山本昌(やまもとまさ(「山本」と「昌」の間は区切らない)、1965年8月11日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(投手)。本名は山本 昌広(やまもと まさひろ)。
1984年に中日に入団。入団後2シーズンは一軍登板がなかったが、1988年に頭角を現し、以降ローテーション投手として活躍。40歳を過ぎた現在も円熟のピッチングで中日投手陣の一角を任っている。
プロ野球での登録名を「山本昌」にしている理由は、#登録名の事情を参照。
山本昌広の来歴
山本昌広の入団当初
1984年、日大藤沢高からドラフト5位で中日ドラゴンズに入団。山本本人は高校卒業後は日本大学に進学し社会科教諭を目指すつもりでいたが、スカウトの高木時夫の説得もあり入団を決意した。入団当時、野球解説者だった星野仙一は「背番号が34で左投げというから 金田2世 と期待してブルペンを見に行ったが、ただの大柄な男で、あまりに不恰好なモーションでコントロールもない。球も130km/h前後しか出ないからがっかりした」と語っている。以後山内一弘監督時代は一軍登板がなく、1986年のシーズン最終戦で登板したのみで、星野仙一監督が就任した1987年はルーキー・近藤真一の存在で登板機会に恵まれなかった。
このように扱いは悪く球団からは整理対象にされるほどだったが、結果的にこれが幸いする。まったく期待されずに派遣された1988年のアメリカ留学先で、ロサンゼルス・ドジャースのアイク生原よりスクリューボールを習い、素質が開花したのである。この時生原を仲介に、当時のドジャースの大エース、フェルナンド・バレンズエラ(背番号は山本と同じ34番)よりシンカー(スクリューボール)を教わったという伝説があるが、その後本人の話で違うことが発覚。参考:(ラジオ音声)山本昌本人にインタビューをしたタレント・伊集院光の回想。以下はこの音声の要約。
それによると、実際バレンズエラから教わりはしたが、あまりに高度な話で全く理解できなかったため、結局習得出来ず、1Aで不貞腐れていた(中日からそのシーズンは戦力外という扱い)という。しかし当時、たまたま居たメキシコ人の三塁手スパグニョーロ(控えの控えレベル、現在はピザ屋だと言われている)が、“遊び”で仲間とピッチングをしており、その選手がシンカーを投げていたのを見て、その選手から投げ方を教えてもらった後に自分も遊びで投げてみたところ、驚くほど球が曲がったそうである。 よく曲がるので、その日の試合でも使ってみたところ、決め球として通用。それ以後登板毎に使っていると、1Aのオールスターまで呼ばれるようになり、それを見た対戦相手の数球団のスカウトが評価、メジャーリーグのロースター入りを正式に打診された(ドジャースからは打診がなかった)。しかし山本昌のビデオを見た星野監督が、山本昌の成長ぶりに慌てて日本に呼び戻すこと(星野自身は「メジャーでもやらせてあげてもよかったが球団の意向で」という説も)を決定したため、ロースター入りはならなかった。当時投手が足りない状況だったこともあり先発の一角に加わると、直後に一軍で5連勝し、リーグ優勝に貢献した。その1988年の日本シリーズでは秘密兵器として第3戦の先発に抜擢され、工藤公康と投げ合い負け投手となるも、その後の活躍を予感させるものがあった。山本昌広の入団後の活躍
その後1993年、1994年に2年連続最多勝。この時代、今中慎二とともに左の二枚看板として1990年代の中日投手陣を支えた。特に1994年はシーズン19勝8敗で沢村賞を受賞している。しかしその生涯は、今中慎二、野口茂樹、川上憲伸といったエースの陰に常に隠れた二番手的投手だった(中学、高校時代も二番手投手だったらしい)。
1997年初の開幕投手を任され横浜相手に8回2/3を投げ自責点2で白星(ナゴヤドーム初の公式戦で、同球場で初めて勝利を記録した投手となる)。その年18勝で3年ぶり3度目の最多勝と初の最多奪三振。しかし中日は最下位と低迷した(ちなみに山本昌は2001年札幌ドーム初の公式戦でも巨人相手に先発している)。2000年代に入ってもローテーションの一角を守り続ける息の長い活躍を続けており、2008年現在での通算勝利数は中日歴代2位となっている。
2006年9月9日の広島戦で、新井貴浩(現阪神)から通算2,000奪三振を達成。
山本昌広の登録名の事情
1990年、中日に山本保司という選手が入団して山本姓が2人になったため、山本(昌)・山本(保)と書いて区別した。1995年オフに山本保司はロッテに移籍し、山本姓は1人だけになって区別する必要はなくなったが、「山本(昌)」になってから最多勝利などを獲得したことから本人は 昌 を取られることを拒否し、げんを担いで1996年より登録名を山本昌(姓と名は一続き)としている。
なお、後述のラジコンレースに出場する際の選手登録名は、本名の山本昌広名義で行っている。
山本昌広の史上最年長ノーヒットノーラン
2006年9月16日の対阪神戦(ナゴヤドーム)でプロ野球史上73人目(84回目)となるノーヒットノーランを達成。許したランナーは4回の三塁手森野の失策による1人のみの準完全試合(無四死球は史上2人目)。41歳1か月での達成はプロ野球最年長記録。また、左腕に限れば、世界記録である。ちなみにそれまでの記録は佐藤義則が1995年8月26日に記録した40歳11か月であった。中日投手では2002年の川上憲伸以来の10人目。ナゴヤドームにおいて初めて記録を達成した投手である。
2006年9月30日の阪神戦で40歳代としては若林忠志、村田兆治、工藤公康に次いで4人目となる2桁勝利を挙げた。また、同年10月15日の横浜戦では最近では珍しくリリーフで登板し、自身1997年以来9年ぶりでセ・リーグ最年長記録となるセーブを記録(41歳2か月)するなど、11勝7敗1Sの成績を残した。 なお、リリーフで登板したのは日本シリーズのための調整登板である。この日の試合は中田が先発し、川上が2番手、山本が3番手という形で1人3イニングずつ投げたが、これは日本シリーズへの調整登板として当初から中田、川上、山本の3人が3イニングずつ投げる事が予定されており、その順番を決めるためのジャンケンの結果から山本が最後になったためである。結果としては2番手の川上に勝利が、山本にセーブが付いた。
山本昌広の200勝への思わぬ足踏み
200勝へ残り9勝と迫っていた2007年、4月17日の阪神戦で完封勝利を挙げる。41歳と8ヶ月6日での完封勝利はセリーグ最年長記録。両リーグ通算でも若林忠志に次ぐ2位であった。しかし、史上80人目の500試合登板を達成した5月27日の日本ハム戦で打ち込まれ、以後登録と抹消を繰り返す。勝利に貢献できず中継ぎ降格も経験したが、4失点し浅尾拓也の勝ち星を消すなど乱調続きだった。8月終盤には数試合好投したこともあったが、9月25日の巨人戦で自らのエラーも重なり5失点KOされた。結局この試合後に二軍落ちしてシーズンを終え、成績は2勝10敗・防御率5.07。チームがリーグ優勝を逃す原因にもなった。同年の日本シリーズではチームが53年ぶりの日本一となり悲願は達成されたものの、自身の登板機会はなかった。この成績に、2008年1月を最後に200勝達成まで趣味のラジコンを一時的にやめた。[1]
山本昌広の200勝達成
2008年シーズンはかろうじて先発ローテーションに残り、4月2日の巨人戦での登板で投手としては大野豊の22年を抜き、野手を含めても衣笠祥雄の23年と並ぶセ・リーグ最長の実働年数(プロ野球最長はこの試合の前日に登板して達成された工藤公康の27年)となったが、この試合の2回途中で背中に張りを訴え、わずか14球で自ら降板となる。その後、次回登板に向けて調整を続けていたが同7日に自ら申し出て登録抹消となる。背中の張りは軽微なものとしているが、チェン、吉見ら若手の好調もあり、200勝に再び暗雲が立ち込める形となった。 しかし、5月7日の広島戦で6回を2安打無失点5三振に抑え2008年初勝利。特に1回は立ち上がりから3者連続三振を奪うなど、復調振りをアピールした。
その後、着実に勝ち星を積み重ね、8月4日、ナゴヤドームでの巨人戦で完投勝利。日本プロ野球史上24人目となる悲願の通算200勝を達成した。中日球団投手の200勝達成は杉下茂以来51年ぶり、42歳11ヶ月での200勝と完投は共に史上最年長記録。過去に200勝を達成した大投手は入団当初から活躍してきたことに比べ、3年目で初登板・5年目で初勝利と、最も遅咲きと言える。通算200勝は名球会への参加資格を満たすが、もし山本が名球会に参加すれば、これは中日ドラゴンズの投手として球団初のことである(杉下は昭和生まれではないため)。
山本昌広のプレイスタイル
グラブを突き上げ、背を一杯に伸ばしてから投げる独特の躍動感溢れる投球フォームは、シルエットで見ても判るほど印象に残りやすい。ストレートの最速は138-139km/h前後(30代前半までは132-133km/h前後で2006年、2008年には140km/hという球速も記録している)で、同い年の星野伸之・小宮山悟と共に「球の遅い一流投手」という稀有な存在である。
しかしストレートはそれほど球速が出ないことから単純に技巧派・コントロール派と位置づけられる訳ではない。テレビ番組 BS-i 超・人 にて山本昌は「自分は速球派だと思っている」と語っている。同番組内で調べたデータによると2006年度の全投球のうちストレートが45%を占めており、速球派のイメージが強い松坂大輔の46%と比べても速球中心で組み立てていることがわかる(同番組で技巧派の代表として比較されていた下柳剛はストレートが8%)。このことが長く現役を続ける一つの要因にもなっている。
同番組で山本のストレートの回転数を計測した結果、1秒間に52回転していることがわかった。通常の投手の1秒間の平均回転数が37回転、松坂大輔が41回転、驚異的な伸びのストレートを武器にする藤川球児が45回転であることから山本昌のそれは驚異的な数字であることがわかる。実際に2004年の日本シリーズで対戦した西武の選手が「山本昌のストレートはもっとも速く見えた」と言うように、高回転で初速からスピードが落ちない、いわゆる「伸びのあるストレート」であると言え、前述の通り年齢を重ねるごとに球威が衰えるどころか、更に増す傾向と合わせてストレートを多用できる理由となっている。これにはリリースポイントを打者寄りにすることにより実際の球速よりも速く感じさせ、リリース直前までボールの出所がわからないような投球フォームも功を奏している。
その他、キレのあるスクリューボールとスライダーにスローカーブ、速度に差をつけた投球術を武器にしている。
山本昌広の趣味
無類のラジコン好きである。セミプロのラジコンレーサー。その操縦技術やチューンアップの知識は趣味の域を超えて全国レベルと言われ、山崎武司とともに山々杯というラジコンの冠イベントを開催しているほど。これには山崎のほか愛弟子の野口茂樹などプロ野球選手も多数参加している。
しかし、2006年のオフシーズンは「いや、申し訳ないんだけど、もう10年も続けたでしょう。だから今年はひと区切りということでね」と山々杯を中止にしたが、これは嘘であり、オフの調整をするためだった模様。( Sports Graphic Number 内での発言)。
ラジコンを始めたきっかけは1995年に膝を痛めてリハビリを行っていた際、昼前にリハビリが終わり、ヒマつぶしに街に出た時、ラジコンショップでラジコンを見つけて「面白そうだ」と思い、始めたことによる。2002年には全日本選手権のEPツーリングカースポーツクラスで4位に入賞した。[2]
その他、地元名古屋で開催されるレースにはシーズン中(ただし、リーグ優勝が確定し、クライマックスシリーズ開催を待つ期間)でも積極的に参加を重ね、これまでに数々の優勝を経験している。なお、ラジコンを操作する時の構えは投球前の構えとほとんど同じである。その「本気」ぶりに、ファンの間では「ラジコンレーサー(および後述のカブトムシ・クワガタブリーダー)が本業で、野球は副業である」と冗談めかして語られる事もしばしばである。
カブトムシ集めも彼の趣味で、世界のカブトムシを集めて彼の息子と一緒に飼っている。近所の山へ早朝に出かけ、秘密のスポットでカブトムシやクワガタを獲ったりしているらしい。武田一浩曰く「こんなにデカイ体してカブトムシの話したら止まらないんだから」とのこと。また飼育する甲虫類が増えすぎた為にその一部を知人・友人に無償でプレゼントたことも。
しかし2007年シーズンが不本意な成績に終わったことなどから、飼っていた甲虫類を全て友人等に譲り、飼育をきっぱりやめたという(2008年5月9日付東京スポーツ記事による)。
あまり知られていないが漫画にも詳しく、ブックオフなどで絶版の漫画を探している。またゲームも相当好きであり、新作で面白いものがでれば、それをクリアする予定を基に、シーズンオフのスケジュールを組むほどの熱の入れっぷり。
日本史・中国史にも詳しく、秋田遠征時には記者と久保田城についての話で盛り上がったという。
他に、競馬好きでもある。上記より、とても多趣味なことが窺い知れる。
小田和正の大ファンであり、彼の名古屋公演ではシーズン中でもコンサート会場に姿を見せることは他のファンにも有名。
山本昌広のエピソード
1984年に入団時より背番号34である。ドラフト5位で高卒ながらいい番号(金田正一の永久欠番であることから、日本プロ野球では左投手のエースに与えられることが多い)であるが(しかも前任はエースの小松辰雄)、これは単に空番号をドラフト指名順に当てはめただけである。(1位藤王康晴:背番号1(後に0に変更)、2位仁村徹:背番号24(後に5に変更)、3位三浦将明:背番号26(後に60に変更)など)。その後活躍が認められ、球団からかつて松本幸行が付けていた中日左のエースナンバーとされている21への変更を打診されるが、「この番号が自分のプロ生活のすべてを知っているから変えたくない」と拒否した。今でもユニフォームに袖を通すときは、必ずユニフォームの背面に感謝しながら着るという。
対巨人戦では現役投手中最多の勝ち星を挙げており、新聞等では「巨人キラー」と呼ばれている。また阪神戦にも強く「虎キラー」とも称される。メディアからは巨人戦や阪神戦での強さばかりが取り上げられているが、実際は巨人・阪神戦以上にヤクルト戦や広島戦に強く、この2チームに対しては通算防御率、通算勝利数ともに巨人・阪神戦より良い数字を残している(実際広島キラーやヤクルトキラーと呼ばれたこともある)。しかし、本人は長年の結果だとして気にしていない様子。対して一番相性の悪いのは残る横浜であり、このカードは通算防御率、通算勝利数(こちらに関して言えば勝ち越してはいる)のいずれも対セ・リーグ5球団の中ではワースト。原因としては歴代打者に左投手を得意とする右打者が多かったことが挙げられる(波留敏夫やロバート・ローズ、進藤達哉、中根仁など)。
1998年4月までは満塁被弾、サヨナラ被弾ゼロを誇っていたが、横浜戦で満塁男駒田徳広に満塁被弾を浴び、その試合も12-1と大敗した。
日本シリーズでは、過去に4度(1988年、1999年、2004年、2006年)出場しているが勝ち星はなしで、通算成績も0勝4敗と苦手にしている。自身の最盛期にチームが低迷していて日本シリーズに登板できなかったこともあるが、そのため一部のファンからは「逆シリーズ男」と呼ばれている。彼がプロ入りした1984年から2006年までにセ・リーグ6球団で一度も日本一になっていないのは中日だけだったため、日本一への執着は同僚の立浪和義以上に強いらしく、「もし、日本一と(達成間近の)200勝のどちらか一つを選びなさいと神様に言われたら間違いなく日本一を選ぶ。日本一になれるのなら200勝達成の夢は捨ててもいい」と公言していた。その念願が叶ってか2007年チームは日本一に輝いたが、自身は不調で日本シリーズには登板することが出来ず、汚名返上とはならなかった。ちなみに200勝達成後、次の目標として挙げたものの一つは日本シリーズでの勝ち星であった。
息の長い投手というだけでなく、1993年(17勝5敗)、1994年(19勝8敗)、1997年(18勝7敗)と3度の最多勝投手に輝き、また1994年には沢村賞受賞、2006年にはノーヒットノーランを達成するなど、名実ともに昭和末期から平成期を代表する大投手である。特に1993年の最多勝は、チームメイトの今中慎二、横浜ベイスターズの野村弘樹と分け合っての受賞であったが、山本昌は8月31日に首位ヤクルトに1ゲーム差に迫る15勝目を挙げた直後、鎖骨骨折で1か月間チームを離脱している。この離脱がなかったら、山本昌自身の20勝、更にはドラゴンズは優勝していたのではないかといわれる。実際、この年ヤクルトとのマッチレースを展開したドラゴンズは、山本離脱後は今中が獅子奮迅の活躍を見せるも(その結果、今中が沢村賞を受賞)、最後はヤクルトに振り切られた。
40歳になってからは家族と共に東京に引っ越ししている。現在名古屋には単身赴任という形で暮らしている。これを引退後の準備と見る者も少なくない。また、テレビでも「僕はもうそんなに先が長くない」など引退を匂わせるような発言や先発ローテに入らなければ辞めるという発言などを多くしている。
引退の時期は全力で投げて133km/hが出なくなった時と既に決めている。
1965年度生まれのプロ野球選手たちと「昭和40年会」を組織している。また西本聖を師として仰いでおり、若手時代に西本が中日に移籍してきた当時、行動をともにしていた。
経験の長さを活かし、後輩の投手にはよく失敗談を語っているらしい。「救われた気分になるし参考になる」と絶賛する久本祐一など信望者も数多い。
2006年9月16日の対阪神戦(ナゴヤドーム)でノーヒットノーランを達成。許したランナーは4回の森野将彦の失策(サードゴロ)による1人のみだった。結果としてこの失策で完全試合の夢は潰えたことになったため、森野はひどく落胆していた。しかし、試合後のインタビューで山本は「あのプレーがあったからこそノーヒットノーランが達成できた」と発言し、後輩を気遣う山本昌の優しさを見せている。これは、バッターが俊足の赤星であり、エラーしないと内野安打になった可能性もあったためこの発言をしたともされる。
5歳下の実弟は日大藤沢高校野球部監督の山本秀明で2007年春のセンバツ甲子園大会に導いている。秀明は日本大学ではプロ入りした真中満・渡邉博幸と同期。渡邉とは日大藤沢高でも同級生。
古田敦也は、テレビ番組でコントロールの良い投手として、山本昌の名を上原浩治とともに挙げている。また大柄な体格であることから、ディズニーランドでジャンボ鶴田と間違えられサインを求められたエピソードを、テレビ番組で古田から暴露されている。
食事の量がかなり多いという話がよく出る。2004年に優勝した際、優勝を記念してインタビューを受けた際、オールスターゲームが開催された日に、出場していない選手で焼肉を食べに行った際に、前の席が落合監督で肉を焼いてもらい、監督の分の肉まで食べてしまったというエピソードを本人が話した。インタビュアーのアナウンサーからは「三冠王3回取った監督の肉全部食べたんですか!?」と言われた。
2008年の春季キャンプでは前年が不調だったこともあって2軍スタートとなったが、ベテランでも特別待遇を認めない落合監督の方針により、福田永将と宿舎のホテルで相部屋となった。山本は、「オレは相部屋でも子どもと一緒にいるようなもので気にならないけど、福田はかなり気を使っていたみたいだぞ」といい福田のことを気に掛けていた。
山本昌広の年度別投手成績
山本昌広のタイトル・表彰・記録
沢村賞:1回 - 1994年
最多勝利:3回 - 1993年、1994年、1997年
最優秀防御率:1回 - 1993年
最多奪三振:1回 - 1997年
ベストナイン:2回 - 1994年、1997年
最優秀バッテリー賞:1回 - 1993年(中村武志捕手と)
ノーヒットノーラン(日本最年長記録):1回 - 2006年9月16日、阪神タイガース戦(ナゴヤドーム)
セリーグ最年長セーブ - 41歳2ヶ月(2007年シーズン終了時)
セリーグ最年長完封勝利 - 41歳8ヶ月(2007年シーズン勝利時)
史上最年長完投勝利 - 42歳11ヵ月(2008年現在)
山本昌広のCM出演
アーレックス(2006年は同僚のアレックス・オチョア選手、2007年は同じく同僚の福留孝介選手、岩瀬仁紀選手とともに、同社のラジオCMに出演している)
◇出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)『山本昌広』より取得日:2008-08-06
山本昌広の関連サイト
- 山本昌広INTRODUCTION
登板ごとのコメント、Q&A、チームメートの紹介。 - 中日ドラゴンズ・山本昌広のページ
調子はいいほうではなかったのですが、谷繁君がうまくカーブを使わせてくれて、ストライクが先行したのがよかったですね。 - 山本昌 - Wikipedia
... 「山本」と「昌」の間は区切らない)、1965年8月11日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(投手)。 - Yahoo!プロ野球 - 中日 - 山本昌 プロフィール・総合成績
1965年8月11日. 身長/体重. 186cm/87kg. 満年齢. 43歳. 血液型. AB型. 出身地. 神奈川. 投打. 左左. プロ通算年. 25年. ドラフト年(順位) 1983年(5位) 経歴. 日大藤沢高-中日-1Aベロビーチ. 主な獲得タイトル - 法華経に支えられた人々 " 山本昌広(1965~ )
日蓮宗のかたち. 日蓮宗の活動. 世界へ. 伝える. 総合リンク集. 管長ご挨拶. 日蓮宗とは? ... 山本昌広(1965~ ) 山本昌広(1965 ... 中日ドラゴンズ背番号34、山本昌広投手である。 - 個人年度別成績 【山本昌(山本昌広) (中日ドラゴンズ)】
山本昌(山本 昌広) 34. 投手. 2008年7月29日(火) 現在. やまもとまさ(やまもと・まさひろ) 1965年8月11日生 身長186cm 体重87kg 左投 左打. 日大藤沢高. 1983年ドラフト5位. 年. 度. 所属球団. 登. 板 - 山本昌広とは - はてなダイアリー
山本昌広 - プロ野球選手、「山本昌」の本名。 - Masahiro Yamamoto's Blog
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山本 昌広(やまもと まさひろ)/プロ野球選手. 生年月日 :1965年8月11日. 出身地 :神奈川県. 出身校 :日大藤沢. 身 長 :186cm. 体 重 :87kg. 血液型 :AB. 投 打 :左左. 受賞歴. 最多 - アイクさんの為に ~山本 昌広
アイクさんの為に. クローズアップ 野球vol.26. 中日ドラゴンズ 山本 昌広. 話は開幕前夜にさかのぼる。














