリスンによるバングラデシュ・コンサートが先立って開催されており、世相としても興味深いところだ。
レッド・ツェッペリンの時代を超えた音楽性
彼らの長髪や乱痴気騒ぎは「反社会的」ではあったが、1960年代から1970年代前半に流行していたプロテストソングのような反体制的な歌を特にやっていたわけではない。革新的なサウンド、高い演奏能力と同時にケルト文学の造詣が深いロバート・プラントの歌詞は今でも高く評価されている。「天国への階段」の歌詞のみが資本主義に対する警鐘であると評されるが、後のインタービューで「深い意味なんて無い」と語っているようにプラントに明確な政治的意図があったとは考えにくい。また、ペイジやプラントが歌詞や行動を通じてほめのかしていた神秘主義(アレイスター・クロウリーへの傾倒など)やケルト趣味は1970年代前半においてはリスナーにバンドの背景に神秘的で得体の知れない危険なイメージを与えていた。
またイギリス限定だが1976-1977年にかけて肥大しすぎたロックは逆に当時の若いリスナーの反感を買い、パンク・ロックやニュー・ウェイヴが全盛期だった。ローリング・ストーンズなどと並んで「ダイナソー(恐竜=時代遅れ)・ロック」、「オールド・ウェイヴ」と揶揄されてしまうこととなる。その当時、イギリスは未曾有の大不況の真っ只中であった。路上には職を求める若者があふれ、社会全体が不満に包まれていた。そんな中で巨大になりすぎ、余りにも音楽として純粋、理想主義でありすぎたツェッペリンの音楽はリアリティを失っていったのである。イギリスではストラングラーズ、ザ・クラッシュ、セックス・ピストルズなど、政治やストリートの「リアル」を反映した「パンク」ロックが人気を集め、アメリカではディスコ・ブームが起こり、イギリス出身のローリング・ストーンズやロッド・スチュワートまでもがディスコ・ソングを歌った。しかし、レッド・ツェッペリンはそんな流行には目もくれず、2年間たっぷりと休養し、1979年、アルバム「イン・スルー・ジ・アウト・ドア」を発表、その売上は英米のみならず世界でトップを独走した。解散後の80年代、90年代、2000年代も世界でアルバムは売れ続け、時代を超えた音楽家として別格の地位を保っている。
レッド・ツェッペリンの再評価
1980 年代中期前後以降、ロックではなくR&Bやヒップホップなどのシーンにおいて、レッド・ツェッペリン独自のビートやリズム、グルーヴ感が再評価され、「レヴィー・ブレイク」などがビースティ・ボーイズなどによりサンプリングされるようになり(現在では「レヴィー・ブレイク」のドラムスはサンプリングにおけるスタンダードの一つになっている)、ツェッペリンの音楽性は再び日の目を見ることとなった。だが1980年代末から1990年代初めのロックシーンでは、ロックが政治的・学問的様相を帯びてくるにしたがって、とかくレッド・ツェッペリンの影響は軽視されがちであった。U2やブルース・スプリングスティーンに比べて余りにも「反骨精神」がなく、ニルヴァーナに比べて「リアル」でもないとされてしまったのである。そのような不当な評価を覆して、現在では彼らの影響を受けたと公言するアーティストは数多い[6]。また2005年にイギリスのロック専門ラジオ局、Planet Rockにおいて行われた、リスナーによる投票で各パートにおけるベストパフォーマーを選出し、架空の究極バンドを作ると言う趣旨の企画「究極のバンド」アンケートにおいて、結果的にレッド・ツェッペリンのメンバーが各パートで一位を独占するという現象がおこり、「究極のバンド」は実在していたという結果が出された[7]。日本においてはディープ・パープルなどのいわゆる1970年代ハードロックバンド群と一緒にして語られることもあるが、世界的にはツェッペリンはジャンルを越えたロックバンドとして、上記にもあるような様々なジャンルのミュージシャンや音楽スタイルに影響を与えた、偉大な存在として評価されている。
レッド・ツェッペリンのメンバーと主な担当楽器
ジミー・ペイジ Jimmy Page(ギター、テルミン)
バンドのリーダーであり、ヤードバーズ歴代の3大ギタリストの一人。楽曲、ビジュアル面も含めたプロデュース能力に秀で、ツェッペリン全アルバムのプロデューサーでもある。キャリアの中期以降テクニカルな演奏能力の面では酷評されることも多いが、曲の印象を決定づけるリフの作成能力、曲想と調和したメロディアスなソロ演奏能力の面では高く評価される。1980年代はポール・ロジャースと共にザ・ファームを結成。その後、カヴァデール・ペイジ、ジミー・ペイジ&ブラック・クロウズなど様々なプロジェクトに参加するが、現在ではギタリストとしての活躍は少なく、過去の未発表音源のリリースやアルバムのリマスタリング作業にあたるなど、ツェッペリンの業績を良好な形で現代に伝える、ツェッペリンの守り手としての活動が主である。
ロバート・プラント Robert Plant (ボーカル、ハーモニカ)
その神がかり的な広い音域を自在に操る歌唱力、凄まじい声量、美しいルックスで世界中のロックファンを震撼させたが、喉を痛めた1973年以降は初期のアクロバテックなヴォーカルスタイルを変化させ、独特の味のある歌唱法を完成させた。元ツェッペリン中で唯一現在でもパーマネントなバンドを組んで精力的に活動している。解散後はツェッペリンでも見せていたケルト音楽や民族音楽を大きく取り入れたサウンドを志向する事が多い。
