任天堂株式会社(にんてんどう)は、玩具・ゲームを製造する日本の株式会社。特に家庭用ゲーム機業界では日本、世界問わず最大級の企業。麻雀、囲碁、将棋、花札用具のメーカーとしても知られている。Nintendo(ニンテンドー)は、1990年代まで主に北米でビデオゲーム一般を指す俗語としても使われた。
任天堂の会社概要
本社は京都市に所在する。1889年9月23日創立。1985年に発売した スーパーマリオブラザーズ は全世界で大ヒットし、同社はゲームソフト市場で不動の地位を獲得することになった。ゲームソフト販売では日本一位、世界ではエレクトロニック・アーツに次いで二位。2008年1月現在、現行ハードの売り上げは携帯機・据え置き機ともに世界一位である。
自社でゲーム機の製造工場は持たず、以前は大阪にある協力会社の大洋化成株式会社でプラスチック成形、製造組立などを行っていたが、現在は中国にある生産協力工場で製造されている。
ゲームソフトのクオリティの高さには定評があり、人気のゲームソフトシリーズを多数抱えている。そのため、スクウェア・エニックス以上にゲーム業界に大きな影響を与えるメーカーである。特にTouch! Generationsシリーズを発売後、他のメーカーからも同様のコンセプトを持ったソフトが多数発売されるようになった。
任天堂の事業所一覧(日本国内)
任天堂東京支店 本社 京都府京都市南区上鳥羽鉾立町11番1号かつての本社は東山区にあった(現在は京都リサーチセンター)。現在の本社は東洋電機製造の工場の跡地に作られた。
東京支店 東京都台東区浅草橋5丁目21番5号 大阪支店 大阪府大阪市北区本庄東1丁目13番9号 名古屋営業所 愛知県名古屋市西区幅下2丁目18番9号 岡山営業所 岡山県岡山市奉還町4丁目4番11号 札幌営業所 北海道札幌市中央区北9条西18丁目2番地任天堂の工場一覧(日本国内)
宇治工場 京都府宇治市槇島町薗場92番15号 宇治小倉工場 京都府宇治市小倉町神楽田56番 宇治大久保工場 京都府宇治市大久保町田原54番1号任天堂の代表取締役一覧
代表取締役社長:岩田聡
代表取締役専務:森仁洋(経営統括本部・本部長)
代表取締役専務:波多野信治(営業本部・本部長)
代表取締役専務:竹田玄洋(総合開発本部・本部長)
代表取締役専務:宮本茂(情報開発本部・本部長)
代表取締役専務:永井信夫(開発技術本部・本部長)
任天堂の取締役一覧
常務取締役:鈴木英一(総務本部・本部長)
常務取締役:松本匡治(管理本部・本部長)
取締役:河原和雄(東京支店・支店長)
取締役:君島達巳(米国任天堂・前社長)
任天堂の沿革
1889年 - 山内溥の曽祖父、山内房治郎によって「任天堂骨牌」として創業。主な事業は花札の製造。
1902年 - 日本で初めてトランプの製造を行う。
1929年 - 山内積良が2代目社長に就任。
1933年 - 「合名会社山内任天堂」設立。
1947年 - 「株式会社丸福」設立。
1949年 - 山内博(のちに溥と改名)が代表取締役に就任。
1951年 - 「任天堂骨牌株式会社」に社名変更。
1953年 - プラスチック素材を取り入れたトランプを開発、販売。
1959年 - ディズニー・キャラクタートランプを生産するためにウォルト・ディズニー・プロダクションとの取引を結び、販売。
1963年 - 「任天堂株式会社」に社名変更、大阪証券取引所2部に上場。
1965年 - 横井軍平が入社。
1973年 - 「光線銃SP」(1970年発売)をアーケードゲームとして使うため、子会社の任天堂レジャーシステムを創立、ボウリング場跡地に「レーザークレー射撃場」を展開。
1975年 - 任天堂レジャーシステムより、競馬の実写映像を使ったメダルゲーム「EVRレース」を発売。
1977年 - 「テレビゲーム15」、「テレビゲーム6」を発売。宮本茂が入社。
1978年 - 任天堂レジャーシステムより、同社初のアーケードゲーム式ビデオゲーム コンピューターオセロ 発売。続いて同年には3種類のブロックくずしが遊べる ブロックフィーバー 発売。
1979年 - 任天堂レジャーシステムより、スペースインベーダーのコピーゲーム スペースフィーバー 発売。
1980年 - 「ゲーム&ウオッチ」を発売、電子ゲームブームが起こる。ニューヨーク州に現地法人(NOA)を設立。
1981年 - アーケードゲーム ドンキーコング を発売。
1982年 - NOAの規模を拡大し、ワシントン州シアトルに移転。
1983年 - 家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ(ファミコン)」を発売。ソフトに恵まれ大ヒット。
1983年 - 任天堂レジャーシステム、任天堂に吸収合併。
1983年4月13日 - 公正取引委員会が任天堂に対し、電子玩具の小売価格を守らない業者への出荷停止はヤミ再販として排除を勧告。
1984年 アーケードシステム基板「任天堂VS.システム」を発売。
1985年 - ファミコン用ソフト スーパーマリオブラザーズ を発売。NOAがNintendo Entertainment Systemを発売。
1986年 - VS. スーパーマリオブラザーズ を最後に、アーケードゲーム事業から撤退。ファミコン用の周辺機器、「ファミリーコンピュータ ディスクシステム」を発売。同時発売ソフトは ゼルダの伝説 。業務用ファミリーコンピュータ「ファミコンボックス」を発売。
1989年 - 携帯ゲーム機「ゲームボーイ」を発売。
1990年 - ファミリーコンピュータの後継機として「スーパーファミコン」を発売。旧西ドイツフランクフルトに現地法人(NOE)を設立。
1995年 - 衛星データ放送サービス「サテラビュー」開始(1999年4月に撤退)。「バーチャルボーイ」を発売。
1996年 - 「NINTENDO64(ニンテンドウ64)」を発売。「ゲームボーイポケット」、 ポケットモンスター 赤・緑 を発売。
1997年 - ローソンにてゲームソフト書き換えサービス「ニンテンドウパワー」を開始。
1998年 - 「ゲームボーイカラー」を発売。
1999年 - 「64DD」を発売。同機を利用したインターネット接続サービス「ランドネット」を開始(2001年2月28日に撤退)。
2000年 - 本社を現在地に移転。
2001年 - 「ゲームボーイアドバンス」、「モバイルアダプタGB」を発売。「ニンテンドーゲームキューブ」を発売。
2002年 - 岩田聡が代表取締役に就任。3社共同開発ゲーム基板「トライフォース」を発売。欧州委員会が並行輸入妨害を行ったとして任天堂らに対し合計1億6780万ユーロの課徴金決定。
2003年 - 「ゲームボーイアドバンスSP」を発売。ファミリーコンピュータ、スーパーファミコンの生産を終了。ファミリーコンピュータ ディスクシステムソフト書き換えサービス終了。中国に現地法人神游科技を設立し、「iQue Player」を発売。「クラブニンテンドー」サービス開始。
2004年 - ファミコンミニ シリーズを発売。「ニンテンドーDS」を発売。
2005年 - 「ゲームボーイミクロ」を発売。「ニンテンドーWi-Fiコネクション」サービス開始
2006年 - 「ニンテンドーDS Lite」、据え置き型ゲーム機「Wii」を発売。「バーチャルコンソール」・「WiiConnect24」サービス開始。
2007年 - 「ニンテンドウパワー」サービス終了。ファミリーコンピュータおよびディスクシステム、スーパーファミコン、NINTENDO64の修理サポート終了。
ポケットモンスターのキャラクターを用いた同人誌に関わる事件については、ポケットモンスターの項を参照のこと。
任天堂のテレビゲーム事業
任天堂の変遷
任天堂の参入まで
元々は京都で花札屋として創業した玩具企業だった。社名は「運を天に任せる」「人事を尽くして天命を待つ」という言葉に由来すると言われているが、初代社長が死去しているため詳しいことは不明である。ただし、前社長の山内博もどちらかというと運命的な要素を信じる傾向にある。
第二次世界大戦前、日本専売公社(現JT)と手を組み、タバコと同じ箱のサイズである花札などのカードゲームを全国販売した。
戦後、1949年に社長の山内積良が急逝。孫の山内溥が22歳の若さで就任した。この若い社長に対し100名余りの社員がストライキを起こすものの、彼の発案によりプラスチック製のトランプをいち早く製造するなど、国産のカードゲーム、ボードゲームの製造販売を行ない、日本国内の証券取引所の立会場で「手の中のカードを繰る」仕草が任天堂を指す手サインとなるほどに成長した。一時期はベビーカー「ママベリカ」など、育児関連用品やタクシー事業やホテル経営、文具販売など、多数の事業を手がけたこともあったが、これらはヒットすることはなく撤退、その影響で任天堂は多額の借金を抱える羽目になった。
1970年代頃からは玩具事業に専念するようになり、「ラブテスター」や「光線銃」などといった電気電子技術を使ったオリジナルの玩具も開発製造しており、これが後の「ゲーム&ウオッチ」につながった。
任天堂のテレビゲーム産業への参入
1980年にゲーム&ウオッチを発売し、大ヒットした。
1983年に発売し、爆発的に普及したファミリーコンピュータ(ファミコン)では、他社からのゲームソフト製造・販売に対してライセンス制度を導入。これにより、市場をほぼ独占して今日のテレビゲーム産業の基礎を作った。任天堂自身もゲーム機のハードウェア、ソフトウェアを製造販売する大手企業の一つとなった。携帯型ゲーム機市場では、今日でも世界トップのシェアを誇る。
日本では、"ファミコン"という言葉が家庭用ゲーム機全般を示すこともあった。日本国外においてはファミコンを Nintendo Entertainment System(略称NES)と称して発売したことから、特に北米で、"Nintendo"がビデオゲーム一般の俗称として用いられた。
1990年代ごろからは「Nintendo」の示す意味が「仮想現実の」などと拡大解釈されるようになり、湾岸戦争のTV報道においてはビデオカメラを搭載したミサイルが標的に命中するシーンがテレビゲームのように見えたため、 "Nintendo War" とまで呼ばれた。このことについて宮本茂は「見せ方によって人が死んでるように見せることもできるし、全く死者が出ていないように見せることもできる」と語り、遠回しながらメディアに対し遺憾の意を示した。現在でも内視鏡手術のことを俗に "Nintendo Operation" と呼ぶことがある。
任天堂の苦境
家庭用ゲーム機の世界トップシェアの座は、1994年に新規参入したソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)のプレイステーションに譲ることになった。ソニーと交わしていたスーパーファミコン用CD-ROM機開発の契約を、契約書を見た荒川實の助言の下、任天堂が破棄したことが、SCEの独自製品発売への引き金を引いた。その契約の代わりにフィリップス社と契約したスーパーファミコン版CD-ROM機も結局日の目を見ずにお蔵入りとなった。SCEが任天堂に対抗して打ち出した新規参入を促進するための規制の緩和、子供のおもちゃというゲーム機の印象からの脱却策などによって、多くのサードパーティーは任天堂を離れた。特に、スクウェアがサードパーティーから離れたことは任天堂の凋落の決定的な要因となった。
他の要因として、低品質なゲームの氾濫を防ぐためのサードパーティー厳選、販売ソフト数の制限など、 量より質の少数精鋭主義 にこだわりすぎたこと、他社がメディアを生産性の高いCD-ROM形式に移行する中、読み取りに時間がかかるCD-ROMでユーザーへロードのストレスを排除するためロムカセットに拘った結果、ソフトの価格が割高になったことなどが挙げられる。スーパーファミコンのソフトの価格は安くて7,000円前後、高額なものは15,000円近くにまで高騰した。
これら複数の要因からスーパーファミコン時代のサードパーティーが離れ、古参メーカーなどの限られたパートナーとともに市場を支えることを余儀なくされる。任天堂は「少数精鋭主義」を標榜して、SCEのプレイステーションに対抗し1996年にロムカセット媒体のNINTENDO64を発売する。 スーパーマリオ64 やゼルダの伝説シリーズのほか、 大乱闘スマッシュブラザーズ など4人対戦ゲームがヒットを飛ばしたものの、ソフトやハードの実売数では多くのサードパーティーを擁するプレイステーションに遠く及ばず、惨敗することとなった。
2001年にはNINTENDO64の惨敗での反省から、松下電器産業との共同開発で次世代機ニンテンドーゲームキューブに独自仕様の光ディスクを採用するなどの対策を行った。しかしSCEのプレイステーション2から1年半も発売が遅れ、既にゲーム市場シェアの大半の雌雄が決していたこと、プレイステーション2に備えられている下位互換性が無いこと、さらには慢性的なソフトのラインナップ不足は大きく改善されなかったためにプレイステーション2に及ばず、2世代にわたってSCEに惨敗を喫することとなった。
任天堂はゲーム機に必要なプロセッサをIBMやATIテクノロジーズに外注しているため、チップ原価が変動しにくく本体価格の引き下げ、価格性能比の向上や設計自由度において不利と言われている。プロセッサを自社で開発し、グループの半導体製造工場を使って生産量からチップ原価の低減が可能であると主張していたSCEとは対照的である。
任天堂のトップシェア奪還
NINTENDO64やゲームキューブが不振に終わった反省から、任天堂は従来の高性能化路線でSCEに対抗するのでなく、「老若男女関係なく誰にでも手軽に遊べるゲーム」を作ることにより、顧客層およびゲーム市場の拡大を目指す方向に転換する。ゲーム市場の規模は1990年代後期から徐々に縮小しており、ゲームの複雑化によって、ゲームをしない世代が余計に入りにくい状況があると考えたためである。
そういった流れの中で、任天堂は携帯用ゲーム機ニンテンドーDSを発売。上下2画面とタッチスクリーンを採用したことによってゲームの楽しみ方を広げることに成功した。同時期に発売されたSCEのプレイステーション・ポータブル(PSP)に販売数で大きく差をつけ、脳ゲーブームの火付け役にもなった。ブームになったことで一時期、日本では全国で品薄状態となった。DSのブームにより日本の携帯型ゲーム機販売台数は増え、家庭用ゲーム機市場における携帯型機と据置型機のシェアは逆転した。
その一方で、2世代に渡ってSCEの後塵を拝していた据置型ゲーム機においてWiiを発売。従来のコントローラのボタンによる操作でなく、ポインタと加速度センサーを搭載して直感的な操作を可能としたWiiリモコンを採用し、これもまた、ゲームの楽しみ方を広げる大きな要素となった。話題性に富んだことで、これまた同時期に発売されたSCEのプレイステーション3に大きく差をつける結果となり、任天堂は実に10数年ぶりとなるゲーム機市場トップシェアの座を奪還した。
この影響で、SFC時代に任天堂を離れていったサードパーティーが、徐々にではあるが任天堂のハードにソフトを供給をしはじめ、特にスクウェア・エニックスが ドラゴンクエストIX 星空の守り人 のDSでの発売を決定したことは多くの人を驚かせた。
これらの任天堂のトップシェア奪還にはハードの売り上げの他にも、山内溥社長の退陣による組織の若返り、スクウェアとの和解、業務用ゲーム基板 トライフォース のセガ、ナムコとの共同開発、オンライン家庭用ゲームの流行など、変革の要素も大きい。
一時期、マイクロソフトによる買収話が出たが、任天堂は全面的に否定している。
ただし、一部の従来型ゲーマーからは「従来のゲーマーを二の次に置き、ライトユーザー層向けのゲームを積極的に売り出す方針をとっているため、ゲーム界をライトユーザー層とゲーマー層の二極に分化させてしまった」という批判の声もある。結果として任天堂の提唱する「万人向け」は未だ達成されておらず、今後の懸念材料とされている。
任天堂のターゲット
任天堂は、既存の性質のゲームと共に、これまで家庭用・携帯ゲーム機購買に関心を持たなかった大人をはじめとする年齢層や女性へのゲーム機への理解と消費拡大を追求している。自社製品に関しては、年齢や性別に関わりなく寄り集まって楽しめる、社会に安定と幸福をもたらすゲームという理念の追及を自社ブランドの重要要素としている。一時は1対1の格闘ゲームですら女性への攻撃があるために規制対象だった(2008年現在はない)。そのため、児童の視聴や購入に相応しくない、ポルノ・ポルノ系製品、および過度で残忍な暴力を嗜好・演出するゲーム等の作品の安易な販売は今後も行われないと見られている。Touch! Generationsシリーズ等を見ても、健全なソフトを開発するイメージがついていることがわかる。実際、任天堂から発売されたソフトのほとんどはCERO基準における全年齢対象である。
だが、その“全年齢向け”の姿勢が、“低年齢向け”と揶揄されることも多く、実際NINTENDO64、ニンテンドーゲームキューブの時代はユーザーの大半が低年齢層に偏向しており、開発会社の中には“低年齢向け”を理由に任天堂から距離を置く会社もあった。またメディアワークスの「デンゲキニンテンドーDS」、エンターブレインの「ファミ通DS+Wii」等の専門誌も過去にはいずれも全年齢向けの内容だったが、途中から低年齢層にのみ親しみやすい内容にシフトさせ、全年齢向けの雑誌は、毎日コミュニケーションズの「ニンテンドードリーム」のみという時期もあった。
しかし、ニンテンドーDSやWiiの大ヒットにより、 任天堂は間口が広くて奥が深い“全年齢向け” とのイメージも徐々に広まってきており、これまで任天堂ハードに対して消極的だったサードパーティも参入しつつある。任天堂ハード専門誌においても、メディアワークスが2006年10月よりゲーム情報媒体としての色合を濃くした「DENGEKI DS Style」(現「電撃DS&Wii Style」)を発刊。結果として、多くの出版社が「幅広く受け入れられている任天堂ハード」というイメージ作りに努めつつある。
また、クリーンなイメージを大きく逸脱しない範囲ではあるが、ゼルダの伝説シリーズ、 MOTHER3 における狂気・無情な描写(著名なファンタジー作品の表裏的世界を再現した表現)、 ピクミン 巨人のドシン における無邪気な残酷さ、 どうぶつの森 のカッペイの歌、 ポケットモンスター ダイヤモンド・パール の小ネタ等におけるセクハラ的表現、 スーパーペーパーマリオ におけるおたく向け表現等、表現を必ずしも制限しないところも見受けられる。
サードパーティーから発売されるソフトに対しては、カプコンの バイオハザード4 、 killer7 等CEROの規制対象(前者はD:17歳以上対象、後者はZ:18歳未満購入禁止)となるソフトが出てきたことから、柔軟な対応を採り始めた事が窺える。また、 バイオハザード4 ではプレイステーション2(PS2)版より敵の首が飛ぶ描写が多く、 killer7 では残酷描写はもちろん、PS2版には収録されていない露骨な性表現(目に見えるヌードではない)が存在する。このため、独自の規制基準が存在するSCEよりも規制は緩いことが伺える。
これまで距離を置いていた、性的な描写、美少女ゲームにおいても、 魔法先生ネギま! のメディアミックス作品、 スカッとゴルフ パンヤ のWii移植作品(ともにB:12歳以上対象)等妥協点を探し始めている。DSのタッチスクリーンを利用した性的表現なども、テクモのデッドオアアライブシリーズで中心開発者である板垣伴信が、「かすみちゃん(デッドオアライブのキャラクター)に触るゲームとかも、いいですか?」と尋ねた際に「別にいいですよ」と任天堂が返答していた。2007年には「少女キャラクターに触る」というコンセプトのゲームである どきどき魔女神判! が発売されたりと、表現の方向性には柔軟な姿勢を示している。
一方で不足しているのが中高生から20代前半のユーザーであり、実際Wiiのユーザーは、これまで同様これらの世代が極端に少ない。任天堂もこの点を重要視しており、ゲームキューブでは バイオハザードシリーズ の独占供給、Wiiでは モンスターハンター の最新作の供給が発表された際に、前述のユーザー層にもマッチしたソフトの存在を推した。
任天堂のボイス
任天堂の方針としてキャラクターボイスの導入に消極的な姿勢でも知られている。一方で演出として、ゲームをプレイする上の高揚感に良い効果を与える場合には、 スターフォックス64 のように導入する事に積極的な姿勢を取る。他にマリオシリーズの掛け声のように、プレイする上でのゲームへの没入感を高める効果として、用いている事が多く、一方でCD-ROMメディア採用のゲーム機が普及した頃から増えた、テキストベースの長文脚本によるボイス導入はほとんど行わない。ただし、音声採用に関して しゃべる!DSお料理ナビ (合成音声)や Wii Fit のように、音声によるプレイガイドがユーザビリティを高め、プレイする上での敷居を下げる事に繋がるソフトにおいては、その限りではない。
その理由として、映画監督の宮崎駿が述べるように「声優の声質がユーザーに違和感を与えてしまう」ケースを避けるためである、と端的に説明されることが多い。しかし、ソフトウェア媒体の大容量化が進み、フルボイスで1キャラクターが喋るケースも増えた昨今においては、任天堂の姿勢が必ずしも全ての
