富士山(ふじさん、英語表記:Mount Fuji)は、静岡県(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山。
標高3,776m。日本最高峰であるとともに、日本三名山(三霊山)、日本百名山のひとつでもある。富士箱根伊豆国立公園に指定されている。
富士山の概要
甲斐(山梨県)側 駿河(静岡県)側 空から見た富士山 雲がかかる富士山 国際宇宙ステーションから見た富士山(2001年5月27日 アメリカ航空宇宙局) 日本海上空より。手前から立山連峰、後立山連峰、八ヶ岳、南アルプス、富士山(2006年11月撮影)。 説明入り画像はこちら 東京湾上空より。(2006年11月撮影) 宝永山と宝永噴火口富士山の優美な風貌は、国内のみならず海外でも日本の象徴として広く知られている。芙蓉峰・富嶽(富岳)などとも呼ばれる。古来より歌枕として著名である。
古来より霊峰といわれ、富士山を開いたのは、平安末期の1149年(久安5年)山頂に一切経を埋納した富士上人と称された末代(まつだい)であると伝えられている( 本朝世紀 )。江戸時代後期の1800年(寛政12年)まで富士山は女人禁制であった。
富士山山麓周辺にはキャンプ場や観光名所がある。また、登山道は、富士宮口、須走口、富士吉田(河口湖)口、御殿場口などがある。
富士山の語源
富士山は、古文献では不二山もしくは不尽山と表記される。
また、 竹取物語 の最後の章では、かぐや姫から不老不死の薬を授けられた帝が、家臣に命じて不老不死の薬を駿河国にある天に一番近い日本で一番高い山の山頂で焼くという描写があるが、最後の記述は、「以来、その山のことを“ふしの山”(ふじの山) と呼ぶようになった」(要旨)というものとなっている。
これは日本最高峰の並ぶものの無い「不二」の山という意味とされる。その後、鎌倉時代以降に表記が転じて「富士」となった。これは「士が富む」として武士好みの表記であったという。
近代後の語源説としては、宣教師バチェラーは、名前は「火を噴く山」を意味するアイヌ語の「フンチヌプリ」に由来するとの説を提示した。しかし、これは囲炉裏端に鎮座する火の神の老婆を表す「アペフチカムイ」からきた誤解であるとの反論がある(フチ=フンチは「火」ではなく「老婆」の意味)。その他の語源説として、マレー語説・マオリ語説・原ポリネシア語説などがある。
なお英語では “Mount Fuji” または “Mt. Fuji” と表記する。以前は「山」を訓読みし “Fujiyama” とすることもあったが近年では稀である。
富士山の地質学上の富士山
地質学上の富士山は典型的な成層火山(コニーデ)であり、この種の火山特有の美しい稜線を持つ。日本の地質百選の一つ。
現在の富士山の山体の形成は、大きく四段階に分かれる。
先小御岳
小御岳
古富士
新富士
この中で先小御岳が最も古く、数十万年前の更新世にできた火山である。
古富士は8万年前頃から1万5千年前頃まで噴火を続け、噴出した火山灰が降り積もることで、標高3,000m弱まで成長した。山頂は宝永火口の北側1?2kmのところにあったと考えられている。
富士山の噴火史
詳細は富士山の噴火史を参照
最終氷期が終了した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩を大量に噴出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富士が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の山頂の東側に顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約2,500?2,800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊してしまった。
新富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前?約8,000年前の3,000年間と、約4,500年前?約3,200年前の1,300年間と考えられている。これ以降、山頂部からの噴火は無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が断続的に発生している。
延暦19年 - 21年(800年-802年)に延暦噴火、貞観6年(864年)に貞観噴火。最後に富士山が噴火したのは宝永4年(1707年)の宝永大噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4cmの火山灰が降り積もった。また、宝永大噴火によって富士山の山体に宝永山が形成された。その後も火山性の地震や噴気が観測されており、今後も噴火の可能性が残されている。
東京大学地震研究所が2004年4月に行ったボーリング調査によって、小御岳の下にさらに古い山体があることが判明した。この第4の山体は「先小御岳」と名付けられた。
宝永大噴火以来300年にわたって噴火を起こしていないこともあり、1990年代まで小学校などでは富士山は休火山と教えられていた。しかし先述のとおり富士山にはいまだ活発な活動が観測されており、また気象庁が休火山という区分を廃止したことも重なり、現在は活火山としている。
富士山の生態系
富士山は標高は高いが、日本の他の高山に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これは富士山が最終氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返したために山の生態系が破壊され、また独立峰であるため、他の山系からの植物の進入も遅れたためである。
中部山岳地帯の高山の森林限界の上にはハイマツ帯が広がっているのが通例であるが、富士山にはハイマツ帯は欠如し、その代替にカラマツ林が広がっている。
富士山の伏流水
富士山に降った雨、雪は長い年月伏流水として地下水脈を流れ湧き出てくる。
湧玉池?特別天然記念物?
神田川
白糸の滝?国指定の名勝及び天然記念物?
忍野八海(出口池、御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)?国指定の天然記念物?
柿田川?日本三大清流?
富士山の山頂の八峰
山頂の直径約800mの火口の周りに8つの峰がある。
剣ヶ峯 - 3,776 m ここが、日本の最高標高地点である。
白山岳(釈迦ヶ岳) - 3,756 m
伊豆ヶ岳(阿弥陀岳) - 3,740 m
朝日岳(大日岳)- 3,730 m
勢至ヶ岳(成就ヶ岳) - 3,730 m
三島岳(文殊ヶ岳) - 3,730 m
久須志岳(薬師ヶ岳) - 3,720 m
駒ヶ岳(浅間ヶ岳) - 3,710 m
富士山の宝永山
宝永山(ほうえいざん)は宝永4年(1707年)の宝永大噴火で誕生した側火山(寄生火山)である。富士山南東斜面に位置し標高は2,693 mである。宝永山の西側には巨大な噴火口が開いている。これらは間近で見ることができ、そのための登山コースも整備されている。
富士山の記録に見る富士山
万葉集の中には、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。
「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」 (3.318) は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。
噴火の年代が考証できる最も古い記録は、続日本紀に記述されている、天応元年(781年)に富士山より降灰があったくだりである。平安時代初期に成立した 竹取物語 にも、富士山が作品成立の頃、活動期であったことを窺わせる記述がある。
江戸時代に、最も激しい活動を見せたのは宝永4年(1707年)12月16日に発生した大爆発(宝永大噴火)であり、江戸の市街に大量の降灰をもたらした。この記録については、新井白石による 折りたく柴の記 をはじめとした文書、絵図等により多数残されている。
その後も、噴煙や鳴動の記録は多く残されているが、記述から見て短期間かつ小規模な活動で終わったものと推測される。
富士山の文化財としての富士山
「富士山」 - 記念物(特別名勝:1952年11月22日特別指定)
「富士山原始林」 - 記念物(天然記念物:1926年2月24日指定)
「富士風穴」 - 記念物(天然記念物:1929年12月17日指定)
富士山の世界遺産登録の動き
1990年代初めから、富士山をユネスコの世界遺産に登録しようという運動が行われている。当初は世界遺産のうちの自然遺産への登録が検討されていたが、地元調整がつかず環境管理(特にゴミ問題)が困難なため国は推薦を見送った。現在は文化的景観という観点から世界遺産のうちの文化遺産への登録手続きが進められており、2007年に暫定リストへ登録され、今後国際記念物遺跡会議による調査が行われることとなる。
富士山の参考
「富士山本宮浅間大社本殿」 - 重要文化財(神社)(1907年5月27日指定)
「富士御室浅間神社本殿」 - 重要文化財(神社)(1985年5月18日指定)
「北口本宮富士浅間神社西宮本殿」 - 重要文化財(神社)(1953年3月31日指定)
「北口本宮富士浅間神社本殿」 - 重要文化財(神社)(1953年3月31日指定)
「北口本宮富士浅間神社東宮本殿」 - 重要文化財(神社)(1907年8月28日指定)
富士山の地域経済における役割
富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で製紙業や医薬関連の製造業などの工業が活発に行われている。また、富士山の伏流水はバナジウムを豊富に含んでいるため、ミネラルウォーターとして瓶詰めされ販売されている。また、富士山一帯の宗教施設への参拝や避暑、富士登山を目的とする観光客相手の観光業も活発に行われている。
富士山の利用について、静岡県側が自然・文化の保護を重視するのに対し、山梨県側は伝統的に観光開発を重視しており、山頂所有権問題、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題、世界遺産登録問題等、過去から現在に至るまでの折々で双方の思惑の相違が表面化している。
富士山の美術における富士山
凱風快晴 葛飾北斎富士山絵画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名所を描く名所絵の成立とともにはじまり、現存する作例はないものの、記録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題として描かれていたと考えられている。現存する最古の富士図は法隆寺献納物である延久元年(1069年)の 聖徳太子絵伝 (東京国立博物館)で、これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒駒太子が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士は中国絵画的な山岳図として描かれている。
鎌倉時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描写法が確立し、 伊勢物語絵巻 曽我物語富士巻狩図 など物語文学の成立とともに舞台となる富士が描かれ、富士信仰の成立に伴い礼拝画としての 富士曼陀羅図 も描かれた。また[絵地図]]などにおいては反弧状で緑色に着床された他の山に対して山頂が白く冠雪した状態で描かれ、特別な存在として認識されていた。
室町時代の作とされる 絹本著色富士曼荼羅図 (富士山本宮浅間大社所蔵 重要文化財)には富士山とその富士山に登る人々や、禊ぎの場であった浅間神社や湧玉池が描かれており、当時の様子を思わせるものである。また、富士山は三峰型富士で描かれている。
富士山の浮世絵
江戸時代には明和4年(1767年)に河村岷雪が絵本 百富士 を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した。浮世絵のジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響を受けた葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連作版画 冨嶽三十六景 (天保元年18310年頃)を出版した。多様な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法に加え舶来顔料を活かした藍摺や点描などの技法を駆使してなかでも富士を描き、夏の赤富士を描いた 凱風快晴 や 山下白雨 や荒れ狂う大波と富士を描いた 神奈川沖浪裏 などが知られる。
また、歌川広重(安藤広重)も北斎に後れること 不二三十六景 冨士三十六景 を出版し、広重は甲斐国をはじめ諸国を旅して実地のスケッチを重ね作品に活かしている。 東海道五十三次 でも、富士山を題材にした絵が多く見られる。北斎、広重らはこれらの連作により、それまで富士見の好スポットと認識されていたなかった地点や、甲斐国側からの裏富士を画題として開拓していった。
富士山のその他日本画
日本画全般の題材として「富士見西行」がある。巨大な富士山を豆粒のような人物(僧、西行法師)が見上げるという構図で、水墨画や彫金でも描かれている。また、日本画家の横山大観や片岡球子なども富士山を好んで描いている。
富士山の富士山の文学
すでに見たように、富士山は和歌の歌枕としてよく取り上げられる。
万葉集には山部赤人の「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ(ぞ)富士の高嶺に雪は降りける」(巻3・318)という富士山を歌った有名な反歌があるが、その次に作者不詳の長歌があり、その一節に「・・燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ・・」(巻3・319・大意「(噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、(山頂に)降る雪を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時の富士山が火山活動を行っていたことがうかがえる。
新古今和歌集 から。富士の煙が歌われている。
風になびく富士の煙の空にきえてゆくへもしらぬ我が心かな 西行 (#1613)
都人にとって富士は遠く神秘的な山として認識され、古典文学では都良香 富士日記 が富士の様子や伝承を記録している。
竹取物語 は物語後半で富士が舞台となり、大勢の武士を登山させてかぐや姫が時の天皇に贈った不老不死の薬を、天に一番近い山(富士山)の山頂で燃やしたことになっている。それからその山はふじ山(富士山・不死山・不尽山)とよばれるようになったとする命名説話を記している。なお、富士山麓の静岡県富士市比奈地区には、「竹採塚」として言い伝えられている場所が現存している。
ほか、 源氏物語 や 伊勢物語 でも富士に言及される箇所があるものの、主要な舞台となるケースは少ない。富士は甲駿の国境に位置することが正確に認識されているが、古代においては駿河国に帰属していたため古典文学においては駿河側の富士が題材となることが多いが、 堤中納言物語 では甲斐側の富士について触れられている。また、古代甲斐が馬産地であることから成立した甲斐の黒駒伝承に、平安時代には聖徳太子が黒駒に乗り富士の上を越えたとする伝承が加わっている。
また、「八面玲瓏」という言葉は富士山から生まれたといわれ、どの方角から見ても整った美しい形を現している。
中世には近世には富士北麓地域に富士参詣者が往来し、江戸期には地域文芸として俳諧が盛んであった。近代には鉄道など交通機関の発達や富士裾野の観光地化の影響を受けて、多くの文人や民俗学者が避暑目的などで富士へ訪れるようになり、新田次郎や草野心平、堀口大學らが富士をテーマにした作品を書き、山岳文学をはじめ多くの紀行文などに描かれた。
御殿場市からの富士山富士山麓に滞在した作家は数多くおり、武田泰淳は富士山麓の精神病院を舞台とした小説 富士 を書いており、妻の武田百合子も泰淳の死後に富士山荘での生活の記録を 富士日記 として記している。津島佑子は山梨県嘱託の地質学者であった母方の石原家をモデルに、富士を望みつつ激動の時代を過ごした一族の物語である 火の山?山猿記 を記した。
また、北麓地域出身の文学者として自然主義文学者の中村星湖や戦後の在日朝鮮人文学者の李良枝がおり、それぞれ作品のなかで富士を描いており、中村星湖は地域文芸の振興にも務めている。
太宰治が昭和14年(1939年)に執筆した小説 富嶽百景 の一節である「富士には月見草がよく似合ふ」はよく知られ、山梨県富士河口湖町の御坂峠にはその碑文が建っている。直木賞作家である新田次郎は富士山頂測候所に勤務していた経験をもとに、富士山の強力(ごうりき)の生き様を描いた直木賞受賞作 強力伝 をはじめ数々の富士にまつわる作品を執筆している。
高浜虚子は静岡県富士宮市の沼久保駅で降りた際、美しい富士山を見て歌を詠んだ。駅前にはその歌碑が建てられている。
「とある停車場富士の裾野で竹の秋/ぬま久保で降りる子連れ花の姥」
富士山の信仰と伝承
本朝世紀 によると1149年(久安5年)に末代(まつだい、富士上人)が山頂に一切経を埋納したと伝えられている。いまも富士山頂出土と伝えられる埋納経が浅間神社に伝わっている。 富士山頂には富士山本宮浅間大社の奥宮があり、富士山の神を祭る。そのため、富士山の8合目より上の部分は、登山道、富士山測候所を除き、浅間大社の境内である。但し、静岡県、山梨県の県境が未確定のため、土地登記はしていない。
浅間大社の祭神は、記紀神話に登場する女神の木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)である。しかし、いつ頃から富士山の神が木花開耶姫命とされるようになったかは明らかではない。
古くは、常陸国風土記に富士山の神と筑波山の神の逸話が記されている。親神が富士山の神のもとを訪れ、宿を乞うたが、富士山の神は物忌み中だと言う理由で宿泊を拒否した。親神は次に筑波山の神のもとへいき、同様に宿を乞うたところ、今度は親神は歓迎された。そのため、筑波山には人々が集まるようになり、反対に富士山には絶えず雪が積もり人々が来なくなったという。
平安時代の文学の 更級日記 には、富士山の神が、朝廷の次の年の除目(人事)を決めると当時の一部の人々には思われていた記録がある。
富士山の富士講
江戸郊外の富士塚(右)と富士山(江戸名所百景 目黒元不二 歌川広重)江戸時代になると、富士山の登拜が庶民の間でも広く行なわれるようになった。これは戦国時代から江戸時代初期(16世紀後半から17世紀前半)に富士山麓の人穴で修行した角行藤仏(天文10年(1541)-正保3年(1646)がおこなった富士信仰から始まるとされる。庶民は富士山への信仰を強くし、特に江戸の各地には富士山を遥拝する富士塚が多く作られた。富士塚は土を盛って作られた人工の小さな山で、富士山がよく見えるところに作られ、山頂には浅間神社が祀られて、富士山に行くことが出来ない人たちでも擬似的に富士山の登拜を体験することができるようにするものである。
こうした富士山信仰の高まりを受け、江戸時代には富士山信仰を基盤とした神仏混交の新宗教が多数登場した。新宗教は江戸で布教を行い富士講を組織して幕府にとっても無視できない規模になることもあり、幕府が富士講禁制の町触を出すこともしばしばであった。例えば、1774年から1849年に江戸町奉行所は7回の禁制の町触を出している。 これらの新宗教は明治期の激動を潜り抜け、今でも実行教・丸山教・扶桑教などと脈絡を保ち続いている。現在においても富士山は新たな信仰を生み出す基盤となっており、オウム真理教、法の華三法行が富士山の麓に本部を置いたことがある。
また、日蓮正宗の総本山である大石寺も、富士山の麓である静岡県富士宮市にある。これは、「富士山に本門の戒壇を建立すべきものなり(要旨)」との宗祖・日蓮大聖人の遺命に基づき、大聖人の御入滅後、大聖人の六大弟子僧(いわゆる六老僧)の一人である日向、ならびに、身延の地頭・波木井実長が謗法を犯したことにより身延山を離山(いわゆる身延離山)した日蓮正宗第二祖の日興上人が、南条時光をはじめとする弟子檀那(信徒)らの寄進(御供養)を受けて、1290年に富士山麓の大石ヶ原(「おおいしがはら」と読む。現・富士宮市上条地区)に開山・建立したものである。
富士山の富士登山
| 富士山の北西斜面、標高約2300mから 河口湖口側の山頂の様子 |
遠方から見上げる富士とは異なる姿がある。火山灰と溶岩の荒れ果てた世界である。
富士登山の経験者たちの間では、「富士山に 登らない馬鹿、二度登る馬鹿」という言葉が流布している。これは富士登山ならではの大きな達成感と、それと引き換えの厳しさを表した言葉である。疲労、寒さ、高山病などを一度経験した者は「二度と登りたくない」と思う反面、一度経験することで、準備やペース配分に余裕が生まれることや、砂走りによる下山の爽快感が病みつきとなり、毎年のように登る者もまた多い。
ご来光を頂上で迎えるため、深夜に出発する登山は体力を消耗しがちで、余計に疲労を感じやすい。
2008年シーズンは、山梨県側からの登山者数が、過去最多の24万7066人を記録している(2008年8月31日時点)。
富士山の登山シーズン
一般的には毎年7月1日の山開きから8月26日の山じまいまでである。この期間はほぼ全ての山小屋が営業しているため、登山客が集中する。なお、山小屋の開設期間は実際には、残雪の状態や8月末または9月最初の土・日曜日の日付などにより毎年変更されるため、利用の際は確認が必要である。また、7月上旬は残雪の状態によっては一部の登山ルートが使えないこともある。
富士山の9月登山
9月に入り、特に山じまい後になると営業している山小屋が少なくなり、宿泊・休憩・飲料水・食事・トイレの提供の問題により、登山者は徐々に少なくなる。9月最初の日曜日を過ぎると富士宮口と御殿場口の7合目以上の山小屋及び須走口の多くの山小屋は閉鎖される。河口湖口の山小屋については、近年は、9月上旬まで大多数の山小屋が営業し、9月中旬まで営業するところが増えているが、それでも山頂の山小屋(須走口扱い)が9月には閉鎖されている上に、気温もさらに低下するため、9月の登山は注意が必要である。河口湖口は9月でも登れるのに対して、富士宮口は9月上旬に登山道が閉鎖され、登山するには静岡県富士宮警察署などに登山計画書の提出が必要となる。
富士山の登山道
河口湖口(六合目で吉田口登山道と合流)、富士宮口、須走口、御殿場口などがある。それぞれの登山口(自動車道の終点)は全て「五合目」あるいは「新五合目」を名乗っているが、各登山口で五合目の標高が全く異なる。下記の所要時間は目安であり、比較的体力のある人を基準としており、登山初心者は1.5倍くらいの時間がかかる。また、混雑時は渋滞で倍近く時間がかかることもあるほか、富士登山競走のトップ選手は目安時間の1/4以下の時間で登る。
河口湖口(六合目で吉田口登山道と合流)
利点 - 東京方面からアクセスしやすく、バスの本数も多いので最も利用者数が多い。山小屋が多く休憩しやすい。御来光がどの地点でも拝める。
難点 - 最も登山者が多いゆえに最も混雑する登山口でもある。御来光時には八合目から上が渋滞になりやすく、渋滞により御来光時に頂上にたどり着けない場合も多い。七合目付近に急な岩場がある。歩行距離が富士宮口や須走口より長い。下山道には山小屋が一軒しかない。下山時、最後に登りがある。マイカー規制の無い時期の週末には道路(富士山有料道路)が富士宮口と同様に大渋滞を起こすことがある。
五合目の標高 - 2,305 m
距離 - 登り 7.5 km 下り 7.6 km
所要時間 - 登り5時間30分 下り3時間。休日の御来光時は渋滞により3時間程度余分にかかる。
山小屋の数 - 19(五合目駐車場前の2軒、吉田口五合目付近の3軒を含む・頂上の小屋4軒と本八合目の1軒は須走口扱いで含まず)
富士宮口
利点 - 各登山道の中で歩行距離が最も短い。五合目の標高が最も高い。岩場が多いため滑りにくく登りやすい。頂上が富士山最高地点の剣ヶ峰に一番近い。関西方面からのアクセスが良い。
難点 - 登りと下りが同じ道のため混雑しやすい。岩場が多いため下りでは膝に負担がかかる。登山道や山小屋からでは御来光が拝めない所が多いため、登頂が望まれる。南側のため晴れている日は日差しが強い。バスの本数が河口湖口に比べると少ない。新五合目の駐車場の収容力が少なく(約500台)、新五合目から遠く離れた所での駐車を強いられることもある。マイカー規制の無い時期の週には道路(富士山スカイライン)が大渋滞を起こすことがある。
新五合目の標高 - 2,400 m
距離 - 登り 5.0 km 下り 5.0 km
所要時間 - 登り5時間 下り2時間30分
山小屋の数 - 9(新五合目1・頂上1含む)
須走口
利点 - 人が少なく、本八合目で河口湖口と合流するまでは落ち着いて登れる。樹林地帯があり草花を観察できる。下山道に砂走りがある。御来光がどの地点でも拝める。元々登山者が少なかったためマイカー規制がなかったが、登山者急増により平成19年度から社会実験としてマイカー規制が行われることとなった。神奈川方面からアクセスしやすい。
難点 - 新五合目の標高が少し低いので、富士宮口や河口湖口より体力がいる。砂走りは石が多く、御殿場口の大砂走りほどは軽快に下れない。本八合目から上が河口湖口と合流するため、御来光時には渋滞になりやすい。
新五合目の標高 - 2,000 m
距離 - 登り7.8 km 下り6.2 km
所要時間 - 登り5時間30分 下り3時間
山小屋の数 - 13(新五合目3・頂上4含む・八合五勺の小屋1軒は河口湖口扱いで含まず。新五合目の小屋のうち、下山口(砂払五合目)の小屋は宿泊できない。)
御殿場口
利点 - 人が非常に少ないので落ち着いて登れる。新五合目の標高が低いので高度に身体を順応しやすい。大砂走りがあり快適に下山できるため、下山道として人気がある。御来光がどの地点でも拝める。
難点 - 新五合目の標高が低いため体力が必要。滑りやすい砂礫の部分が多く登りづらい。景色が単調。山小屋が少なく休憩しにくい。特に新五合目から7合目まで全く山小屋・トイレがない。道がわかりにくいところがあり特に夜間は道に迷いやすい。バスが少なくアクセスしにくい。
新五合目の標高 - 1,440 m
距離 - 登り 11.0 km 下り 8.5 km
所要時間 - 登り7時間30分 下り3時間
山小屋の数 - 7(新五合目2・頂上1含む・営業期間が極端に短い小屋やそのシーズンは全く営業しない小屋もある。なお新五合目の小屋のうち1軒は宿泊できない。)
富士山の山小屋
吉田口・須走口頂上の山小屋群 御殿場口・7合9勺に位置する山小屋・赤岩八合館。2008年に皇太子徳仁親王が富士登山を行った際の宿泊地となった。富士山では御来光を見るために山小屋に宿泊する登山客が多い。
営業時期 - 7月1日から8月の最終日曜日までが多いが、河口湖口の山小屋は9月中旬までの営業が多い。五合目の山小屋は観光客にも対応するために、営業期間が長い。一部10月半ばまで営業する山小屋もある。
河口湖口 - 富士山吉田口旅館組合
富士宮口 - 富士山表富士宮口登山組合
須走口 - 静岡県小山町の富士山山小屋案内
御殿場口 - 御殿場市観光協会の富士山情報
設備 - 北アルプスや尾瀬の山小屋などに比べると、極めて簡素な設備であることが多い。営業期間が極端に短く、かつ夜間に到着し未明に出発する登山者が多いこともあり、本格的な設備が設置できない、あるいはそれほど必要がないことも原因である。多くの小屋は就寝スペースと食事スペース及びトイレ程度の設備しかない。外来用の食堂や専用の売店スペースを持つところもあるが、その数は少なく、談話室や乾燥室を持つところは例外的である。水が極端に不足しているため、登山者用の風呂がないのはもちろんであるが、従業員用の風呂もない小屋が多数である。
営業時間 - 24時間営業のところもあるが、多くの山小屋は宿泊客が就寝中の21時から翌日1時くらいまでは閉めるため、それ以降の到着となる場合は注意が必要である。ただし、山頂の山小屋は19時頃には消灯し、3時頃には起床となることが多い。小屋によっては朝5時くらいまでは売店の営業を行わないところもあり、夜間登山で軽食や売店の利用を考えている場合などは、事前の確認が必要である。御殿場口の山小屋などは朝5時ごろまでは売店の営業を行わない。
商品 - ペットボトル飲料(500円)、ビール(600円)など。他の山に比べ200円程度価格が高い。その他酸素缶や菓子類を扱っているところもある。5合目や山頂の山小屋は記念品の販売に力を入れているほか、木製の金剛杖を扱っている。多くの山小屋では1回200円程度で、木製の金剛杖に登山記念の焼印を押印する。
宿泊 - 予約が基本。他の山の山小屋は全ての宿泊希望者を受け入れるところが多いが、富士山は定員以上は断るところが多い。もちろん営業時間中に到着したうえで余裕がある場合は、予約無しでも宿泊できるが、週末などは注意が必要である。料金は素泊まり一泊5,000円?5,500円、2食付で6,500円?7,350円が多い。なお、ルートごとに宿泊料金がほぼ統一されており、登山口が同じなら標高に関係なく同一宿泊料金であることが多い。なお、土日は1,000円程度上乗せするところもある。寝室は雑魚寝。定員宿泊でも混雑時には1枚の布団で3人が寝る小屋もあるが、1枚の布団に1人だけが定員の小屋もある。夕食はレトルトのカレーが多いが、手作りカレー食べ放題や豚汁食べ放題の小屋もある。朝食は炊き込みご飯やおにぎりなどの弁当やうどんなどの麺類が多いが、ハムエッグなど手の込んだ朝食を出す小屋もある。水が不足しているために、食器は洗浄不要の使い捨てタイプのものが多い。
便所 - 以前はほとんど垂れ流しだったが、2006年度でおがくず式、カキ殻式、燃焼式などの環境配慮型の便所に全ての山小屋が改築し終えた。静岡県側を中心に、県や地元NPOにより早くからバイオトイレの試験的な導入が進められており、世界遺産登録問題があってから、山梨県側でも環境庁・環境省の指導により改築が進められた。臭気の問題から、小屋から少し離れて建てられていることが多く、深夜や悪天候時の利用は
