小泉 純一郎(こいずみ じゅんいちろう、1942年〈昭和17年〉1月8日 - )は、日本の政治家、衆議院議員、第87代・第88代・第89代内閣総理大臣(在任期間2001年4月26日 - 2006年9月26日)。
第132代外務大臣、第74代・第86代厚生大臣、第56代郵政大臣、第38代農林水産大臣。
内閣総理大臣の在任期間は1,980日と、第二次世界大戦後の内閣総理大臣としては佐藤栄作、吉田茂に次ぐ第3位の長期政権となった。また、中曽根康弘以来の、辞任せずに自由民主党総裁としての任期を全うした内閣総理大臣となった。
通称、「変人」(田中真紀子命名)。
2008年9月25日、政界引退を表明。
小泉純一郎の経歴
小泉純一郎の出生から初当選まで
小泉と家族。1942年、 神奈川県横須賀市に政治家小泉純也と芳江の長男として出生。母方の祖父小泉又次郎は第2次若槻内閣で逓信大臣を務め、若い頃に全身に「昇り龍」の入れ墨を彫っていたことから、“いれずみ大臣”の異名で知られる大衆政治家だった。父純也は戦後に一時公職追放となるが、政界復帰して防衛庁長官をつとめた。
神奈川県立横須賀高等学校卒業。慶應義塾大学経済学部へ入学。ロンドン大学に遊学(公式プロフィールでは留学とされているが、実際は聴講生で単位取得はなし)。1969年8月に父が急死したため帰国。
同年12月、亡き父の跡を継ぎ、弔い合戦を掲げて第32回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で立候補。しかし、父の死から間もなく準備が不足しており、また政治家として修行を全くしておらず演説もまだ不得手だったため、結果は10万3000票余りを獲得するが4000票差で落選した。
翌1970年より、福田赳夫大蔵大臣の書生を務める。 後に総理となる福田から政治家としての薫陶を受けた。
1972年12月、第33回衆議院議員総選挙において12万2000票余りを獲得して自民党公認で初当選した。清和会(福田派)に属した。後に小泉政権で内閣総理大臣秘書官となる飯島勲が秘書となり、以後、2007年9月13日までの35年間にわたり二人三脚で進むことになる。
小泉純一郎の衆議院議員
衆議院議員となると、同期の山崎拓・加藤紘一とは国会での席が近いこともあって特に懇意になった。この2人との関係は、後にイニシャルからYKKと呼ばれる盟友関係に発展する。
1979年、当選3回目にして第2次大平内閣で大蔵政務次官に就任した。この大蔵政務次官在任中に、役人が民間の仕事を奪う実態を見たことで「官から民へ」の環境をつくる郵政三事業(郵便・簡易生命保険・郵便貯金)の民営化を持論としたといわれる。郵政民営化論は、政治家としてのライフワークとなる。当時は、国鉄や電電公社の民営化以前でもあり、巨大公共機関である郵政の民営化は荒唐無稽な暴論と考えられており、特定郵便局が自民党の票田であり、全逓信労働組合が野党にとっての票田となっていたことから、郵政は、いわゆる聖域であると考えられていた。しかし、上司である大蔵大臣の竹下登とは親しかったようである(後年竹下改造内閣で厚生大臣として初入閣していることなどから)。
大蔵・厚生族議員として地歩を築き、政策通で知られたが、子分をつくらない一匹狼的な行動をとり、言いたいことを直言し、与野党政治家の既得権益を害する郵政民営化論を主張することもあって永田町では「変人」と評されるようになる。
1978年に福田赳夫夫妻を媒酌人にエスエス製薬の創始者泰道照山の孫と結婚するが、1982年に離婚している。「離婚するのは、結婚の十倍のエネルギーが必要だ」として、以後は独身を通している。元夫人との間には3人の子どもがおり、長男は後に俳優となる小泉孝太郎である。公私の面の補佐は姉が務めることになる。
1988年、竹下内閣改造内閣で厚生大臣として初入閣を果たす。就任早々に厚生年金支給年齢を60歳から65歳に引き上げる痛みを伴う改革を打ち上げている。
1989年にリクルート事件で竹下政権が倒れ、続く宇野政権も女性スキャンダルがもとで参院選で惨敗し、わずか2か月で退陣した。政治不信が高まり、政治改革の柱として、衆議院議員の選挙制度をそれまでの中選挙区制から小選挙区を軸とした制度への選挙制度改革が、政治改革として主張されるようになった。小泉は、このとき小選挙区制の導入に強硬に反対したことから、推進派の羽田孜と対立した。後に首相時代の衆議院選挙では、郵政民営化への民意を問うとして解散を行い、小選挙区制の特質による影響を強く受け、自民党の大勝を実現した。
宇野の後継となった海部俊樹総理は、河本派に属していたが、最大派閥の経世会(竹下派)の支持を受けた総理で、自民党は田中角栄の木曜クラブの系譜を引く経世会の支配下にあった。
1991年の総裁選での再選を目指していた海部に対抗し、中堅実力派議員となっていた盟友の山崎拓(渡辺派)・加藤紘一(宮沢派)と組んで、海部続投阻止・経世会支配打倒を打ち上げた。所属する三塚派のほか、渡辺派・宮沢派の反主流派が結束したため、もともと弱体だった海部の指導力は機能不全に陥った。懸案の政治改革三法案が廃案になったことで海部は解散に打って出ようとするが、それもできず遂に総裁選不出馬に追い込まれた。小泉・山崎・加藤のYKKグループはこの政争で名を上げた。
代って宮澤喜一が総理・総裁に就任し、1992年の宮澤内閣改造内閣では、待望の郵政大臣に就任する。就任の会見で、かねてからの持論の郵政民営化論に基づき、国は民間では採算の採れないことだけをすべきとして、老人マル優限度額引き上げなど従来の郵貯事業拡張政策の見直しを発言して、省内と郵政族議員たちを激怒させた。結局、この老人マル優限度額引き上げ見直しは郵政族の反発で失敗、その後も族議員や省内から攻撃を受けるなど孤立して苦渋をなめている。
国連カンボジア暫定機構(UNTAC、United Nations Transitional Authority in Cambodia)に派遣されていた日本の文民警察官が武装グループに襲撃され、1人が死亡、4人が重軽傷を負う事件が起こったさいには、宮沢改造内閣の郵政相として閣議の席で、政府の自衛隊カンボジア派遣に異議を唱えた。この死傷事件をきっかけにタケオ州に駐在する自衛隊施設大隊が選挙監視要員を支援することにした政府決定についても異議を唱えている。さらに、5月18日の閣議でも「日本独自の判断で文民警察官をより安全な場所に移動させよ」「政府は国会でいってきたこと、国民に約束したことを尊重すべきだ」と強調した。
1993年、細川護熙の日本新党の立ち上げにより政界再編の機運が高まり、経世会が分裂し、小沢一郎・羽田孜らが賛成したこともあり、宮澤内閣不信任案が可決された。小沢・羽田らは自民党を離党し新生党を設立、続く第40回衆議院議員総選挙で自民党は過半数を割った。小泉は、宮澤総理の責任や退陣を求めることを明言したが、現職閣僚が総理の辞任を正面から要求することは前代未聞であった。閣僚懇談会でも重ねて辞任を要求し、大臣の辞表を提出した。辞任後宮澤が郵政相を兼任するも翌月辞職した。
小泉純一郎の総裁選への挑戦
衆議院選挙の結果を受けて、日本新党の細川護熙が、新生党や新党さきがけ・社会党・公明党・民社党の支持により首班としての指名を受け、連立政権が成立し、長らく与党であり続けてきた自民党は野党に転落した。自民党総裁にはクリーンなイメージがあるとして河野洋平が就任した。
政界の混迷は続き、細川総理は佐川急便事件を契機としてあっけなく辞任した。続く、新生党の羽田政権も短命に終わり、自民党は政権奪回のために、基本政策の上で大きな違いのある社会党と連立を組み、社会党委員長の村山富市を総理に推していわゆる55年体制のもとでは考えられない連立を構築することで政権に復帰した。この自社さ連立政権下でも、実力者野中広務らの経世会→平成研究会が主導的な力を持つようになった。
一方、政権奪回を目指す野党は、小沢一郎の主導により野党合同を実現して新進党を結党する。1995年の参議院議員選挙で自民党は新進党に敗れ、河野総裁の責任問題に発展するが、河野は9月に予定される総裁選での続投を望んだ。河野に不満な平成研究会は政策通で人気のある橋本龍太郎を擁立して、河野続投阻止にかかる。小泉の清和会は河野を支持していたが、情勢不利を悟った河野が出馬断念を表明したことで、橋本の総裁就任は確実になった。無投票で総裁が決まることを阻止したい小泉らは森喜朗(清和会)擁立を図るが森が辞退したため、結局、小泉が自ら出馬することを決めた。
すでに大勢が決していた上に、郵政民営化を主張する小泉は党内で反発を買っており、出馬に必要な推薦人30人を集めることができたことがニュースになる有り様だった。それでも若手議員のグループが小泉を推し、その中に後に総理になる安倍晋三がいた。結果は橋本の圧勝に終わったが、総裁選出馬により郵政民営化論を世間にアピールして存在感を示すことはできた。
1996年に村山総理が辞任し、橋本内閣が成立した。小泉は第2次橋本内閣で再び厚生大臣に就任する。小泉は相変わらず自説を曲げず「郵政民営化できなければ大臣を辞める」と発言、国会答弁で「新進党が郵政三事業民営化法案を出したら賛成する」と郵政民営化を主張したときは、与党から野次を受け、逆に野党から拍手を受けることもあった。橋本総理はもちろん内閣の誰も郵政民営化を全く考えず、ある閣僚は「暴論」とまで言った。
同年、小泉は在職25年の議員に与えられる永年在職表彰を辞退して、相変わらず永田町の変わり者ぶりを示した。
橋本総理は、消費税の引き上げを断行したことで、平成不況から立ち直りかけた景気を再び落ち込ませたと批判を受け、 1998年の参議院議員選挙で民主党・共産党などの野党に大敗し退陣した。後継は、平成研究会の小渕恵三が有力だったが、無投票を阻止したい若手議員たちは小泉に出馬を要請するが、小泉は勝ち目がないとして渋った。しかし、平成研究会が分裂し梶山静六が出馬したことなどから、若手の説得により出馬を表明した。しかし、結果は盟友の山崎・加藤の支持も取り付けられず、自身の清和会すらも固めることはできず最下位に終わり、大方の予想通り小渕が総裁に選出された。
小泉純一郎の加藤の乱
詳細は加藤の乱を参照
2000年、小渕総理が急死し、党内実力者の青木幹雄、野中広務らの支持により幹事長だった森喜朗が総理・総裁に就任した。森が会長を務めていた清和政策研究会(森派)の会長には小泉が就任した。
この総理就任の経緯は密室談合と非難され、森の旧来政治家的なイメージも相まって人気がなく、その上に失言が次々とマスコミに大きく取り上げられ、支持率は急落した。2000年11月には遂に18.4%を記録する。これに危機感を抱いた反主流派の加藤紘一・山崎拓は、公然と森総理退陣を要求し始めた。加藤と山崎は、自派を率いて、野党の提出する内閣不信任案に同調する動きを見せた。一方、森派の会長だった小泉は、森総理支持の立場を明確にした。小泉は、いわゆる加藤の乱と呼ばれる動きを察知するや、党の内外に加藤・山崎の造反を真っ先に触れ回った。
加藤は、マスコミに積極的に登場して自説を主張し、普及し始めたインターネットを通じて世論の支持を受けた。だが、小泉ら主流派は猛烈な切り崩し工作を行い、加藤派が分裂して可決の見通しは全くなくなり、加藤・山崎は内閣不信任案への賛成を断念した。これにより、総理候補と目された加藤は、大きな打撃を受け小派閥に転落、一方、森派の顔として活躍した小泉は党内での評価を上げた。
政争を乗り切った森政権だが、相変わらず支持率は低迷。2001年2月、えひめ丸事件で高校生が多数死亡した際に、ゴルフ場で事故の報を受けた後も森総理がプレーを続けたとして激しい非難を受け、遂に退陣に追い込まれた。
小泉純一郎の小泉旋風
詳細は小泉旋風を参照
森の退陣を受けた2001年4月の総裁選では、平成研究会が橋本元総理を擁立したほか、麻生太郎・亀井静香が出馬を表明した。清新なイメージで人気があった小泉への待望論もあり、今回は自派森派に加え、加藤派・山崎派の支持を固めて出馬した。小泉は主婦層を中心に大衆に人気のあった田中眞紀子(田中角栄の長女)の協力を受けた。
最大派閥の橋本の勝利が有力視されたが、小泉が一般党員を対象とした予備選で眞紀子とともに派手な選挙戦を展開した。小泉は「自民党をぶっ壊す!」「私の政策を批判する者はすべて抵抗勢力」と熱弁を振るい、街頭演説では数万の観衆が押し寄せ、閉塞した状況に変化を渇望していた大衆の圧倒的な支持を得て、小泉旋風と呼ばれる現象を引き起こす。小泉は予備選で地滑り的大勝をし、4月24日の議員による本選挙でも圧勝して、自民党総裁に選出された。4月26日の首班指名で第87代内閣総理大臣に就任した。
小泉純一郎の内閣総理大臣
|
|||||||||||||||||||||||||
内閣総理大臣に就任した小泉は、組閣にあたっては、慣例となっていた派閥の推薦を一切受け付けず、閣僚・党人事を全て自分で決め、「官邸主導」「総理支配」と呼ばれる流れをつくった。山崎を幹事長に起用する一方で、最大派閥の平成研究会からは誰も党三役に起用しなかった。人気のある石原伸晃を行政改革担当大臣に、民間から経済学者の竹中平蔵を経済財政政策担当大臣に起用した。また、総裁選の功労者の田中眞紀子は外務大臣に任命された。5人の女性が閣僚に任命された(第1次小泉内閣)。
「構造改革なくして景気回復なし」をスローガンに、道路関係四公団・石油公団・住宅金融公庫など特殊法人の民営化など小さな政府を目指す改革(「官から民へ」)と、国と地方の三位一体の改革(「中央から地方へ」)を含む「聖域なき構造改革」を打ち出し、とりわけ持論である郵政三事業の民営化を「改革の本丸」に位置付けた。特殊法人の民営化には族議員を中心とした反発を受けた。
発足時の小泉内閣の支持率は、87.1%(読売新聞社調べ)と空前の高い率を記録した。「小泉内閣メールマガジン」を発行し、登録者が200万人に及んだことも話題となった。この小泉人気に乗るかたちで同年7月の参議院議員選挙で自民党は大勝した。
終戦の日の8月15日に靖国神社参拝をすることを、小泉は総裁選時に公約としていた。総理の靖国神社参拝は中国・韓国の反発に配慮して長年行われていなかった。小泉は、批判に一定の配慮を示し、公約の8月15日ではなく13日に靖国神社参拝を行った。以後も毎年、日や形式を変えつつも参拝を行った。中国・韓国はこれに強く反発し、首脳の相互訪問が途絶えるなど、中韓との外交上の懸案事項となった。
9月11日、米同時多発テロの発生を受けて、ブッシュ大統領の「テロとの戦い」を支持した。米軍らのアフガニスタン侵攻を支援するテロ対策特別措置法を成立させ、海上自衛隊を米軍らの後方支援に出動させた。宮沢改造内閣の閣議での発言を翻すものであった。
国際情勢が緊迫するなか、外交機密費問題などで世論の批判を受けていた外務省は、田中外相が野上外務次官を初めとする外務官僚や外交族の鈴木宗男と衝突し、スキャンダルの暴露が応酬されるなど機能不全に陥っていた。当初は、混乱を他人事のように語っていた小泉も、2002年2月には遂に田中を更迭した。人気のあった田中の更迭により小泉内閣の支持率は急落した。田中は、この処置を恨んで以後小泉を常に批判しているが、秘書給与疑惑が持ち上がって8月に辞職に追い込まれた。
この間、社民党の辻元清美衆議院議員は鈴木を「疑惑のデパート」と追及して名を上げていたが、2002年4月には自身が秘書給与疑惑で辞職を余儀なくされた。鈴木は6月に収賄容疑で逮捕され、加藤も政治資金流用疑惑で4月に辞職した。
「政治とカネ」のスキャンダルの連発で支持率を落とした小泉だが、2002年9月に電撃的に北朝鮮を訪問して、金正日総書記と初の日朝首脳会談を実現し、日朝平壌宣言に調印した。この訪問で金正日は北朝鮮による日本人拉致を公式に認め、5人の拉致被害者を帰国させた。ところが、8人死亡・1人行方不明とする北朝鮮の回答が不十分なものであり、拉致被害者の家族の帰国が拒まれるなどで、関係者を中心に不満が噴出し、世論も北朝鮮に対して強く反発を見せた。国交正常化交渉は頓挫し、北朝鮮との外交問題は小泉政権を通しての懸案となる。
北朝鮮との外交で強硬路線を主張し、拉致被害者家族との信頼関係を築いた安倍晋三官房副長官が国民的な人気を得るようになった。また、拉致被害者が帰国したことで一定の成果は上げたとして小泉の支持率はまた上昇に転じた。
2002年9月30日、小泉改造内閣が発足。柳沢伯夫金融大臣を更迭して、竹中経財相に兼務させた。これにより、以後は不良債権処理の強硬策を主張する竹中が小泉政権の経済政策を主導した。
2003年3月、アメリカはイラクへ侵攻してフセイン政権を打倒した。小泉は開戦前からアメリカ支持を表明したことで、アメリカ追従外交として野党やマスコミの一部から批判を受けた。日米同盟こそが外交の基軸とのスタンスを崩さず、ブッシュ大統領との蜜月関係を守った。イラク戦後復興支援のための陸上自衛隊派遣が喫緊の課題となり、7月にイラク特措法を成立させた。これに先立つ6月には、長年の安全保障上の懸案だった有事関連三法案(有事法制)を成立させている。
9月に予定される自民党総裁選では敵対する平成研究会が、実力者野中広務を中心として、藤井孝男元運輸大臣を擁立して小泉降ろしを図ったが、平成研究会の参議院の実力者である青木幹雄参院幹事長はこれに与せず、野中は平成研究会の票をまとめることができずに大敗した。野中は10月に政界引退した。平成研究会(旧経世会)の凋落を示す事件で、小泉・森の清和政策研究会が党の主導権を掌握することになる。
2003年9月、自民党総裁選で再選された小泉は小泉再改造内閣発足させ、党人事では当選3回の若い安倍晋三を幹事長に起用する異例の人事を行った。これはイラク戦争への支持などで世論の批判を受けて苦戦が予想される11月の総選挙に向けて安倍の人気を必要としたからとされる。その結果、11月の総選挙では絶対安定多数の確保に成功する。閣僚を留任させた第2次小泉内閣が発足。一方、小泉の盟友の山崎拓は女性スキャンダルがもとで落選している。
2004年1月、自衛隊のイラク・サマーワへの派遣を行った。しかし、4月に武装集団がイラクにいた日本人を拉致して「イラクからの自衛隊の撤退」を要求する事件が起きた(イラク日本人人質事件)。小泉は「テロには屈しない」とこれを明確に拒否。人質3人は後に解放された(但し小泉の強硬姿勢が功を奏したわけではなく、地元部族長の仲介によるもの)。さらに2人が拉致され後に解放される。
2004年5月、小泉は再訪朝し平壌で金正日総書記と会談した。北朝鮮に対する25万トンの食糧や1000万ドル相当の医療品の支援を表明し、日朝国交正常化を前進させると発表した。これに伴い、5人の拉致被害者の子供の帰国を実現した。その後の北朝鮮の対応はおよそ日本の世論を納得させるものではなく、火に油を注ぐ格好になり、日朝国交正常化交渉は再び暗礁に乗り上げ、その後、北朝鮮は日本を無視。小泉はアメリカとの連係を強化して「対話と圧力」の姿勢を維持した。
2004年7月、第20回参議院議員通常選挙で自民党が改選議席数割れになり、安倍幹事長は辞任、武部勤が後任となった。
破綻しかけている年金制度の改革が国民の重大な関心事となっており、6月に年金改革法を成立させるが、抜本的な改革には程遠いものだった。小泉の最大の関心は長年の持論の郵政民営化にあった。参院選を終えたことで小泉は郵政民営化に本格的に乗り出し、2004年9月に第2次小泉改造内閣を発足させ、竹中を郵政民営化担当大臣に任命した。「基本方針」を策定して、郵政民営化を最優先事項とした。
2005年6月、国民保護法が成立し、国と地方自治体の武力攻撃に対する対処法が定められた。
小泉純一郎の小泉劇場
詳細は小泉劇場を参照
2005年、小泉が「改革の本丸」に位置付ける郵政民営化関連法案は、党内から反対が続出して紛糾した。小泉は一歩も引かぬ姿勢を示し、党内調整は難航する。反対派は亀井静香、平沼赳夫が中心となり長老の綿貫民輔を旗頭に100人近い議員を集めて気勢を上げた。法案を審理する党総務会は亀井ら反対派の反発で紛糾し、遂に小泉支持派は総務会での全会一致の慣例を破って採決で強行突破した。これに反対派は猛反発する。ここにおいて、事態は郵政民営化関連法案を巡る小泉と亀井・平沼ら反対派との政争と化した。
衆議院本会議における採決で、反対派は反対票を投じる構えを見せ、両派による猛烈な切り崩し合戦が行われた。7月5日の採決では賛成233票、反対228票で辛うじて可決されるが、亀井、平沼をはじめ37人が反対票を投じている。参議院では与野党の議席差が少なく、亀井は否決への自信を示した。小泉は法案が否決されれば直ちに解散するとを言明するが、亀井ら反対派は、解散発言は牽制であり、そんな無茶はできまいと見ていたようだ。
2005年8月8日、参議院本会議の採決で自民党議員22人が反対票を投じ、賛成108票、反対125票で郵政民営化関連法案は否決された。小泉は即座に衆議院解散に踏み切り、署名を最後まで拒否した島村宣伸農林水産大臣を罷免、自ら兼務して閣議決定した。同日、憲法7条に基づき衆議院を解散した。
小泉は、法案に反対した議員全員に公認を与えず、選挙区には「刺客」候補を落下傘的に送り込む戦術を展開。小泉は自らこの解散を「郵政解散」と命名し、郵政民営化の賛否を問う選挙とすることを明確にし、反対派を「抵抗勢力」とするイメージ戦略に成功。解散はできないと考えていた亀井らの対応は、完全に後手に回った。反対派議員をまとめることもできず、亀井は綿貫民輔ら少数で国民新党を結党して、苦戦を強いられることとなった。最大野党の民主党も、解散当初こそ政権交代の好機到来と気勢を上げるも、選挙戦が本格化してからは、二転三転する郵政政策により、明確な争点を見出せぬまま、そのまま埋没していった。選挙戦は小泉が終始、主導権を握った。
マスコミ報道を利用した(但し、一部マスコミを除く)劇場型政治は、都市部の大衆に受け、政治に関心がない層を投票場へ動員することに成功し、それにより9月11日の投票の結果は高い投票率を記録し、自民党だけで296議席、公明党と併せた与党で327議席の歴史的圧勝を納めた。最大野党の民主党は改選前の177議席を大きく下回る113議席の惨敗を喫し、岡田克也代表が辞任している。実際の与野党の得票数の差の比率はこの結果ほどは離れていない。これは死票が多く、優勢な側に地滑り的な勝利が起き易い小選挙区制度の特性でもあった。この選挙はマスコミにより「小泉劇場」と呼ばれることになる。
2005年9月21日、小泉は圧倒的多数で首班指名を受け、第89代内閣総理大臣に就任する。10月14日 の特別国会に再提出された郵政民営化関連法案は、衆参両院の可決を経て成立した。この採決で、かつて反対票を投じた議員の大多数が賛成に回った。これにより小泉の長年の悲願がようやく実現された。
小泉純一郎のポスト小泉
詳細はポスト小泉を参照
2005年10月、第3次小泉改造内閣が発足。ポスト小泉と目される麻生太郎が外務大臣に、谷垣禎一が財務大臣に、安倍晋三が官房長官に起用された。
党勢回復をはかる前原誠司新代表の民主党は、耐震強度偽装問題や皇室典範改正問題などを追及して与党を苦しい立場に追い込んでいたが、2006年2月のライブドア送金指示メール騒動であえなく自滅し、前原代表は辞任に追い込まれた。
小泉は2006年9月の総裁任期満了での退任を表明しており、焦点はポスト小泉に移り、麻生太郎、谷垣禎一、福田康夫、安倍晋三の 麻垣康三 が次期総裁を巡って争った。総理としての最後の通常国会では小泉は重要法案が幾つか残っている状況でも会期延長を頑なに拒否して、行政の長の国会運営への過度の介入だと批判を受けている。
8月15日の終戦記念日に小泉は最初の総裁選の公約を果たして靖国神社へ参拝した。
2006年9月20日の総裁選では、選挙前から確実視された安倍晋三が後継総裁に選ばれる。翌9月21日 に小泉の自民党総裁任期は満了し、9月26日 に小泉内閣は総辞職して内閣総理大臣を退任した。新総理には安倍晋三が指名された。任期満了による退任は1987年の中曽根政権以来であり、また、小泉政権は戦後3位の長期政権となった。
小泉純一郎の総理退任後
総理退任後は、テレビ出演やインタビューなど、国民の前でほとんど発言していない。マスコミ記者からインタビューを受けても何も言わないで去っていくことが多い。ただし、講演会などをまれに行っており、立ち見が出るほどの大反響になる。
小泉は院政の意思はなく、もともと一匹狼であるため子分もおらず、かつて所属していた森派にも戻っていない。岸信介や田中角栄、中曽根康弘、竹下登など大派閥を擁し退任後も政界に影響力を残した元総理たちのような政治的基盤はない(清和会はもともと森喜朗の派閥で、町村信孝が継承)。しかし、何かと新党立ち上げの噂が出るのも事実である。
国民人気は根強いが、公的露出を控えることでこの人気を利用する動きは見せていない。これは小泉が露出することによって、安倍首相(当時)より目立ってしまうことを避けるためとされた。国民人気が根強いため、時々発せられるさりげない一言が逆に世間に大きく注目されることがある。
「小泉再登板待望論」も一部で囁かれるが、小泉は再登板を完全に否定している。2007年9月12日に、安倍晋三首相(自民党総裁)が辞任を表明した際、ポスト安倍として小泉チルドレンから総裁選立候補の打診があったが、本人は「100%出馬しない」と出馬の可能性を否定。小泉自身は、「福田さんも小泉政権を支えてくれた人じゃないか」と福田康夫支持を表明したが、これが飯島秘書官に辞任を決意させたとも言われる(飯島は小泉在任中に福田としばしば対立し、2007年の総裁選でも小泉擁立に動いたとされる)。
2007年と2008年の8月15日(終戦記念日)の朝、2006年と同様に靖国神社を参拝した。
2007年9月、安倍晋三総理総裁が退陣を発表後、「福田さんも小泉政権を支えてくれた人」と福田康夫支持の意向を示した。また、2008年5月22日には、東京都目黒区にて佐藤ゆかり応援演説を行った。
小泉純一郎の政界引退
麻生内閣が成立した翌日の2008年9月25日、地元支持者の会合において、次回の衆議院選挙に立候補せず、引退する意向を明らかにした。自らの私設秘書である次男の小泉進次郎を後継とする。
小泉純一郎の政治手法
小泉政権の手法については、マスコミ報道を利用した「劇場型政治」や「ワンフレーズポリティクス」などと評され、従来の自民党支持層とは異なる都市部無党派層・政治に関心がない層からも幅広い支持を集めた。小泉旋風は具体的な政策論議よりも小泉自身のキャラクターや話題性に依存する面が大きく、敵対勢力からはポピュリズム政治であるとの評価がしばしばなされる。
小泉純一郎の政権公約となった政策
小泉純一郎の靖国神社への8月15日(終戦の日)参拝
2001年の自民党総裁選で「私が首相になったら毎年8月15日に靖国神社をいかなる批判があろうと必ず参拝します」と公約。しかしながら、2001年から2005年までは国内外からの批判に配慮して8月15日以外の日に参拝していた。自民党総裁の任期が満了する2006年には8月15日に参拝した。本件については靖国神社問題の項を参照。
小泉純一郎の郵政民営化
2005年に政府が国会に提出した郵政民営化法案が衆議院において可決された後、参議院において否決されたため衆議院を解散した(郵政解散)。この解散は参議院の意義を否定するものとして一部では問題視されたが、解散により実施された衆議院選挙で自民党は、結果的に法案が参議院で否決された場合でも衆議院で再可決することにより成立させられる3分の2超の議席を与党自民党で確保した。選挙後の
