女子サッカー

女子サッカーの試合

女子サッカー(じょしサッカー

サッカーは以前から男性の競技と見なされてきたが、実際には古くから女性による試合も行われてきた。


女子サッカーの女子サッカーの歴史

近代サッカーの母国」イングランドでの最古の記録として1895年に北イングランドと南イングランドによる対抗試合が残っている。これは「近代サッカー成立の年」とされる1863年からわずか30年ほどのことであり、わずかなあいだに女性にも普及していった。

予想以上の盛り上がりに対し、サッカーを「男の中の男のスポーツ」と考えたイングランドサッカー協会(FA)は1902年、傘下のクラブに対し女性との試合を禁ずる。しかし1914年に第一次世界大戦が勃発して男性が戦場へ借り出されると、女子サッカーヨーロッパ各地で盛んに行われるようになった。

戦争の終結により男子プレーヤーの復帰が進んでのちも女子サッカーの人気はつづいたが、「サッカーは女性のからだに有害」という根拠の薄い理由付けにより不当な扱いを受け、さらに1921年にはFAが女子チームに対してグラウンドの貸し出しを禁ずる命令を通達。そのため一時は試合どころか練習会場すらままならない状況が続いた。しかしあまり知られていないが、ほぼ同じ頃に中国大陸各地で女子の学校教育においてサッカーが登場した。

第二次世界大戦後の1954年、オランダサッカー協会(KNVB)とドイツサッカー協会(DFB)は女子チームに対しFAと同様の通知を発布する。しかしこのころには男女同権の流れが世界に浸透し始め、1960年代にはアメリカ合衆国ウーマン・リブが興るなど女性に対する社会の風潮が変わり始めると、女子サッカーも少しずつ盛り返し始める。とりわけ東ヨーロッパ諸国では各国でいち早く女子チームが作られたが、これは恐らく社会主義国ゆえに女性の社会進出が進み、男女の平等という考えがいち早く浸透していたためであると考えられる。同じころ、東アジアでは台湾、シンガポール、タイ王国で女子サッカーが盛んになったが、これらの国に女子サッカーが浸透したのは、中国大陸における社会事情となんらかの関わりを想像できよう。

1970年、FAは女性に対するグラウンド使用禁止の通達を破棄。KNVBDFBもそれにつづいた。1971年には国際サッカー連盟(FIFA)が初めて公認した女子代表国際試合フランスオランダ」が行われ、また各国協会女子サッカーも傘下に置くよう通達がなされたこともあり、イタリアデンマークスウェーデンをはじめとして、世界各地で女性の競技機会の解放が進み、さらに1980年代には「サッカー不毛の地」といわれるアメリカでも盛んになった。

1986年、メキシコシティで行われた国際サッカー連盟(FIFA)総会でノルウェーサッカー協会から派遣された女性、エレン・ウィレエレン・ヴィッレ)が「人類の半数は女性である。FIFA女子サッカーにもっともっと力を入れるべきである。そして女子サッカーがもつ限りない将来性に目を向けなければならない。」と演説し、女子ワールドカップの開催、オリンピック女子サッカーの追加、男女とも同一のルールの採用を提案した。これに感銘を受けた議長のジョアン・アベランジェ会長(当時)は、2年後の1988年に中華人民共和国広州市で非公式世界大会を実施。この結果をもとに1991年、第1回女子サッカー世界選手権を中国の5会場で開催した。のちにFIFA女子ワールドカップと呼ばれるこの大会が開かれ、さらにオリンピックでも1996年のアトランタ大会から正式種目に採用されたことにより、少しずつ市民権を得てきている。

現在ではアメリカ合衆国のほか、北ヨーロッパや西ヨーロッパ強豪国となっており、また東アジアでも中国、北朝鮮、日本、そして近年では韓国で盛んになってきている。またアフリカや南アメリカといった男子サッカー強豪地域、そしてオセアニアでも女子サッカーが盛んになってきた。さらに宗教上の理由などからイスラム文化圏での活動はあまり見られなかったが、2005年にカタール・ドーハで「西アジア女子サッカー選手権」が行われ、また2006年には「第1回シリア女子全国リーグ」が7月から7チーム(80分制で交代は5人まで認められる特別方式)で行われ、同年12月には2006アジア競技大会ドーハヨルダンヒジャブなどを着用して参加するなど、少しずつ裾野を広げつつある。

女子サッカーの日本の女子サッカー

日本のサッカーにおける女子サッカーの歴史はそれほど長くない。女性がサッカーに携わるのは、おもにマネージャーなどであり、選手としてプレーするということはほとんど考えられなかった。しかし1960年代から70年代にかけて競技を行う女性が少しずつ見られはじめ、1966年11月には神戸市立福住小学校で「福住女子サッカースポーツ少年団」が誕生。同じ年には神戸女学院中学部の3年生によるチームも誕生している。つづく1970年に神戸FCが、1972年には東京でFCジンナンが誕生。その後、ワイルド・イレブン・レディース(横浜)、三菱重工女子サッカー部、三菱養和レディース、実践女子大学サッカー同好会高槻女子フットボールクラブ、清水第八スポーツクラブなどが誕生し、チキンフットボールリーグ(東京)、横浜女子サッカーリーグ関西女子サッカーリーグといった小規模リーグの結成により各地で試合が行われるようになった。

相次ぐ女子チームの誕生に注目が少しずつ集まり始めるが、一方で「女子には胸のトラップが危険」だとして特別ルールの話もあったといわれる。すなわち「胸トラップの際には手の甲を使って一度落としてもいい」という案であったが「ハンド容認になる」ということで実現はしなかった。女子選手が胸トラップを行っても身体に与える影響が少ないことは現実に証明されているが、創世記に起こりうる議論として留めておくことといえよう。

やがて1980年には全日本女子サッカー選手権大会が開催され、男子サッカーの天皇杯全日本サッカー選手権大会にあたる大会として日本全国のチームを対象とするトーナメントが行われるようになった。また1981年には神戸市で行われた博覧会ポートピア81」の関連事業として日本女子代表が結成され、神戸市中央競技場イングランド代表と、東京の国立西が丘サッカー場でイタリア代表と対戦した。ただしこのときのチームイングランド戦が関西と清水の、イタリア戦は関東と清水の選手により編成されたもので、むしろ「日本選抜」というべきであり、また監督・コーチ陣も臨時に任命されたものであった。

1986年に鈴木良平が初めて専任の女子代表監督に就任。日本サッカー協会では彼を「初代代表監督」と位置づけていることからもわかるように、このときから本格的な代表チーム作りが始まったといえる。

そして1989年には日本女子サッカーリーグも始まる。のちにL・リーグという略称を採用するこのリーグは、93年に開幕した男子の日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)とともにサッカーファンに人気を博し、世界各国トッププレーヤーが所属する「世界最高リーグ」と呼ばれた。しかしバブル経済の崩壊やシドニーオリンピック(2000年)の出場を逃したあたりから衰退が興り、一時はリーグの存在すら危ぶまれた。

だが2003年の第4回FIFA女子ワールドカップアメリカ合衆国)や2004年のアテネオリンピックでの活躍により、女子サッカーは日本国内に浸透。女子日本代表の愛称「なでしこジャパン」とともに女子サッカーは認知されたといえる。またこの人気により「なでしこ」を日本女子サッカーのブランドとすることを決め、L・リーグになでしこリーグという愛称を制定した。

2005年1月、日本サッカー協会会長川淵三郎は「2030年までに女子ワールドカップを日本で開催し、その年までに世界一にする」と宣言。また「女性監督の育成にも力を入れる」と明言した。

そして同年4月には、この年トルコイズミルで行われるユニバーシアード世界大会に参加する女子サッカーチームの監督に本田美登里(なでしこリーグ・岡山湯郷Belle監督)を任命。日本では各年代を通じて初の「女性代表監督」となる。8月10日から行われた本大会では、大学チーム所属選手となでしこリーグ所属選手による混成チームを率いて第3位の成績を収めた。

2007年には第5回FIFA女子ワールドカップ(中華人民共和国)に出場。翌2008年は2月に東アジア女子サッカー選手権2008で優勝し、女子代表として初タイトルを獲得した。

◇出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)『女子サッカー』より
取得日:2008-08-23

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