| 本来の表記は「?川家康」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。 |
|
||||
| 時代 | 戦国時代から江戸時代前期 | |||
| 生誕 | 天文11年12月26日(1543年1月31日) | |||
| 死没 | 元和2年4月17日(1616年5月22日) 享年74歳(73歳没) |
|||
| 改名 | 松平元信→元康→家康→徳川家康 | |||
| 別名 | 竹千代(幼名)、次郎三郎(通称)、 羽柴武蔵大納言、狸爺(仇名)、 大御所(将軍引退後)、神君(死後) |
|||
| 神号 | 東照大権現 | |||
| 戒名 | 東照大権現安国院殿徳蓮社崇譽道和大居士 安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士 |
|||
| 墓所 | 日光東照宮、龍興山南宗寺 | |||
| 官位 | 従五位下、三河守、左京大夫、従五位上、 侍従、正五位下、従四位下、右近衛権少将 従四位上、正四位下、左近衛権中将 従三位、参議、権中納言、正三位、従二位、 権大納言、左近衛大将、左馬寮御監 正二位、内大臣、従一位、右大臣 征夷大将軍、太政大臣、贈正一位 |
|||
| 幕府 | 江戸幕府征夷大将軍 (在任1603年 - 1605年) |
|||
| 主君 | 今川義元→氏真→織田信長→豊臣秀吉 →秀頼 |
|||
| 氏族 | 松平氏→徳川氏、 自称・藤原氏→清和源氏(新田氏、得川氏、 世良田氏) |
|||
| 父母 | 父:松平広忠、母:於大 | |||
| 兄弟 | 異母弟:家元、内藤信成、忠政、樵臆恵最 異母妹:市場姫 異父弟:康元、康俊、康勝 |
|||
| 妻 | 正室:今川義元の姪・築山殿 継室:豊臣秀吉の妹・朝日姫 側室:養珠院、西郷局、茶阿局、英勝院、 雲光院、相応院、下山殿、長勝院、ほか |
|||
| 子 | 松平信康、亀姫(奥平信昌室)、結城秀康、 督姫(北条氏直室のち池田輝政継室)、秀忠、 松平忠吉、振姫(蒲生秀行のち浅野長晟室)、 武田信吉、松平忠輝、義直、頼宣、頼房、ほか |
|||
?川 家康(とくがわ いえやす)は、日本の戦国大名・江戸幕府の初代征夷大将軍。
本姓は藤原氏次いで源氏と名乗る。実は加茂氏、在原氏とも。家系は三河国の土豪 松平氏の男系男子・子孫。永禄9年12月29日(勅許を得て)徳川氏に改姓。徳川家の祖。通称は次郎三郎。幼名は竹千代。死の直前(武将としては史上4人目の)太政大臣に叙せられている。死後、江戸時代を通じて、御家人・旗本には「神君」、「東照宮」、一般には「権現(様)」と呼ばれていた。
※ 日付は、太陰暦による和暦。西暦の暦法は便宜上、ユリウス暦とする。
徳川家康の概要
小牧・長久手の戦いで10万の秀吉軍相手に互角以上の戦いをしたことから、当代一の軍略家の一人であり、関ヶ原の戦いでの相手への裏工作から、謀略にも長けている。江戸幕府・開府に始まる江戸時代は264年に渡って続き、日本に長き太平の世をもたらした。家康は「江戸幕府の始祖」として称えられ、今も日光東照宮をはじめ全国に東照大権現として祀られている。
徳川家康の略歴
徳川家の家紋戦国時代に三河国岡崎に生まれ、人質として忍従の日々を過ごすが、桶狭間の戦い以後、織田信長の盟友(事実上は臣下)として版図を広げ、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、その混乱に乗じさらに勢力を広げた。
豊臣秀吉との小牧・長久手の戦いを経て秀吉に従い、豊臣政権の五大老筆頭に列せられるが、秀吉の死後は関ヶ原の戦いで勝利し、征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府(江戸幕府・徳川幕府と呼ぶ)を開く。
家康の生誕地は、三河岡崎だが、生涯を通じて、静岡県(駿府、浜松)を本城あるいは生活の拠点としている期間が長く、尾張の織田信長の許に人質として過ごすなど、三河岡崎については、幼少期と桶狭間後10年と、意外にも短い。そのため、三河土着の松平(徳川)家歴代当主や三河譜代の家臣とは、違う広い見識を持っていた。そのため、晩年の家臣団には、本多正信、天海、大久保長安、茶屋四郎次郎、など外交・内政・謀略に長けた異能の人物が幕下に参集し、三河以来の武功派は活躍の場を失い徐々に遠ざけられました。
徳川家康の生涯
徳川家康の忍従の日々
三河国の土豪である松平氏第8代当主・松平広忠の長男(嫡男)として、天文11年(1542年)12月26日の寅の刻(午前四時ごろ)、岡崎城で生まれる。母は水野忠政の娘・於大(伝通院)で、幼名は竹千代(たけちよ)と称した。
2歳の時、嫡男・水野信元(於大の兄)が織田信秀についたため、今川方の庇護を受けていた父は泣く泣く於大を離縁。そのため家康は幼くして母と生き別れになった。
6歳の時、父・広忠は尾張国の織田信秀に対抗するため駿河の今川義元に帰属し、竹千代は今川義元のもとへ人質として駿河国府中へ送られる途中立ち寄った田原城城主で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張・織田信秀の元へ送られる。尾張では2年を過ごし信長とはここで知り合った。その間に父・広忠は死去し(岩松八弥に殺された、病死など、種々の説がある)、岡崎は義元の派遣した城代により支配された。
竹千代は今川方に捕えられた信秀の庶長子・織田信広との人質交換によって駿府へ移され、少将宮町という所に、家康を置いたと、東照宮御実紀に記載されている。駿府在住時の詳細の記述はなく、元服・結婚・祖先の墓参りのため三河国帰参、初陣と続く。
一方、元文時代に成立し、徳川吉宗に提出された家康の伝記である武徳編年集成では竹千代が住んでいたのは「宮カ崎」とされている。
三河岡崎城の墓参りのための帰参のエピソードで、岡崎城の本丸は今川の城代が置かれていたため、二の丸に入った。そこで、鳥居忠吉が、倉庫に兵糧米・金銭を備蓄し、義元が三河を横領し、松平勢が、今川の先鋒として多数討死、捨て石になってる事情を説明、家康は感涙したという。古老の御家人は、祖父清康君によく似ていると感嘆したという。
駿府の義元の下で元服し、義元から偏諱を賜り次郎三郎元信と名乗り、義元の姪・関口親永の娘・(通称築山殿)を娶る。名は後に祖父・松平清康の偏諱をもらって蔵人佐元康と改めている。永禄元年(1558年)には織田方に寝返った寺部城主鈴木日向守を松平重吉らとともに攻め、初陣。
徳川家康の清洲同盟から三河国平定へ
永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた際、今川本隊とは別働で、前線の大高城(尾張国)にあった元康は、大高城から撤退。今川軍が放棄した三河の岡崎城に入ると、祖父・清康の代で確立した三河支配権の回復を志し、今川家から自立する。西三河の諸城を攻略する。永禄5年(1562年)には、義元の後を継いだ今川氏真と断交し信長と同盟を結び(清洲同盟)、翌年には義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた。
その後、西三河を平定したかに見えた頃、三河一向一揆が勃発。家康は苦心の末に鎮圧に成功。岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進める。東三河の戸田氏や西郷氏といった諸豪を抱き込みながらも、軍勢を東へ進めて鵜殿氏のような敵対勢力を排除。三河への対応に遅れる今川氏とは宝飯郡を主戦場とした攻防戦を繰り広げると、永禄9年(1566年)までには東三河・奥三河(三河北部)を平定し、三河国を統一した。この年、朝廷から従五位下、三河守の叙任を受け、徳川に改姓した。この改姓に伴い新田氏系統の源氏であることも公認させた。
永禄11年(1568年)には今川氏真を駿府から追放した武田信玄と手を結ぶ。同年末からは、今川領であった遠江国に侵攻し、曳馬城を攻め落とす。遠江で越年したまま軍を退かずに、駿府から逃れてきた氏真を匿う掛川城を攻囲。籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江の大半を攻め獲った。元亀元年(1570年)、本城を岡崎から遠江国の曳馬に移し浜松城を築いた。
永禄11年(1568年)、信長が松永久秀らによって暗殺された室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛の途につくと、家康も信長へ援軍を派遣した。さらに後年、足利義昭は天下の実権をめぐり信長の間に対立を深め、反信長包囲網を形成した。このとき家康にも副将軍への就任を要請し、協力を求めた。しかし家康はこれを黙殺し、朝倉義景・浅井長政の連合軍との姉川の戦いに参戦し、信長を助けた。
徳川家康の武田家との戦い
家康は今川領分割に際して、武田信玄と大井川を境に東の駿河を武田領、西の遠江を徳川領とする協定を結んで友好関係を結んでいた。しかし領土拡大の野望に燃える信玄は一方的に協定を破棄し永禄11年(1569年)、重臣の秋山信友に一軍を預けて信濃から遠江に侵攻させた。これは徳川勢の抵抗、並びに北条氏康から牽制を受け失敗したが、これを契機に武田信玄と徳川家康は敵対関係となった。
元亀3年(1572年)10月3日、武田信玄は遂に上洛を開始し、まずは徳川領である遠江、三河に向けて侵攻を開始する。これに対して家康は盟友・織田信長に援軍を要請するが、織田軍も当時は浅井長政、朝倉義景、石山本願寺と抗争状態にあり、さらには美濃岩村城までを武田軍に攻撃され援軍を送ることができず、徳川勢は単独で武田勢と戦うこととなる。10月13日、2万2,000人の大軍を率いて伊那谷から遠江に侵攻してきた信玄本隊と戦うために、家康は天竜川を渡って見附にまで進出する。しかし信玄の巧妙な用兵、並びに兵力の差により大敗し、本多忠勝の奮戦により何とか浜松まで帰還した「一言坂の戦い」。
「三方原戦役像」三方原にて武田軍に敗れたあとに描かせた肖像画信玄本隊と同時に侵攻する武田軍別働隊が踏み荒らす三河方面への防備を固められないばかりか、この戦いを契機として武田・徳川の優劣は確定してしまう。そして12月19日には、浜松の北方を固める遠江の要衝であった二俣城が陥落する「二俣城の戦い」。そのような中でようやく織田方から援軍として佐久間信盛、平手汎秀率いる3,000人が送られてきた。12月20日、三河方面からの別働隊が合流した信玄の本隊は、天竜川の西岸を南下して浜松城下に近づいた。しかし長期戦を嫌う信玄は、浜松城を悠然と無視して、三河に侵攻するかの如く武田軍を転進させる。これに対して家康は信長の援将・佐久間信盛らが籠城戦を唱えるのに対して、断固として反対して武田軍を追撃。12月22日、徳川軍8,000人、織田軍3,000人で武田軍3万人に挑んだ「三方ヶ原の戦い(現在の静岡県浜松市内)」。だが、その結果、徳川方は鳥居忠広、成瀬正義、「二俣城の戦い」にて開城の恥辱を雪がんとした中根正照、青木貞治といった家臣をはじめ1,000人以上の死傷者を出し、織田方でも平手汎秀といった援軍の将が討ち獲られるなど徳川・織田連合軍は大惨敗を喫した。夏目吉信に代表される身代わりを何人も置き去りにして、命からがら浜松城に逃げ帰った家康自身も馬上で脱糞した、とさえ言われている。このとき、浜松城まで追撃された家康は妙計「空城の計」によって、それを怪しんだ武田信玄に城内侵攻を躊躇わせ、撤収を決断させたとされている。なお、この時の家康の苦渋に満ちた表情を写した肖像画(しかみ像)が残っており、自身の戒めのために描かせたと伝わる。
武田信玄は浜名湖北岸で越年して三河へ進軍。元亀4年(1573年)2月16日には三河東部の野田城を開城降伏させ、城主菅沼定盈の身柄を拘束した。ところがその後、信玄は発病。徳川軍を相手に勝ち続けていた武田軍は突如として西進を止めたばかりか、野田城から長篠城まで退き1ヶ月ほど沈黙する。そこで信玄の回復を待っていたが、容態は快方に進まないために西進作戦を断念、武田軍は甲斐へ帰還する。そして4月12日、武田信玄は帰還途中の信濃駒場で死去した。4ヶ月間、徳川領で戦勝を続けていた武田軍の突然の撤退は、家康に信玄死去の疑念を抱かせた。5月6日、その生死を確認するため家康は武田領である駿河の岡部に放火し、5月13日には長篠城を攻めるなどしている。そしてこれら一連の行動で武田軍の抵抗がほとんど無かったことから信玄の死去を確信した家康は、武田方に与していた奥三河の豪族で山家三方衆の一角である奥平貞能・貞昌親子らを調略し、徳川へ再属させた。奪回した長篠城には奥平勢を配し、武田軍の再侵攻に備えさせている。
天正2年(1574年)5月、武田信玄の後を継いだ武田勝頼が率いる2万5,000人の大軍に遠江高天神城を侵攻される。これに対して家康は単独で迎撃することができず、信長に援軍を要請したが、信長の援軍が到着する前に高天神城を奪われた。
天正3年(1575年)5月には、1万5,000人の大軍を率いる武田勝頼に三河長篠城を攻められる。これに対して長篠城主・奥平貞能・奥平貞昌親子は善戦し、援軍の到来まで耐え抜いた。そして、5月21日に行なわれた後詰決戦では、織田・徳川連合軍は武田軍に大勝した(長篠の戦い)。戦功の褒美として 奥平貞昌は(信長の偏諱を賜り)信昌と改名し、家康の長女・亀姫を貰い受け正室としている。
この戦いで武田軍は山県昌景、馬場信春を初め、多くの有力武将を失って壊滅し、徳川・武田の優劣は逆転した。同年、家康は信玄に奪われていた二俣城を奪還している。
天正7年(1579年)、正室・築山殿と長男・松平信康に武田勝頼への内通疑惑がかけられる。信長に対し抗弁の使者を立てるも、信長からの要求は、信康の切腹であった。家康は熟慮の末、信長との同盟関係維持を優先し、正室を殺害し、嫡男に切腹させた。この事件は信長が嫡男・織田信忠より優れた資質を持つ信康に危機感を覚えたためという説もあるが、近年では家康と信康が対立したためで、信長には了承を求めただけ(信康の正室が信長の娘であるため)、という説も強くなってきている。
天正9年(1581年)3月23日、家康は武田勝頼によって奪われていた高天神城を奪回する。
天正10年(1582年)2月1日、武田信玄の娘婿である木曽義昌が織田信長に寝返ってきたことにより、武田征伐が開始された。信長は嫡男・織田信忠を総大将にして木曽口から、金森長近を飛騨口から、北条氏直を関東口から、そして家康には駿河口からそれぞれ武田領に向かって侵攻させる。これに対して、すでに連年の戦争による財政難などで民心が離反していた武田軍には組織的な抵抗力が無く、木曽から攻め込んだ織田軍はあっという間に伊那城、松尾城を落とした。徳川軍も駿河に侵攻して蘆田信蕃(依田信蕃)の田中城を成瀬正一らの説得により大久保忠世が引き取り、さらには勝頼の姉婿である穴山信君を調略によって寝返らせるなどして駿河を占領する。これに対して勝頼にはもはや対抗する力は無く、最後は味方だったはずの小山田信茂にまで裏切られて、3月11日に勝頼は甲斐東部の天目山・田野において自害し、武田家は滅亡した。
家康はこの戦功により、信長から駿河一国を与えられている。
徳川家康の本能寺の変
天正10年(1582年)5月、駿河拝領の礼のため、降伏した穴山信君とともに信長の居城・安土城を訪れた。
6月2日、堺で遊覧中に京都で本能寺の変が起こった。このときの家康の供は小姓衆など少人数だったので、極めて危険な状態となり狼狽し信長の後を追おうとするほどであった。このとき、本多忠勝に説得され家康は服部半蔵の進言を受け伊賀越えを決行し、加太越を経て伊勢国から海路三河にかろうじて戻った(神君伊賀越え)。
その後、家康は明智光秀を討つために軍勢を集めて尾張にまで進軍したが、このとき中国から大返しした羽柴秀吉(豊臣秀吉)によって光秀が討たれたことを知った。
一方、信長の領土となっていた武田遺領の甲斐と信濃で一揆が起こった。さらに越後の上杉景勝、相模の北条氏直も侵攻の気配を見せたため、信濃の森長可と毛利秀頼は領地を捨てて逃亡し、上野の滝川一益は北条氏直と戦って惨敗し、尾張に撤退する。甲斐の領主・河尻秀隆に至っては、武田家の税法や慣習を認めず、一方で大規模な武田の残党狩りを行い、領民や旧武田浪人から恨みを買っていたため、信長の死を契機として一揆が発生し、攻め殺されてしまった(ただし家康が影で煽動したという説もある)。このため、甲斐・信濃・上野は領主のいない空白地帯となり、家康は武田遺臣の岡部正綱や依田信蕃、甲斐の辺境武士団である武川衆らを先鋒として甲斐に派遣し、自らも8,000の軍勢を率いて、甲斐に攻め入った(天正壬午の乱)。
一方、甲斐と信濃が空白地帯となったのを見た相模の北条氏直も、叔父・北条氏規や北条氏照ら5万5,000人の軍勢を率いて碓氷峠を越えて信濃に侵攻する。北条軍は越後から北信濃に侵攻していた上杉景勝軍と川中島で対峙した後に、北信4郡を上杉に割譲することで和睦し、南下する。次いで甲斐へ侵攻中だった徳川軍と甲斐新府城、若神子で対陣。ここに徳川軍と北条軍の全面対決の様相を呈したが、徳川方の依田信蕃の調略を受けて徳川方に寝返った真田昌幸らの執拗なゲリラ戦法の前に戦意を喪失した北条方は、板部岡江雪斎を使者として家康に和睦を求める。和睦の条件は、上野を北条が、甲斐・信濃を徳川がそれぞれ領有し、家康の次女・督姫が北条氏直に嫁ぐというものであった。こうして、家康は北条氏と縁戚・同盟関係を結び、同時に甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5カ国を領有する大大名へとのし上がったのである。
徳川家康の秀吉との戦い
信長死後の天正11年(1583年)、織田家筆頭家老であった柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破った羽柴秀吉が台頭する。これに不満を覚えた信長の次男・織田信雄は、家康と手を結んだ。そして徳川・織田連合軍は天正12年(1584年)3月、尾張小牧において羽柴軍と対峙する。このとき、羽柴軍の兵力は10万、徳川・織田連合軍は5万であった。家康は兵力的に不利であったが、秀吉が小牧に到着する前の3月17日、秀吉軍の武将・森長可率いる軍勢を酒井忠次に命じて撃破させた(羽黒の戦い)。
4月5日に秀吉率いる羽柴軍主力は犬山城に入り徳川軍と対峙したが、秀吉は家康の武略を恐れて動かず戦線は膠着状態に陥った。4月7日、秀吉方の武将・森長可とその岳父である池田恒興が「中入り」によって三河岡崎城を奇襲すべく、別動隊を率いて出陣する。しかし家康は別働隊の動きを捕捉し、逆に自ら羽柴別働隊に奇襲をかけて殲滅し、敵の総大将・羽柴秀次を敗走させ、恒興と長可、池田元助(恒興の嫡男)らを討ち取った(小牧・長久手の戦い)。
これを機に、秀吉は家康を正攻法で打ち破ることは困難と判断し、家康の味方である伊勢の織田信雄を攻めた。信雄軍には単独で羽柴軍と対抗できる力は無く、11月11日、秀吉と単独講和してしまった。家康は小牧・長久手の戦いの大義名分を「信長の遺児である信雄を助けて、秀吉を討つ」としていたため、信雄が秀吉と講和したことで名分を失った家康は撤退を余儀なくされた。そして12月12日、秀吉との講和として、次男の於義丸(のちの結城秀康)を秀吉の養子(人質)とすることで大坂に送った。
天正13年(1585年)に入ると、紀伊雑賀党や土佐の長宗我部元親、越中の佐々成政など、前年の小牧・長久手の戦いで家康に味方した勢力は、秀吉によってことごとく討伐された。このため秀吉との対立で不利になった家康は、相模の北条氏直との同盟関係を強化するため、上野の沼田領を割譲する約束を出した。ところが、沼田を支配していた信濃上田城主・真田昌幸はこれに応じず、家康から離反して越後の上杉景勝に寝返った。これに対して家康は、大久保忠世や鳥居元忠を大将とした1万の軍勢を真田攻めに派遣したが、昌幸の巧妙な戦術の前に大敗を喫し、さらに上杉の援軍が来たこともあって、撤兵を余儀なくされる。
また、この頃になると徳川家中は、酒井忠次・本多忠勝ら反秀吉の強硬派と、石川数正ら秀吉支持派の穏健派が対立し、分裂の危機にあった。そして11月13日、数正が徳川家から出奔して秀吉に寝返り、家康は窮地に陥ってゆく。この事件で徳川家の軍事機密が筒抜けになったことから、軍制を武田信玄を見習ったものに改革していく。
天正14年(1586年)4月23日、秀吉からの臣従要求を拒み続ける家康に対して、秀吉は妹の朝日姫を正室として差し出した。当時、家康には正室がいなかったためである。5月14日、家康と朝日姫は結婚するが、家康はなおも臣従しようとしなかった。しかし10月18日、秀吉が生母・大政所までも人質として岡崎城に送ってきたため、遂に家康は秀吉に臣従することを決意する。10月20日に岡崎を出立し、10月26日に大坂に到着、豊臣秀長邸に宿泊した。その夜には秀吉本人が家康に秘かに会いに来て、改めて臣従を求めた。こうして家康は完全に秀吉に屈することとなり、10月27日、大坂城にて秀吉に謁見し(諸大名の前で)秀吉に臣従する事を表明した。
徳川家康の豊臣家臣時代
天正14年(1586年)11月1日、家康は京都に赴き、11月5日に正三位に叙任される。11月11日には三河に帰還し、11月12日には大政所を秀吉のもとへ送り返している。12月4日、家康は居城を浜松城から駿府城へ移した。
天正15年(1587年)8月、家康は再び上洛し、8月8日に従二位、権大納言に叙任される。秀吉から羽柴姓も与えられた。その後、家康は後北条氏と縁戚関係にあった経緯から、氏政の弟で旧友の氏規を上京させるなど秀吉と氏直の仲介役も務めたが、氏直は秀吉に臣従することに応じず、天正18年(1590年)、秀吉による小田原征伐が始まる。家康も豊臣軍の一員として出陣し、ここに秀吉による天下統一が成った。なお、これに先立って天正17年(1589年)7月から翌年にかけて「五ヶ国総検地」と称せられる大規模な検地を断行する。これは想定される北条氏討伐に対する準備であると同時に軍事的に勝利を収めながらも最終的に屈服に追い込まれた対秀吉戦の教訓から領内の徹底した実情把握を目指したものである。この検地は直後の移封によってその成果を生かすことはなかったが、新領地の関東統治に生かされることになった。
その後、家康は秀吉の命令で、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国から、北条氏の旧領である武蔵・伊豆・相模・上野・下野・上総・下総の7カ国に移封された。これは150万石から250万石への加増であるが、徳川氏にとっては縁の深い三河の土地を失い、さらに当時の関東が北条氏の残党など、なおも不穏な動きがあったことを考えると、家康にとっては苦難であったと思われる。だが、家康はこの命令に従って関東に移り、江戸城を居城とした。
関東の統治に際して家康は有力な家臣を重要な支城に配置するとともに、100万石余といわれる直轄地には大久保長安や伊奈忠次、長谷川長綱、彦坂元正・向井正綱、成瀬正一・日下部定好ら、有能な家臣を代官などに抜擢することによって難なく統治され、関東は大きく発展を遂げることとなる。
【家康によって配された有力家臣たち】
上野国
箕輪(後に高崎) 12万石 井伊直政
館林 10万石 榊原康政
厩橋 3.3万石 平岩親吉
白井 3.3万石 本多康重(ただし、1.3万石は父広孝分とされる)
宮崎(小幡) 3万石 奥平信昌
藤岡 3万石 松平康貞
大胡 2万石 牧野康成
吉井 2万石 菅沼定利
総社 1.2万石 諏訪頼水(頼忠説もある)
那波 1万石 松平家乗
沼田 2.7万石 真田信幸
下野国
皆川 1万石 皆川広照
下総国
矢作 4万石 鳥居元忠
臼井 3万石 酒井家次
関宿 2万石 松平康元
古河 3.3万石 本多康重
山崎 1.2万石 岡部長盛(康綱説もある)
蘆戸(阿知戸) 1万石 木曾義昌
守谷 1万石 菅沼定政
多古 1万石 保科正光
佐倉 1万石 三浦義次(久能宗能説もある)
岩富 1万石 北条氏勝
武蔵国
岩付(岩槻) 2万石 高力清長
騎西(寄西) 2万石 松平康重
河越 1万石 酒井重忠
小室 1万石 伊奈忠次
松山 1万石 松平家広
忍 1万石 松平家忠
羽生 1万石 大久保忠隣(2万石とも)
深谷 1万石 松平康忠
東方 1万石 戸田康長
本庄 1万石 小笠原信嶺
阿保 1万石 菅沼定盈
八幡山 1万石 松平清宗
上総国
大多喜 10万石 本多忠勝
久留里 3万石 大須賀忠政
佐貫 2万石 内藤家長
鳴戸(成東) 2万石 石川康通
相模国
小田原 4.5万石 大久保忠世
甘縄 1万石 本多正信
伊豆国
韮山 1万石 内藤信成
文禄元年(1592年)より、秀吉の命により朝鮮出兵が開始されるが、家康は渡海することなく名護屋城に在陣することだけで許された。"常山紀談"には、本多正信が「殿は渡海なされますか」との問いに家康が「箱根を誰に守らせるのか」と答えたエピソードを残している。しかし実際に渡海せずに済んだのは、小田原攻めと奥州攻めでの先鋒を務めた為の優遇措置との見方もある。が、「際限りなき軍役」といって苦しんだ朝鮮出兵に徳川軍が渡海を免れたお蔭で、家康は兵力と財力の消耗を免れ、自国を固めることができた(小和田哲男 駿府の大御所 徳川家康 静新新書 2007年)。しかし、渡海しなかったのは家康だけが特別なのではなく、一部の例外を除くと東国大名は名護屋残留であった。
文禄4年(1595年)7月に「秀次事件」が発生。豊臣政権を揺るがす大事件を受けて、秀吉は諸大名に上洛を命じ、事態の沈静化を図った。家康も秀吉の命で上洛したが、これ以降家康は、開発途上の居城・江戸城よりも、伏見城に滞在する期間が長くなった。豊臣政権内に占める家康の比重が高まっていったのは明らかだが、家康自身も政権の中枢に身を置くことにより、中央政権の政治システムを直接学ぶ事になる(小和田哲男 駿府の大御所 徳川家康 静新新書 2007年)。
慶長3年(1598年)より秀吉が病に倒れると、秀吉は後継者である豊臣秀頼の体制を磐石にするため、7月に五大老・五奉行の制度を定め、五大老のひとりに家康を任命した。そして8月、秀吉は死去した。
徳川家康の覇権奪取にむけて
関ヶ原古戦場秀吉の死後、家康は「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という秀吉の遺言により専横の兆しを見せ始める。さらに秀吉の生前である文禄4年(1595年)8月に禁止されていた大名同士の婚儀なども行って、巧みに味方を増やし始めた。その婚儀の内容は次の通りである(ちなみに婚姻した娘は、全て家康の養女とした)。
伊達政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝。
松平康元(家康の甥)の娘と福島正之(福島正則の養子)。
蜂須賀至鎮(蜂須賀家政の世子)と小笠原秀政の娘。
水野忠重(家康の従兄弟)の娘と加藤清正。
保科正直の娘と黒田長政(黒田如水の嫡男)。
さらに家康は、細川忠興や島津義弘、増田長盛らの屋敷にも頻繁に訪問して、多数派工作を行なった。こうした政権運営をめぐって大老・前田利家や五奉行の石田三成らは憤激し、慶長4年(1599年)1月19日、家康に対して三中老の堀尾吉晴らを問罪使として派遣した。ところが家康は、吉晴らを恫喝して追い返したと言われている。しかし2月2日、家康は前田利家らと対立する不利を悟って、誓書を交わして和解した。しかし、閏3月3日に利家が病死すると、豊臣政権下で家康と互角に渡り合えるだけの勢力を持った人物はいなくなった。
利家が死去すると、福島正則や加藤清正らが石田三成を襲撃する事件が発生する。これは豊臣政権下における福島ら武断派と、石田ら文治派による対立が表面化したものである。家康は武断派諸将を慰撫してその支持を集めるとともに、三成を奉行職から解任して、佐和山城で蟄居させた。
9月7日、家康は大坂に入り、三成の大坂屋敷を宿所とした。9月9日に登城して豊臣秀頼に対し、重陽の節句における祝意を述べた。そしてそのまま大坂に居座って、政務を執り続けた。9月12日には三成の兄・石田正澄の大坂屋敷に移り、9月28日には大坂城西の丸に居座って、大坂で政務を執り続けた。
さらに家康はこの頃、豊臣政権下における諸大名の切り崩し工作も行なった。9月9日に登城した際、前田利長(前田利家の嫡男)・浅野長政・大野治長・土方雄久の4名が家康の暗殺計画を企んだとして、10月2日に長政を甲斐府中で隠居の上、蟄居させ、治長は
