一澤帆布工業

一澤帆布工業株式会社(いちざわはんぷこうぎょう)は、京都市東山区にある布製かばんのメーカーである。「京都市東山知恩院前上ル 一澤帆布製」と縫い込まれた赤枠のタグで有名。

2006年、相続をめぐるトラブルにより一時営業休止した。同トラブルにより、創業一族の一澤信三郎とそれまで勤めてきた職人は退社して、同様のかばんを取り扱う一澤信三郎帆布を設立。一澤帆布工業株式会社を継いだ長男の一澤信太郎は新たな職人と素材をもって2006年10月16日より営業を再開した。

一澤帆布工業の製品の特色

一澤帆布製のかばんは帆布(はんぷ)と呼ばれる綿および麻製の厚布で作られている。実用性の高いデザイン、豊富な色、抜群の耐久性などを特色とし、ブランド品として若者に人気を集め、写真、登山、地質調査などの機材運搬用のかばんとしても根強い支持を受けてきた。販売は京都市東山区にある一澤帆布店のみに限られていた。

一澤帆布工業の歴史

初代一澤喜兵衛(嘉永6年生まれ)が行っていた西洋洗濯クリーニング)や楽団KYOTO BANDが始まり。現在の一澤帆布は1905年に創業。大正時代になると自転車が普及し、自転車ハンドルに掛ける道具袋の需要が生まれ、薬屋、牛乳屋、大工、植木屋、酒屋などの職人用カバンの製造を行った。戦後はリュックサックテントも手がけ、職人用カバンを基にした各種のかばんで知られるようになる。

1905年 - 創業

1980年4月 - 信三郎(三男)が勤めていた朝日新聞社を退社し、一澤帆布工業に入社

1983年9月 - 信三郎(三男)が代表取締役社長(4代目)に就任

1996年12月 - 喜久夫(四男)が一澤帆布工業を退社

1998年9月25日 - 一澤帆布工業株式会社が商標出願 (10月8日に商標登録

2001年3月15日 - 信夫(3代目)が死去

2001年7月 - 信太郎(長男)が遺言書を提出

2001年9月 - 信三郎(三男)が京都地裁遺言書の無効確認を求めて提訴

2004年12月 - 最高裁にて信三郎(三男)側の敗訴が確定

2005年12月16日 - 信三郎(三男)が代表取締役を解任され、信太郎(長男)が代表取締役社長(5代目)に就任

2006年3月1日 - 営業休止

2006年10月16日 - 営業再開

2007年2月14日 - 信太郎(長男)が信三郎(三男)を商標権侵害等で13億円の提訴

一澤帆布工業の相続トラブルと一時営業休止の経緯

一澤帆布工業の信夫の死去と2通の遺言書

2001年3月15日に、前会長の一澤信夫(3代目)が死去。会社の顧問弁護士に預けていた信夫の遺言書が開封された。この遺言書(いわゆる「第1の遺言書」)は、1997年12月12日付で作成されたもので、内容は信夫が保有していた会社の株式(発行済み株式10万株のうち約6万2000株)のうち、67%を社長(当時)の三男・信三郎の夫妻に、33%を四男・喜久夫に、銀行預金のほとんどなどを長男・信太郎に相続させるというものであった。

ところが、この遺言書の開封から4ヶ月後の2001年7月に、長男の信太郎(元東海銀行行員)が、自分も生前に預かったと別の遺言書(いわゆる「第2の遺言書」)を持参した。この遺言書は、2000年3月9日付で作成されたもので、内容は信夫保有の会社の株式80%を長男の信太郎に、残り20%を四男・喜久夫(家業に関わっていたが1996年退社)に相続させるというものであった(この通りに相続すれば、信太郎喜久夫両名で会社の株式の約62%を保有)。

新しい遺言書の内容が有効となる(民法1023条)ため、通常であれば2000年3月の遺言書が有効となるが、2通の遺言書の内容が全く異なることから、「第2の遺言書」の真贋に三男の信三郎が訴訟を提起した。

一澤帆布工業の信三郎による遺言無効確認訴訟と敗訴

信三郎は、「第2の遺言書」の作成時点では既に脳梗塞のために要介護状態で書くのが困難であった事、「第1の遺言書」が巻紙に毛筆で書いて実印を捺印しているのに対して、「第2の遺言書」が便箋にボールペンで書かれていること(但し、法律上は用紙は関係ない)、捺印している印鑑が「一澤」ではなく信太郎登記上の名字「一沢」になっていることから、当時社長だった三男・信三郎信太郎が保有する「第2の遺言書」の無効確認を求め提訴する(信夫の弟で、当時専務であった元社長恒三郎も同様の疑問を投げかけている)。

しかし、裁判で、信三郎の主張は「無効と言える十分な証拠がない」として認められず、2004年12月に最高裁判所で信三郎の敗訴が確定した。これを受けて、長男・信太郎と四男・喜久夫は、信太郎側の「第2の遺言書」の内容に従い、一澤帆布工業の株式約62%を取得。

信三郎は、最高裁判決より前の2005年3月に、別会社の有限会社一澤帆布加工所(京都府京都市東山区進之町584、西村結城代表取締役)を設立。一澤帆布工業の製造部門の職人65人全員が、長年社長であった信三郎を支持して同社へ転籍。一澤帆布加工所が、一澤帆布工業から店舗と工場を賃借する形で製造を継続していた。

筆頭株主となった信太郎は、2005年12月16日に臨時株主総会を招集し、一澤信三郎社長(当時)と取締役全員を解任し、代わって信太郎取締役社長となった。また、喜久夫信太郎の娘も取締役へ就任。

一澤帆布工業の信三郎一家と職人の独立

さらに、店舗と工場は信三郎の一澤帆布加工所が使用していることから、信太郎は、京都地方裁判所に店舗と工場の明け渡しを求める仮処分申請を行う。申請は認められ、2006年3月1日に強制執行された。その際、信三郎だけでなく、一澤帆布加工所へ転籍した職人たちも共に店を退去。一澤帆布工業は事実上、製造部門を全て失った形となり、2006年3月6日に一澤帆布店は営業を休止した。

一方、信三郎の一澤帆布加工所は別に工場を確保。2006年3月21日に「信三郎帆布」と「信三郎かばん(かばんは、左が布で、右が包)」を新たなブランド名とすることを発表。新しく設立する販売会社・株式会社一澤信三郎帆布から一澤帆布加工所が製造の委託を受ける形で再始動。2006年4月6日には、「一澤信三郎帆布」(しんざぶ)を一澤帆布店の道路(東山通)を隔てた斜向かいに開店した。

一澤帆布工業の営業の再開

信太郎のものとなった一澤帆布工業は、2006年3月6日以降は営業を休止していたが、新たに本社近くに職人を10人、四国にある別法人の工場で18人(外注)の計28人の職人を確保し、材料である帆布を倉敷帆布納入先の一つである岡山県の業者からの仕入れに切り替え、一澤喜久夫(四男)の技術指導の下、従前の帆布かばんを再現し、2006年10月16日より営業を再開。一澤信三郎帆布については、一澤帆布店の模倣品だとして批判している。

これに対し、斜め向かいに店を構える信三郎判決確定後も、「遺言書は贋物」「(2通目の)遺言書の内容は故人の人格を踏みにじったものだ」などと繰り返し公言しており、この騒動の顛末に対して不満感を表明している。また、これまで鞄生地を納めてきた朝日加工は、信三郎を支持して一澤帆布との取引を拒否。一澤帆布へランドセルの製造を委託していた同志社小学校は、今後は一澤信三郎帆布に委託することを表明した。

一澤帆布工業の信太郎による損害賠償請求訴訟

2007年2月14日、信太郎が、信三郎旧経営陣に対し、類似の商標を使用して競業行為を行なった商標権侵害と、株主総会の決議を経ずに役員報酬を受け取った等で、13億円の損害賠償請求訴訟を提起する。信三郎は裁判に消極的で、お互いに商品で勝負すべきと発言。

同月、信太郎サイド京都七条公共職業安定所整理番号 26020- 4057571)を通して、職人5人を新たに募集。32歳までなら未経験者でも応募可能だとしている。なお、この際の開示情報によると、同月時点での従業員は10人。

一澤帆布工業の信三郎の妻による遺言無効確認訴訟

今度は、信三郎の妻が原告となって、信太郎らを相手に、遺言書の無効確認と取締役解任株主総会決議の取り消しを求めた訴えを、京都地方裁判所に提起する。

京都地方裁判所の一審判決では、信三郎による訴えと同様に、請求は棄却された。しかし、2008年11月27日、大阪高等裁判所(大和陽一郎裁判長)は、原判決(第一審判決)を取り消し、遺言書は偽物で無効と確認するとともに、信三郎らの取締役解任を決定した2005年12月16日の臨時株主総会の決議を取り消す、原告側逆転勝訴の判決を言い渡した。重要な文書なのに認め印が使われるなどの不自然な点があり、真正とは認められないとの理由からである。

さらに、2009年6月23日、最高裁判所第三小法廷(藤田宙靖裁判長)は、この大阪高裁判決を支持し、現社長信太郎の上告を棄却した。これにより、遺言は無効で、信三郎らの取締役解任を決定した株主総会決議を取り消すとの判決が確定した。

◇出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)『一澤帆布工業』より
取得日:2009-07-10

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