小沢一郎

小沢 一郎(小澤 一郎、おざわ いちろう、1942年5月24日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(13期)。民主党代表(第6代)。

自治大臣(第34代)、国家公安委員長(第44代)。自由民主党幹事長、新生党代表幹事、新進党党首(第2代)、自由党党首を歴任。

小沢一郎の概要

小沢一郎の生い立ち

東京市下谷区(現:東京都台東区御徒町弁護士で東京府会議員だった小沢佐重喜・ みちの長男として出生。本籍地岩手県奥州市(旧:水沢市)。3歳から14歳まで郷里の水沢で育った。

水沢市立東水沢中学校(現:奥州市立東水沢中学校)から2年次に文京区立第六中学校に転校。東京都立小石川高等学校卒業後、父と同じ弁護士を目指して東京大学を志望し、2年間浪人したが断念して、慶應義塾大学経済学部に入学した。

小沢一郎の政界入り

日本大学大学院法学研究科在学中の1969年、父の急死に伴い第32回衆院選旧岩手2区から自由民主党公認立候補し、27歳の若さで当選した。この総選挙を党幹事長として指揮したのが田中角栄で、以後木曜クラブ田中派)に所属し、田中の下で薫陶を受けた。

自民党総務局長、衆議院議院運営委員長を歴任し、衆議院定数是正(7増8減案)や田中首相辞職勧告決議案などの懸案処理に裏方として対応している。1985年第2次中曽根内閣第2次改造内閣では自治大臣兼国家公安委員長として初入閣。しかし、ロッキード事件により党籍を離れたものの、引き続き派閥の領袖として影響力を保ち続けようとする田中に反旗を翻した竹下登金丸信らと共に派内勉強会創政会」を結成。のちに経世会竹下派)として独立した。竹下内閣の発足後、小沢は党・政府の要職を歴任し竹下派七奉行の一人に数えられた。

小沢一郎の竹下派

竹下内閣では内閣官房副長官に就任。

第1次海部俊樹内閣では党幹事長に就任。リクルート疑惑や、宇野政権下での参院選惨敗後の初の総選挙となるため、苦戦が予想された第39回衆院選を、自由主義体制の維持を名目に経済団体連合会経団連)傘下の企業から選挙資金300億円を集め、勝利した等の実績から「剛腕」と称された。

1990年、金丸訪朝団の一員として北朝鮮を訪問。

1990年8月、湾岸戦争が勃発し、小沢はペルシャ湾への自衛隊派遣を模索した。「アジアへの配慮が必要だ」と反対する栗山尚一外務事務次官を抑え法案提出にこぎつけた(なお、この法案は野党の反対で廃案となり、代わりにPKO法が成立した)。自衛隊派遣について国会で公明党の協力を得るため、東京都知事選挙で党都連東京都連合会)が推す現職に代わり新人を擁立するも敗北。1991年4月、責任を取り党幹事長を辞任した。直後に経世会会長代行に就任し、名実とともに派閥のNo.2となり、姻戚関係である竹下、金丸と共に「金竹小(こんちくしょう)」と称された。しかし、次第に金丸は小沢に派閥を譲ろうと企図するようになり、竹下との確執を深めた。

1991年、政治改革法案が国会で廃案となったことを受け、海部首相衆議院解散総選挙を匂わせる発言をした。これが党内の反発を招き、海部内閣総辞職を余儀なくされる(海部おろし)。その際、金丸が小沢に対し後継首相になるよう命じ、金丸の意を受けた渡部恒三なども小沢を説得したが、当時49歳という若すぎる年齢や心臓病狭心症)で6月に倒れたことなどを理由にこれを固辞したとの逸話が残されている。だが、田勢康弘から「この逸話は実は真実ではない」と指摘されており、このようなやり取りは実際には存在せず、金丸や竹下は当初から宮澤喜一擁立を目指していたとされている。

1991年10月10日、自由民主党総裁選挙の際、派閥として支持する候補者を決定するため、出馬表明していた宮澤、渡辺美智雄三塚博と自身の個人事務所でそれぞれ面談した(小沢面接)。しかし宮澤や渡辺のような当選回数・年齢も上の者(三塚は当選回数こそ小沢よりも一回少ないが、年齢は小沢より上だった。)を自分の事務所に招いたことは傲慢であると批判された。このことは後々まで「経世会支配」「剛腕小沢」の象徴的シーンとして取り上げられた(小沢は、「当日はホテルの会場が満室でどこも予約できなかった」と弁明した。宮沢は後に 日本経済新聞 連載の「私の履歴書」の中で、「支持をこちらからお願いしているのだから、出向くのが筋であった」と回顧した)。

小沢一郎の竹下派分裂、羽田派結成

1992年、東京佐川急便事件を巡り、金丸が世論から激しい批判を受け、派閥会長を辞任、議員辞職した。後継会長に小沢は金丸に近かった渡部恒三奥田敬和らと共に羽田孜を擁立し、竹下直系小渕恵三を推す橋本龍太郎梶山静六らと対立。当初中立であった参院竹下派竹下自らが関与して小渕支持を決定。この結果として後継会長は小渕に内定した。敗れた小沢は羽田、渡部、奥田らと改革フォーラム21(羽田派)を旗揚げし、派閥は分裂した。

宮沢喜一改造内閣における羽田派閣僚ポストは、経済企画庁長官船田元)と科学技術庁長官(中島衛)の2つだけと冷遇された。さらに党幹事長には派閥の後継会長を巡り激しい闘争を演じた小渕派の梶山が就任したことで、羽田派反主流派に転落した。これに対し小沢は主流派を「守旧派」と、自らを「改革派」と呼び、持論であった政治改革の主張を全面に訴えた。

1993年2月17日、東京佐川急便事件に関連して証人喚問を受けた。

小沢一郎の自民党離党、細川内閣成立

野党から宮沢内閣不信任案が上程され、1993年6月18日、羽田・小沢派ら自民党議員39名が賛成、16名が欠席する造反により不信任案は255対220で可決された。宮沢内閣衆議院を解散した(嘘つき解散)。同年6月21日に武村正義らが自民党を離党(新党さきがけを結党)した。これが羽田・小沢派の議員に離党を決断させる一因となり、6月23日新生党を結成した。小沢は幹事長にあたる党代表幹事に就任するが、党結成の記者会見を行ったとき会場に姿が見えず「党首(羽田)の陰に隠れて暗躍している」との批判を受けた。

7月18日、第40回衆院選において自民党過半数割れし、新生党、日本新党、新党さきがけの3新党は躍進した。宮沢内閣総辞職した(後任の自民党総裁河野洋平が選出)。

小沢は、総選挙直後から日本新党代表の細川護煕非公式に会談した。細川は自民党との連立を検討していたが、小沢から首相就任を打診されたことで非自民勢力へと傾斜した。

8月9日、8党派連立細川内閣が成立した。

細川政権下で小沢は内閣とは別に与党の意思決定機関である「連立与党代表者会議」を開き、公明党書記長の市川雄一とともに政権の主導権を握ろうとし(一一ライン)、内閣官房長官として官邸主導を狙うさきがけ代表の武村と激しく対立した。

1994年、小沢と大蔵省事務次官の斎藤次郎が中心となり、消費税を廃止し7%の福祉目的税を創設するという「国民福祉税」構想を決定した。2月3日 未明、細川は突如、「国民福祉税」構想を発表し、世論の激しい反発を受けた。また、社会、さきがけ、民社各党の批判に合い、翌日、細川は「国民福祉税」構想を白紙撤回するに至った。武村官房長官(当時)は、公然と「国民福祉税構想は事前に聞いていない」と発言、小沢との対立はますます先鋭化した。 そのため、小沢は細川に武村を外すための内閣改造を要望するも、一連の動きに嫌気がさした細川は、4月に突然辞意を表明した。

小沢一郎の改新騒動、羽田内閣

細川の辞意は、小沢には突然の事であったが、直ちに後継首班に向けて始動した。小沢は渡辺美智雄との提携を企図するが、渡辺は自民党離党を決断できず構想は頓挫。連立与党は羽田の後継首班に合意した。しかし、1994年4月25日首班指名直後に、新生党、日本新党、民社党などが社会党を除く形で統一会派「改新」を結成したため、社会党の反発を招き、4月26日、社会党連立政権の離脱を発表した。連立与党側社会党連立政権復帰に努力したが、時既に遅く4月28日、羽田内閣少数与党内閣として成立した。

小沢と羽田の関係に微妙な影が差し始めたのはこの時期からである。羽田内閣は平成6年度予算を成立させたが、少数与党状態の解消をねらって行われた連立与党社会党との間の政策協議は決裂し、自民党によって内閣不信任案が衆院に提出された。当初は羽田も解散する腹で小沢も同調していたが周囲の声を聞くに至りトーンは下がり解散総選挙を断念。6月25日に内閣総辞職を選択し、羽田内閣在任期間64日、戦後2番目の短命政権に終わった。

小沢一郎の野党転落、新進党結成

羽田の後継に次に狙いを定めたのは、かつて自民党幹事長としてタッグを組んだ元首相海部俊樹であった。海部は当時自民党政治改革議員連盟会長で、新政策研究会(河本派)代表世話人でもあった。 1994年6月29日、自民党首班指名選挙で社会党委員長の村山富市に投票する方針を示したため、海部は自民党を離党し、「自由改革連合」を結成、連立与党首班候補となった。しかし決選投票で261対214で村山に敗れ、小沢は政治家人生において初めて野党の立場に落ちた。新生党内では小沢の責任を追及する声も出たが、旧連立与党を糾合して新・新党の結成を実現するために、小沢の豪腕が必要とされた。 同年9月28日、日本共産党を除く野党各党187人が集まり、衆院会派「改革」が結成された。 また同日、衆議院議員186人、参議院議員39人、計225人の国会議員による「新党準備会」が正式に発足し、新党準備実行委員長に小沢が選出された。

小沢を中心に新・新党結成が準備され、同年12月10日に新進党結成大会が行われた。小沢は党首に海部を擁立し、自らは党幹事長に就任した。

1995年7月、第17回参院選では、改選議席19議席を大幅に上回る40議席を獲得し躍進した。同年12月に行われた党首選挙では、羽田・細川らを中心に「小沢外し」の動きがあったため、自ら立候補することを決断、長年の盟友である羽田と激突した。その結果、小沢は羽田を破り、第2代党首に選出された。 しかし、この党首選挙直後に投票者名簿が破棄されるなど、選挙結果が不明瞭であったため、羽田との決裂は決定的なものとなり、党内に更なる亀裂を生じさせた。

1996年10月20日に第41回衆院選が行われ、新進党は小沢の党党首選での主張を党公約「国民との五つの契約」として消費税率の3%据え置き、18兆円減税を公約したものの、改選前の160議席を4議席減らして156議席に止まり、事実上敗北した。

小沢一郎の新進党解散、分裂

総選挙後、党内に小沢に対する反発が強まり、離党者が続出した。羽田孜細川護熙らは非主流派を構成し、 1996年12月26日、羽田、奥田敬和、岩國哲人ら衆参議員13名は新進党を離党、太陽党を結成した。 1997年、小沢は自民党(当時)の亀井静香らと提携する、いわゆる「保保連合」路線に大きく舵を切った。しかし新進党内には、こうした保保連合路線に対して二大政党制を志向する立場から反対する勢力も顕在化し、鹿野道彦政策研究会改革会議」を結成した。

12月18日の党首選挙で小沢は鹿野を破り再選された。この党首選に先立ち公明が次期参院選を独自で闘う方針を決定し、新進党離れが加速した。党首に再選された小沢は、純化路線を取り、新進党内の旧公明党グループ・公友会旧民社党グループ・民友会にそれぞれ解散を要求。12月27日に小沢は旧公明党の参院議員を分党し公明に合流させるとし、新進党の分党と新党の結成を発表した。新進党内は蜂の巣をつついたような混乱に陥り、分党を決定した両院議員総会は、混沌の内に終わった。

小沢一郎の自由党結成

1998年1月6日、自由党を結成、小沢は党首に就任した。当初、100名以上の衆参両議員が集まると思われたが、結局、衆院議員42名、参院議員12名の計54名が参加するに留まり、野党第1党の座を民主党に譲り渡した。

同年7月12日の第18回参院選では苦戦必至と思われていたが小沢人気もあり比例代表で514万票、合計6議席を獲得し善戦した。参院選後の臨時国会では、首班指名民主党代表の菅直人を野党統一候補に臨み、参院では自民党小渕恵三を抑え菅が指名された(衆院では小渕が指名されたため、衆議院の優越の原則から小渕が首相に就任した)。 小沢は参院での野党共闘により政府・自民党を追い込む戦略であったが、菅は「政局にしない」と発言、金融再生法の制定で自民党と協力したことにより野党共闘はほころびを見せた。

小沢一郎の自自連立

1998年10月、小沢は内閣官房長官野中広務と会談、連立交渉を開始し、同年11月19日、小渕首相との間で自自連立政権について合意した。

1999年1月14日正式に自自連立政権が成立し、党幹事長の野田毅自治大臣として入閣、小沢は5年ぶりに与党へ復帰した。

この連立の間に衆議院議員定数50削減、閣僚ポストの削減、および政府委員制度の廃止と党首討論設置を含む国会改革が行われた。

小沢一郎の自自公連立、連立離脱、自由党分裂

1999年7月、公明党が政権に参画し、自自公連立政権が成立した。自民、公明両党で参院の過半数を抑えることになったため政権内部での自由党の存在感は低下した。自自両党選挙協力も遅々として進まず、小沢は自民党総裁小渕総理大臣に対して自自両党の解散、新しい保守政党の結成を要求した。両者は2000年4月1日、会談するが、合意に達せず、結局連立を解消した。連立解消ストレスから、この直後、小渕は脳梗塞で倒れた。

自由党は、小沢を支持する連立離脱派野田毅二階俊博などの連立残留派に分裂し、残留派保守党を結成した(分裂の結果、自由党は衆院議員18名、参院議員4名の計22名に半減、保守党には26名が参加)。小沢と袂を分かった保守党側政党助成金を半分づつ分け合うために分党を要求したが、自由党側はこれを拒否。保守党議員は離党扱いになり、政党助成金を全く得られず総選挙を迎えることとなった。

2000年6月25日の分裂直後に行われた第42回衆院選では苦戦が予想されたが、小沢人気もあり比例代表で約660万票を獲得、現有議席を上回る22議席を獲得し善戦した。 このとき、約20億円を投じたとされるテレビCM(小沢が顔を殴られる)は話題になり、自由党が善戦した要因の一つとされる(一方、保守党は7議席へと激減)。

2001年1月、将来の指導者育成を目指し、党内に小沢一郎政治塾(小沢塾)を開設した。小沢塾民主党との合併後、小沢個人の私塾として運営された。

同年7月29日の第19回参院選では小泉人気により、自民に小泉旋風が吹き、小沢王国と呼ばれる参院岩手選挙区でも大苦戦を強いられたが、僅差で勝利した。議席数は前回と同じ6を維持したものの、自由党比例代表は約420万票に止まった。

小沢一郎の民由合併

2002年、民主党代表鳩山由紀夫は、党内の求心力を強化するため野党結集の必要性を感じ、小沢に接近した。当時、小沢自身自由党支持母体弱体化反対等により、自由党の独力で選挙を戦うことに限界を感じていたため、2人の思惑が一致した。

鳩山は民主党自由党の合併に向けた協議を行うことを発表した。しかし、党内調整が不十分であったこと及び小沢に対する拒否反応の為に頓挫、代表としての求心力を失い代表辞任に追い込まれた。その後の代表に選出された菅直人は鳩山路線を引き継いで民由合併を促進。菅と小沢の間で合併は党名・綱領・役員は民主党の現体制の維持と言うことで合意が成立した。

2003年9月26日、自由党民主党と正式に合併し、小沢は党代表代行に就任した。11月9日の第43回衆院選民主党政権交代への期待もあり公示前議席よりも40議席増の177議席を獲得した。民由合併後、小沢が最初に提携したのが旧社会党系横路孝弘だった。小沢と横路は安全保障面での政策を擦り合わせ、その後横路旧社民勢力は小沢と行動を共にした。また、小沢は野党結集のために社民党へも民主党への合流を呼びかけたが失敗に終わった。経済政策では、それまでの新自由主義から「地方経済」と「雇用」の重視の方針へ転換した。

当初、小沢派になると見られていた新自由主義的な「小さな政府研究会」には参加せず、東北出身議員だけをあつめて「東北議員団連盟」を結成し、地域主義への転向の姿勢を見せた。

11月19日、毎日新聞のインタビューに対し、次の総選挙政権交代がなされなかった場合「政治家なんか辞めて田舎でのんびりする」と表明。

小沢一郎の一兵卒

2004年5月、年金未納問題による混乱の責任を取り党代表を辞任した菅直人の後継代表に内定。しかし直後に小沢自身も国民年金が強制加入制度になる1986年以前に未加入だったとして代表就任を辞退した。代わって党幹事長だった岡田克也が代表に就任した。

同年7月11日、第20回参院選では政府与党の年金法案が争点となり、それに反対した民主党に追い風が吹き、選挙区比例代表合わせて50議席を獲得し、改選議席数自民党(49議席)を上回る勝利を収めた。小沢は参院選後、岡田の要請により党副代表に就任した。

2005年9月11日、郵政民営化の是非を争点にした第44回衆院選が行われたが現有議席を60近く減らし惨敗した(小沢の片腕と言われ、党派を超えて一目置かれていた藤井裕久も落選)。岡田は敗北の責任を取り代表を辞職した。その後の党代表選前原誠司が選出された。前原は小沢に党代表代行への就任を依頼したが、岡田執行部党副代表であり総選挙惨敗の責任の一端があるとして、これを固辞した。

小沢一郎の民主党代表時代

代表就任

2006年3月31日に前原が「堀江メール問題」の責任を取って党代表辞任を表明した後、4月7日の民主党代表選で大差で菅直人を破り、党代表に選出された。

代表選後、小沢は、党内外に挙党一致体制をアピールするため、党代表の座を争った菅を党代表代行鳩山由紀夫を党幹事長にするトロイカ体制を敷いた。また、前執行部と次の内閣メンバー全員を残留させた。自身が代表に就任してから、政令指定都市都道府県首長選挙に関しては原則として相乗り禁止の方針を打ち出した。小沢が党代表に就任した直後、4月23日の衆議院千葉7区補欠選挙では、メール問題での逆風から当選は難しいと思われていたが、僅差ながら勝利した。これにより党内の求心力が高まり9月12日に無投票で民主党代表に再選された。

5月9日の会見で、衆院本会議を欠席しがちな理由として「食後すぐに仕事にとりかからないなど、医者の忠告を守っている」と、自身の体調管理を理由に挙げたことに関し、「議会軽視だ」と各方面から厳しい批判を受けた。また、自身の健康状態を語ったことに対して様々な憶測が流れた。9月25日臨時党大会で正式に代表に再選された後、狭心症の発作の兆候を感じたため、都内の病院に検査入院した。10月5日に退院し、自身の動脈硬化が進んでいることを明らかにした。

外交政策での対立

2006年10月に北朝鮮核実験を行った後の朝鮮半島情勢は「周辺事態法」を適用できるかどうかを巡り、「周辺事態法は適用できない」とする小沢一郎らトロイカ体制の見解を発表した。 しかし、これに対して前原誠司前代表を始めとする党内から「周辺事態法は適用できる」とする意見表明が行われ、また民主党の外交・防衛部門は、「小沢代表トロイカ体制の見解は民主党公式見解ではない」と発表し、安全保障政策をめぐる民主党内の対立・不一致が表面化した。 小沢は「核武装の論議を是認すれば 非核三原則を守る という言葉も国民や国際社会に受け入れられない」と指摘した。しかし、その考えに不満を持つ一部保守層などが、自由党党首時代2002年の小沢の発言である「日本は一朝で数千発の核弾頭を持てる。」と日本の核保有能力について発言したことと比較して批判した。

防衛庁の「省」昇格に対し、自由党時代から防衛庁の省への昇格を主張していた小沢は「国防の任に当たる省庁が内閣府の一外局でしかない状態は良いことではない」と述べた。民主党内には依然反対の声があったため衆院安全保障委員会での防衛「省」昇格関連法案の審議に欠席した。2006年11月の福島県知事選では社民党、沖縄県知事選では共産党社民党などと共闘。福島県知事選では与党推薦候補を破ったが、沖縄県知事選では与党推薦候補に敗れた。沖縄県知事選の敗北を受け、小沢の最終決断により「省」昇格法案に賛成した。また、沖縄県知事選で共産党社民党など民主党とは支持層や政策の異なる政党と共闘し敗れたことから、野党共闘のあり方について見直しを迫られた。

統一地方選、参院選での躍進

2007年4月8日に統一地方選挙の前半戦が行われ、地元・岩手県の知事選で小沢チルドレン代表格である達増拓也が出馬し、2位以下に3倍近い差をつける圧勝で小沢王国健在を見せ付けた。また、岩手県議選でも議席を増やし第1党を維持した。自民VS民主の対決になった5つの知事選では2勝3敗で負け越したものの、道府県議選政令市議選では民主党は230議席(合併前自由党含む)から145議席増え375議席に躍進した。

4月22日に統一補欠選挙が行われ、参院沖縄で惜敗したものの、参院福島では圧勝した。また、同日行われた統一地方選挙の後半戦では市町村合併の影響か市議選で、自民党が過去最低議席数になった他、他党が前回議席を割り込む中、民主党は3割近く議席を伸ばした。

参議院選挙に向けて「生活維新」を掲げた民主党の宣伝CMに出演。参院選投票1ヶ月前の6月からはキャッチフレーズを「生活維新」から「生活が、第一。」に変更した。7月8日、マスコミ報道では民主優勢と見た小沢は、同年7月29日の第21回参議院議員通常選挙で野党で過半数の議席を獲得できなかった場合は、「野党の代表をいつまで務めていてもしょうがない」と民主党代表を辞任し、次期衆議院議員選挙に立候補せず政界引退することを明らかにした。これにより自身の責任ライン明確化し、根強い小沢人気も相まり更に民主への追い風を強めた。7月29日の第21回参議院議員通常選挙で民主党は60議席を獲得し参議院第1党となり、野党全体共産党を含む)で過半数を得た。この選挙では、公示以降政策、予算など選挙対策に関する全権を掌握し、独自の情勢分析にもとづいて、党本部から直接携帯電話で候補者に指示を送るほか、小沢の30人を超える秘書が分身として1人区を中心とした激戦区選挙戦術指導のため送り込まれた。1人区行脚と言われた小沢本人による梃入れと合わせて、選挙戦術の卓越さを遺憾なく発揮した選挙となった。選挙開票当日は「医者からの忠告」を理由に休養を取っていたとし、小沢はマスコミの前に姿を見せなかったが、7月31日の党常任幹事会に多くの報道陣が駆けつける中で出席、小沢は公約通り衆議院議員を今後も続けることを宣言した。

参院選後の経緯

8月8日には11月に期限切れとなるテロ対策特別措置法問題についてマスコミ公開の中、シーファー駐日米大使と会談、8月30日にはドイツメルケル首相と会談した。

9月12日、安倍首相が辞意を表明し、9月25日に内閣総理大臣指名選挙が行われた。衆議院福田康夫参議院決選投票の末(小沢133票、福田106票)、小沢を内閣総理大臣に指名した。衆議院優越規定に基づき福田が首相となったが、両院の指名が異なったのは小渕恵三内閣下民主党の菅直人が指名されて以来、9年ぶり4度目であった。

2007年11月2日、小沢代表自民党福田総裁と会談し、連立政権について提案があった為、意見を党に持ち帰り臨時役員会に諮ったが、民主党内の反対を受け連立を拒否した。11月4日、連立騒動の責任を取り代表辞任を表明したが、民主党内の慰留を受け、11月6日代表続投を表明した。11月7日の両院議員懇談会で代表続投が承認された。

詳細は大連立構想 (日本 2007)を参照

2008年1月11日、参議院における補給支援特措法案衆議院で再可決する本会議中突然退席し、投票を棄権した。大阪府知事選の推薦候補の応援のためとしているが、党内の一部や他の政党の議員から批判された。なお、大阪府知事選では、民主党が推薦した候補がダブルスコアで惨敗し、鳩山幹事長から「代表の退席は国民の批判をいただいた。惨敗の理由に挙げられる」と責任を追及されるもととなった。

2008年1月、民主党は、ガソリン税の引き下げを主張するビラを配布した。このビラは、自動車フロントガラスに貼るもので、道路運送車両法に違反する違法ビラであった。

2008年2月29日、衆議院で2009年度予算案が野党3党の欠席のなかで強行採決された。これを受け、武藤敏郎副総裁の日銀総裁への昇格を拒否する方針を決めた。 結局、民主党参議院で日銀総裁人事を否決した。

2008年4月1日、民主党協議拒否中に年度が変わり、ガソリン暫定税が失効した。

2008年4月2日「民主党重鎮 武藤(敏郎元財務事務次官)さんでまとめる と言った」という福田首相の発言については、記者会見で「誰とも話した事実はない」「(党首会談について) 門前払い と言う一方で 私が言った というのは全くおかしな話だ」と指摘し否定した。

2008年4月3日、在日米軍駐留経費負担(思いやり予算)に関する新たな特別協定案を採決する衆院本会議を欠席した。千葉市内での記者会見で小沢は「別の日程があったので出なかった。私には私の優先順位がある。」と説明した。

2008年4月6日、NHKの番組に出演し、9月の代表選への出馬について問われ「民主党の代表になってもならなくても政権交代のために頑張る」と代表を降りる可能性があることを示唆した。また、地方分権については、「日本には、革命が必要。国と地方の権限を見直す。」と発言した。

2008年4月15日の記者会見で、衆議院山口2区補欠選挙で敗北した場合、与党がガソリン暫定税率税再議決で戻すことはやむを得ないか、また今後山口県に入る予定があるかと問われて、「個々の選挙戦と政策はイコールではない。480のうちの1議席でどうのこうのというのはちょっと乱暴な言い方だと思う。しかし支持を得て(補欠選挙で)勝つことは非常に意義のあることなので頑張りたい。必要ならもう一度(山口県に)入る」と回答した。

小沢独裁体制の確立

衆議院山口2区補欠選挙、沖縄県議会議員選挙での勝利を受け、小沢代表求心力は高まった。また、史上初首相問責決議案の参議院可決を主導し、民主党議員が小沢代表のもとに結束した。

臨時国会の8月末招集の方針を受け、9月の代表選前倒し論が浮上。代表選後に党役員ポストが増加する参院幹部が臨時国会に向け態勢を整えるため、「国会が始まる前が合理的だ。党内の人事を陣立てして臨時国会に臨むべきだ。」といった前倒し論が拡大した。前倒しにより準備の整っていない対抗馬立候補を封じることができるため、小沢代表の3選が確実視される。党内に異論があったため代表選は9月に決まったが、鳩山幹事長、野田広報委員長を始め民主党ベテラン議員、若手議員が小沢独裁体制の継続を支持したため無投票再選がほぼ確実である。

小沢一郎の国会運営

民主党時代の小沢の国会での論戦は、前原前代表の「対案路線」ではなく、「対立軸路線」で与党とは対決姿勢を鮮明にした。自著 「日本改造計画」 では、「過半数が賛成している案を、少数のダダっ子がいて、その子をなだめるために、いいなりになってすべてを変えてしまう」のは「少数者の横暴」だと述べている。小沢は「審議を十分に行えば」与党による採決も止むを得ないという立場を取った。一方、議員数の多さを背景に強行採決した場合には徹底抗戦審議拒否も辞さない戦う野党の姿勢も示した。ただし、この姿勢は審議拒否度々行うことで「充分な審議を放棄した」「与党案の成立を手助けしている」との批判を生むことがあった。

2007年12月、国会の会期中に、民主党の国会議員46人を率いて中国を訪問し、衆参本会議が数日間中止になるなどの行動が国会軽視と非難された。小沢は民主党の反対で国会審議が滞ったことを棚に上げ、「安倍首相の突然の辞任や自民党総裁選ゴタゴタで国会日程が逼迫したのが原因であり、批判されるいわれはない」と発言した。

2008年1月の新テロ特措法の採決日、国会を採決直前に退席し、マスメディアの批判を受けた。対して小沢氏は「前からの約束で、選挙の約束は一番たがえてはいけないものだ」と強調。新テロ対策特措法について「国民にとっても民主党にとっても大事な法案ではない。反対の意思表示は既にしている。後は数あわせの本会議でしかない。結果は目に見えている。批判は理解できない。国民は理解してくれていると思う」と反論した。こうした日本の状況に対して米国や英国では、採決に議員全員が出席しないことを前提としたシステムで議会が運営されており、議員は自分の仕事の優先順位によってはあらかじめ投票を行い採決には欠席するのが普通であるが、党議拘束のある日本では採決前から結果が決まっていることがほとんどである。。ただし、これ以外でも国会を途中退席、欠席することがしばしばあり、批判の対象となっている。

小沢一郎の主な政治的主張

最初の著作である「日本改造計画」でネオリベラリズムを主張した。

民主党代表時代にはリベラル色を強めた。一方、2004年に公表した現行憲法の下での国連派遣部隊構想、さらにそれを発展させ2007年10月に公表した国際安全保障政策では、現行憲法との論理的整合性を維持しながら日本の国際安全保障政策国連中心主義)を主張した。

外交、防衛政策 基本姿勢 外交では、先の戦争に対する反省を踏まえて、一つには人間と人間、国家と国家との「共生」、つまり日本及び世界の平和の確保、もう一つは人間