捕鯨

捕鯨(ほげい)とは、クジラを捕獲することである。いわゆるイルカを対象とするものも含む。主に鯨肉や鯨油採取目的で行われていた。現在は国際捕鯨委員会 (IWC) 「加盟国」において管理対象の13種類の大型鯨類については日本・ノルウェー・アイスランドと「原住民生存捕鯨枠」によるアメリカ・ロシア・デンマークグリーンランド)の北極圏先住民族が継続している。国際捕鯨委員会「非加盟国」においては、管理対象種の捕鯨はフィリピン・インドネシアが継続しており、カナダ先住民の申請があった時に行っている。その他、国際捕鯨委員会の「管理対象外」の71種類のいわゆるイルカなどの比較的小型の鯨類については、各国の自主的な水産資源管理の範囲としていて、その詳細(捕鯨を行っている国や捕獲数量など)は把握されていない。

捕鯨用の銛

捕鯨の分類

国際捕鯨委員会(IWC)は、国際捕鯨取締条約 (ICRWThe International Convention for the Regulation of Whaling) 締約国大型捕鯨を三つに分けて表現している。

商業捕鯨 - 明確な定義は無いが、事実上2.と3.を除く全ての捕鯨。

調査捕鯨 - ICRW第8条に基づく締約国の特別許可による捕鯨。

原住民生存捕鯨 - ICRW附表第13項に基づくIWCの特別許可による捕鯨。

近代においては捕鯨方式により次のように分けられている。

母船式捕鯨 - 洋上での鯨の解体・加工能力のある船を使用して行う捕鯨。

沿岸捕鯨 - 陸上施設で解体・加工する捕鯨。基地式捕鯨

さらに、「大型捕鯨」と「小型捕鯨」の分類があるが、これには若干異なった三つの定義が存在する。

第一の定義としてIWCで用いられる業態分類があり、要求される操業記録などに異なった規律が敷かれている。

大型捕鯨 - 積極的な定義は無い。

小型捕鯨("small-type whaling")- 動力船捕鯨砲を用いて、ミンククジラトックリクジラアカボウクジラゴンドウクジラシャチを専門的に捕獲する捕鯨(ICRW付表第1条C項)。

第二の定義として捕獲の対象がIWC管理鯨種大型鯨)かによる区別がある。ここでの「大型鯨」と「小型鯨」は法的な定義であり、おおむねクジラの体格とも一致するが、「大型鯨」のミンククジラより大きなツチクジラは「小型鯨」に分類されるなど例外もある。

大型捕鯨 - IWC管理鯨種を対象とした捕鯨。具体的には全てのヒゲクジラ類、マッコウクジラキタトックリクジラ及びミナミトックリクジラのいずれか1つ以上を対象とする捕鯨。

小型捕鯨 - 1.以外のクジライルカを含む)を対象とする捕鯨。

第三の定義として日本の漁業法にもとづく分類としての「大型捕鯨業」と「小型捕鯨業」があり、これは「母船式捕鯨業」を加えた3分類となる。使用する捕鯨船の大きさや捕鯨砲の口径(小型は50mm以下)などに異なった規律がある。

大型捕鯨業 - 動力漁船により捕鯨砲(もりづつ)を使用してミンククジラ以外のヒゲクジラ又はマッコウクジラをとる漁業で母船式捕鯨業以外のもの。

小型捕鯨業 - 動力漁船により捕鯨砲を使用してミンククジラ又はマッコウクジラ以外のハクジラをとる漁業で母船式捕鯨業以外のもの。

母船式捕鯨業 - 処理設備のある母船などと捕鯨砲を使用して鯨をとる漁業。

捕鯨の捕鯨の歴史

この項では世界各地および日本における、古代から商業捕鯨モラトリアムに至るまでの捕鯨史について記述する。

捕鯨の世界における捕鯨史

捕鯨の先史時代

ノルウェーにおいては紀元前3000年以降と見られるイルカまたは鯨を描いた洞窟壁画が発見されている。このうち鯨はいずれも小型のハクジラ類であるとみられ、周期的にフィヨルド内へと回遊していた個体を捕獲していたと考えられている。

朝鮮半島南東部慶尚南道において鯨を描いた洞窟壁画が存在する。これらの岩壁画は青銅時代から鉄器時代にかけてのものと見られ、金属器を用いて比較的大型の鯨を捕獲していたとされる。

捕鯨のバスク人による捕鯨

16世紀の捕鯨 18世紀グリーンランドにおける捕鯨 18世紀オランダ船によるホッキョククジラの捕鯨
後方の島はヤンマイエン

イベリア半島北岸ビスケー湾に居住するバスク人による捕鯨は、一般的に11世紀頃ノルマン人から伝習されたのが起源であるとされている。文献としては11世紀からバスク人が独占的に捕鯨を行っていたことが分かっており、舌が貴族層嗜好品として、鯨肉は沿岸住民の食用に饗されていた。13世紀に入ると、バスク人による捕鯨業はさらに発展拡大した。当初は日本での例と同様に、北方へと回遊する鯨を漁獲していたが、漁場はビスケー湾だけでなく大西洋にもおよび、大西洋北部ニューファンドランド島やラブラドル沖における漁場を開発するなど、1560年代にはその最盛期を迎えた。鉄に次ぐバスク第二の輸出品として、鯨油を中心とした各部位ヨーロッパ全域へと販売された。バスク人に対して国王から独占権を与えられる代償として、種々の課税も設けられた。

この頃のヨーロッパにおいては鯨油は主に灯火用として用いられていた。この他にはヒゲが甲冑、帽子、コルセットの骨などの装飾品に利用されている。1570年代には50隻余りの捕鯨船北大西洋で活動し、捕鯨業に関わる人々は4000人にものぼったと推定されている。鯨の群れが発見されない場合の経済的リスクが大きかった為、バスクでは捕鯨船の船主、艤装と販売を担当する商人、船長および乗組員の三者でコストと利益を三等分する仕組みが取られていた。さらに一航海ごとに保険が掛けられており、その保険率は15%程度に定められていた。

この後三十年ほどの間にバスクでの捕鯨は激減してしまう。この原因は鯨の減少、ユグノー戦争や八十年戦争の影響の他に、捕鯨業がさらに大規模化したために資本の薄いバスクが不利と成ったことなどが挙げられる。以後、バスク人は他国の捕鯨船に船員として乗船する形態になっていった。

捕鯨の北大西洋における捕鯨

1590年代にオランダウィレム・バレンツ北東航路の開拓を目指し、北極海への探検航海を繰り返した。彼はこの過程でスピッツベルゲン島を発見し、その付近に大型のホッキョククジラが生息していることを確認した。北東航路開拓そのものはその後イングランド探検家によって不可能であることが明らかとされたが、理想的な捕鯨場を発見したオランダおよびイングランド捕鯨船団スピッツベルゲンへと向かった。イングランド船団を運営するロンドンモスクワ会社はジェームズ1世から特許状を獲得し、バスクの熟練乗組員を用意、大砲20門あまりを装備した私掠船たる捕鯨船を急行させ、公海における漁の自由を訴えるオランダ船から、特許状を掲げて獲物を回収した。オランダ船もバスク人を雇い入れ捕鯨船武装化し、スピッツベルゲン島周辺におけるイングランドオランダの争いは武装捕鯨船同士の争いから軍艦の出動にまで発展したが、1618年になり島の分割とその沿岸海域での捕鯨独占権を相互に承認することが定められた。1630年代後半になると、早くもスピッツベルゲン付近ホッキョククジラが枯渇し始め、捕鯨船団グリーンランド西部デイディス海峡からノルウェー沖に至る北大西洋クジラの姿を求めて彷徨った。波の高い外洋を乗り切るため、捕鯨船大型化、補強され、捕殺したクジラは船の脇で解体されて脂皮が樽詰めされた。1650年頃以降に出船数ピークに達し、毎年250?300隻の捕鯨船が出漁して1500?2000頭のホッキョククジラを捕獲していたと見られる。

1680年代になると、一時的にオランダの優位が確立した。オランダ捕鯨会社ヨーロッパ鯨油市場を独占し、その利益はアジアとの香辛料取引を上回るまでになった。スピッツベルゲンに設けられた捕鯨基地スミーレンブルクの漁期には、港が鯨で埋め尽くされ、数千人の労働者が昼夜製油作業に従事していた。18世紀後半に捕鯨を再開したイギリスそしてアメリカ捕鯨船も加わり、20世紀に入ると大西洋におけるセミクジラホッキョククジラはほぼ姿を消した。世界の海上覇権を握っていたイギリス捕鯨船太平洋へも進出し、バフィン島付近において新たな捕鯨場を発見することになる。

捕鯨のアメリカ式捕鯨

北米大陸東岸では17世紀中頃マッコウクジラから良質の鯨油が採れることがわかり、セミクジラと並びこれを捕獲対象とした捕鯨が開始される。北米でも当初は沿岸捕鯨から始まったが、資源の枯渇から18世紀には大型の帆走捕鯨船を本船としたアメリカ式捕鯨へと移行する。この捕鯨は主に油を採取し肉等は殆ど捨てるという商業捕鯨であり、日本の様にクジラ全てを用いるものではない。操業海域太平洋が中心となり、新たな資源を求めて太平洋全域へ活動を拡大していった。北ではベーリング海峡を抜けて北極海にまで進出してホッキョククジラを捕獲し、南ではオーストラリア大陸周辺南大西洋サウス・ジョージア諸島まで活動した。日本周辺にも1820年代に到達し、極めて資源豊富な漁場であるとして多数の捕鯨船が集まった。操業海域の拡大にあわせて捕鯨船排水量300トン以上に大型化し、大型のカッタークジラを追い込み、銛で捕獲し、船上に据えた炉と釜で皮などを煮て採油し、採油した油は船内で制作した樽に保存し、薪水を出先で補給しながら(このような事情が日米和親条約締結へのアメリカの最初の動機であった)、母港帰港まで最長4年以上の航海を続けるようになった。捕獲用器具としては手投げ式の銛に加え、1840年代に炸薬付の銛を発射するボムランス銃 (Bomb Lance Gunボンブランスとも)と呼ばれる捕鯨銃が開発された。捕獲対象種にはコククジラセミクジラザトウクジラも加わり、鯨油と鯨ひげの需要に応じて捕獲対象種の重点が決定された。19世紀中頃には最盛期を迎え、イギリス船などもあわせ太平洋で操業する捕鯨船の数は500?700隻に達し、アメリカ船だけでマッコウクジラセミクジラ各5千頭、イギリス船などを合わせるとマッコウクジラ7千?1万頭を1年に捕獲していた。南大西洋ではアザラシ猟も副業として行い、アフリカから奴隷を運んではアザラシ猟に従事させ、その間に捕鯨をしていた。捕鯨船の母港となったナンタケットニュー・ベッドフォードは大いに繁栄した。メルヴィル 白鯨 は、この時期の捕鯨を描いたものである。

太平洋においても大西洋の場合と同様に資源の減少が起きた。カリフォルニア州沿岸コククジラは激減し、マッコウクジラセミクジラも大きく減少した。アメリカ式捕鯨による西太平洋でのセミクジラ資源減少は、日本の古式捕鯨の衰退にも影響したとの見方がある。

こうした資源枯渇に加え、ペンシルヴァニア州での油田発見による灯火用鯨油需要減少や、北米西部でのゴールドラッシュに捕鯨労働者の多くが転向したことにより、アメリカにおける捕鯨は衰退に向かった。


参考文献

地学雑誌 Journal of Geography 114(4) p.561-p.578  大崎晃 19世紀アメリカ捕鯨航海誌 ニューイングランドにおける捕鯨マニュファクチャの考察

捕鯨のノルウェー式捕鯨

セミクジラなどの資源が各地で枯渇したのに対し、遊泳速度が速く捕獲が困難なうえ死亡すると水に沈んでしまうナガスクジラ科の鯨類は資源が豊富に残っていた。そこで、これらを捕獲するために、1864年にノルウェースベンド・フォインが開発したのが、ロープ付の銛を発射できる捕鯨砲動力付捕鯨船を使用するノルウェー式捕鯨である。最初にノルウェー沿岸で行われて成果を挙げた後、アイスランドフェロー諸島でも使われ、最終的には全世界へと広まった。20世紀初頭に鯨油の硬化技術が開発されると、石鹸やマーガリン原料として鯨油需要が拡大し、捕鯨も再び栄えるようになった。ノルウェー人の捕鯨船員は各国の捕鯨船乗組員として広く採用され、1920年代後半までは多くの捕鯨国で欠かせない存在であった。

1903年には近代的な採油設備を搭載した捕鯨母船捕鯨工船)が実用化された。これにより、基地設備の無い場所でも捕鯨を行うことが可能となった。

遊泳速度の比較的遅いザトウクジラを皮切りに、シロナガスクジラなどナガスクジラ科の鯨類も次々と捕獲され、急激に資源が減少していった。

捕鯨の南極海における捕鯨

資源枯渇に対し、再び操業海域変更による産業継続が図られ、大西洋を南下した捕鯨船サウス・ジョージア諸島サウス・シェトランド諸島に基地を設けて活動した。20世紀初頭には、これらの島を拠点に、手付かずに近かった南極海での本格的な捕鯨が始まった。まず、ノルウェーが操業をはじめ、すぐにイギリスが続いた。1923年にはロス海にノルウェー船団が進出した。イギリス南極周辺領有権を主張しノルウェー捕鯨船の排除を試みたが、ノルウェーは洋上で鯨を収容して解体できるスリップウェー付の捕鯨母船を1925年に投入し、公海上での捕鯨で対抗した。この新型捕鯨母船はイギリスも採用するところとなり、1930年には両国あわせて40隻近い母船と200隻以上の捕鯨船南極海に出漁させた。ノルウェーイギリス以外の国も南極海での捕鯨に関心を抱き、1934年に日本、1936年にドイツ捕鯨船団を出漁させた(パナマアメリカ便宜置籍船)。

南極海は他の漁場に比べて資源量が大きかったが、それでも乱獲により資源減少は生じた。ザトウクジラが最初の捕獲対象となり、1910/1911年期には8000頭以上が捕獲されたが、1918年には200頭以下に激減してしまった。以後は、シロナガスクジラが主たる捕獲対象となり、頂点となった1930年には3万頭近くが捕獲された。その後、シロナガスクジラは減少してしまい、1930年代後半にはナガスクジラが頭数の上では中心となった。

第二次世界大戦による2年間の中断後、1943年にはノルウェーが操業を再開した。イギリスと日本も捕鯨船団の再建を行い、1946年には新たにオランダとソ連、南アフリカも加わった。以後、1960年頃まで母船数は約20隻で、鯨油約40万トンが生産される状況が続いた。捕獲対象シロナガスクジラの減少が止まらず完全にナガスクジラが中心となり、ナガスクジラは約2万8千頭の捕獲が続いた。南極海通常型シロナガスクジラはついに1963年に禁漁となった。ナガスクジラも1963年以降に捕獲が激減し、代わってイワシクジラが捕獲されるようになった。

捕鯨の日本における捕鯨史

日本の捕鯨{鯨漁(くじらりょう)、古くは勇魚取(いさなとり)や鯨突(くじらつき)という}は、初期捕鯨時代(突き取り式捕鯨・追い込み式捕鯨・受動的捕鯨)、網取式捕鯨時代、砲殺式捕鯨時代の3期に分けることができる。また突き取り式捕鯨・追い込み式捕鯨・受動的捕鯨においては日本各地で近年まで行われていた。この内、追い込み式捕鯨イルカ漁など比較的小型の鯨類において現在も継続している地域もある。

捕鯨の先史捕鯨時代

日本における捕鯨の歴史は、縄文時代までさかのぼる。約8000年前の縄文前期の遺跡とされる千葉県館山市稲原貝塚においてイルカの骨に刺さった黒曜石の、?(やす、?とも表記)先の石器が出土していることや、富山湾に面した石川県真脇遺跡で大量に出土したイルカ骨の研究によって、積極的捕獲があったことが証明されている。縄文時代中期に作られた土器の底には、鯨の脊椎骨圧迫跡が存在する例が多数あり、これは脊椎骨回転台として利用していたと見られている。

弥生時代の捕鯨については、長崎県壱岐市の原の辻(はるのつじ)遺跡から出土した弥生時代中期の甕棺に捕鯨図らしき線刻のあるものが発見されており、韓国盤亀台岩刻画にみられる先史時代捕鯨図との類似性もあることから、日本でも弥生時代に捕鯨が行われていた可能性が高いと考えられるようになった。長崎県松浦郡における弥生時代後期の原ノ辻遺跡においては、鯨の骨を用いた紡錘車や矢尻などが出土しており、さらに銛を打ち込まれた鯨と見られる線画が描かれた壷が発見された。もっとも、大型のクジラについては、入り江に迷い込んだ個体を舟で浜辺へと追い込むか、海岸に流れ着いた鯨を解体していたと見られている。

北海道においても、イルカなどの小型のハクジラ類の骨が大量に出土している。6世紀から10世紀にかけて北海道東部からオホーツク海を中心に栄えたオホーツク文化圏でも捕鯨が行われていた。根室市で発見された鳥骨製の針入れには、舟から綱付きの離頭銛を鯨に打ち込む捕鯨の様子が描かれている。オホーツク文化における捕鯨は毎年鯨の回遊時期に組織的に行われていたと見られ、その影響を色濃く受けたアイヌの捕鯨は明治期に至るまで断続的に行われていたとされる。アイヌからの聞き取りによると、トリカブトから採取した毒を塗った銛を用いて南から北へと回遊する鯨を狙うという。鯨を捕らえることは数年に一度もないほどの稀な出来事であり、共同体全体で祭事が行われていたという。

捕鯨の初期捕鯨時代

奈良時代に編纂された万葉集においては、鯨は「いさな」または「いさ」と呼称されており、捕鯨を意味する「いさなとり」は海や海辺にかかる枕詞として用いられている。11世紀の文献に、後の醍醐組房総半島捕鯨組)の祖先が851年頃に「王魚」を捕らえていたとする記録もあり、捕鯨のことであろうと推測されている。

鎌倉時代の鎌倉由比浜付近では、生活史蹟から、食料の残存物とみられる鯨やイルカの骨が出土している。同時代の日蓮の書状には、房総で取れた鯨類の加工処理がなされているという記述があり、また房総地方生活具にも鯨の骨を原材料とした物の頻度が増えていることから、この頃には房総に捕鯨が発達していたことや産物が鎌倉地方へ流通していたことが推定されている。

海上において大型の鯨を捕獲する積極的捕鯨が始まった時期についてははっきりとしていないが、少なくとも12世紀には湾の入り口を網で塞いで鯨を捕獲する追い込み漁が行われていた(かつては弓矢を利用した捕鯨が行われていたとする見解があったが、現在では否定されている)。

捕鯨の突き取り式捕鯨時代

突き取り式とは銛、ヤス、矛(槍)などを使って突いて取る方法であり、縄文時代から離頭式銛などで比較的大きな魚(小型のクジラ類を含む)を捕獲していた。また遺跡などの壁画や土器に描かれた図から縄文や弥生時代に大型のクジラに対し突き取り式捕鯨を行っていたとする説もある。

1764年(明和元年)に著された 鯨記 によれば、大型のクジラに対しての突き取り式捕鯨(銛ではなく矛であった)が最初に行われたの1570年頃の三河国であり6?8艘の船団で行われていたとされる。15世紀になると鯨肉を料理へ利用した例が文献に見られる。それらの例としては、1561年に三好義長が邸宅において足利義輝鯨料理を用意したとする文献が残されている。この他には1591年に土佐国長宗我部元親豊臣秀吉に対して鯨一頭を献上したとの記述がある。これらはいずれも冬から春にかけてのことであったことから、この時季に日本列島沿いに北上する鯨を獲物とする常習的な捕鯨が開始されていたと見られる。三浦浄心が1614年(慶長15年)に著したとされる 慶長見聞集 において「関東海にて鯨つく事」という一文があり文禄期(1592?1596年)に尾張地方から鯨の突き取り漁が伝わり、三浦地方で行われていたことが記述されている。

戦国時代末期にはいると、捕鯨用の銛が利用されるようになる。捕鯨業を開始したのは伊勢湾熊野水軍を始めとする各地の水軍・海賊出身者たちであった。紀州熊野太地浦における鯨組の元締であった和田忠兵衛頼元は、1606年(慶長11年)に捕鯨用の銛を使った突き取り法よる組織捕鯨(鯨組)を確立し突組と呼称された。これらの捕鯨技術三陸海岸安房沖遠州灘土佐湾相模国三浦そして長州から九州北部にかけての西海地方などにも伝えられている。

1675年に網取り式捕鯨が開発された後も突き取り式捕鯨を継続した地域(現在の千葉県勝浦など)もあり、また明治以降にも捕鯨を生業にしない漁業地において大型のクジラなどを突き取り式で捕獲した記録も残っている。

捕鯨の網取り式捕鯨時代

1675年(延宝3年)には、同じく太地の和田角右衛門頼治太地角右エ門)が、あらかじめ設置した網の中に勢子船を用いて鯨を追い込み、銛で捕獲する網取り式を考案した。さらに同時期には捕獲した鯨の両端に舟を挟む持双と称される鯨の輸送法も編み出され、これにより捕鯨の効率と安全性は飛躍的に向上した。抵抗が激しく危険な親子鯨は捕らないという不文律があったが、組織捕鯨地域住民を含め莫大な経費のかかる産業であったため不漁のときは切迫し捕獲することもあった。「漁師達は非常に後悔した」という記述も残っており、道徳的な意味でも親子鯨の捕獲は避けられていた。もっとも、子鯨を死なない程度に傷つけることで親鯨を足止めし、まとめて捕獲する方法を「定法」として積極的に行っていたとの記録もある。当初は遊泳速度の遅いセミクジラコククジラなどを穫っていたが、後にはマッコウクジラザトウクジラなども対象となった。これらの技術的な発展により、紀州では太地浦古座浦三輪崎浦を中心として、紀州藩直営の捕鯨事業が繁栄することになった。

土佐の安芸郡津呂浦においては多田五郎右衛門によって1624年(寛永元年)には突き取り式捕鯨が開始されていたが、その子孫らが紀州太地へと赴き1683年(天和3年)に和田角右衛門頼治から網取り式捕鯨を習得している。西海地方においても同様に17世紀に紀州へと人を向かわせ、新技術を習得させている。この網取り式の広まりにより、捕獲容易コククジラなどの資源が減少した後も、対象種を拡大することで捕鯨業を存続することができたとも言われる。

古式捕鯨蒔絵 、太地


捕鯨の江戸時代の捕鯨産業

鯨の多様な用途 江戸時代の鯨は鯨油を灯火用の燃料に、その肉を食用とする他に、骨やヒゲは手工芸品の材料として用いられていた。1670年(寛文10年)に筑前で鯨油を使った害虫駆除法が発見されると、鯨油は除虫材としても用いられるようになった。天保三年に刊行された 鯨肉調味方 からは、ありとあらゆる部位が食用として用いられていたことが分かる。鯨肉と軟骨は食用に、ヒゲと歯は笄(こうがい)や櫛などの手工芸品に、毛は綱に、皮は膠に、血は薬に、脂肪は鯨油に、採油後の骨は砕いて肥料に、マッコウクジラの腸内でできる凝固物竜涎香として香料に用いられた。 組織捕鯨と産業 江戸時代における捕鯨の多くはそれぞれの藩による直営事業として行われていた。鯨組から漁師たちには、「扶持」あるいは「知行」と称して報酬が与えられるなど武士階級給金制度に類似した特殊な産業構造が形成されていた。捕獲後の解体作業には周辺漁民多数が参加して利益を得ており、周辺漁民にとっては冬期の重要な生活手段であった。捕鯨規模の一例として、西海捕鯨における最大の捕鯨基地であった平戸藩月島の益富組においては、全盛期に200隻余りの船と3000人ほどの加子を用い、享保から幕末にかけての130年間における漁獲量は2万1700頭にも及んでいる。また文政期高野長英シーボルトへと提出した書類によると、西海全体では年間300頭あまりを捕獲し、一頭あたりの利益は4千両にもなるとしている。江戸時代の捕鯨対象セミクジラ類やマッコウクジラ類を中心としており、19世紀前半から中期にかけて最盛期を迎えたが、従来の漁場を回遊する鯨の頭数が減少したため、次第に下火になっていった。また、鯨組は膨大な人員を要したため、組織の維持・更新に困難が伴ったことも衰退に影響していると言われる。 捕鯨を生業としない地域の紛争 鯨組などによって組織捕鯨産業化されたため流通、用途、消費形態などが確立された事から以前より一層、鯨の価値が高まった。島しょ部性(面積あたりの海岸線延長の比率)の高い日本において捕鯨を行っていない海浜地区でも湾や浦に迷い込んだ鯨を追い込み漁による捕獲や、寄り鯨や流れ鯨による受動的捕鯨が多く発生する為、鯨が齎(もたら)す多大な恩恵から地域間の所有や役割分担による報酬をめぐって度々紛争なった。これを危惧した江戸幕府は「鯨定」という取り決めを作り、必ず奉行所などで役人の検分を受けた後、分配や払い下げを鯨定の取り決めにより行った。

捕鯨の砲殺式捕鯨時代

江戸時代末期、ペリー来航を期として開国すると、海軍養成の目的も兼ねて西洋式の新たな捕鯨法に関心が集まるようになった。難破した漁船からアメリカ捕鯨船に救助された中浜万次郎は、1863年に幕府の命令によってアメリカ式捕鯨法を試験的に試みている。この他にも福岡藩山口藩仙台藩などの地域においてアメリカ式捕鯨法が行われたが、いずれも知識や道具の不足によって失敗している。

明治時代に入ると、従来の網取法アメリカ式捕鯨において用いる捕鯨銃を組み合わせた漁法が行われるようになった。この際に用いられた捕鯨銃は1840年代にアメリカで開発されたボムランス銃 (Bomb Lance Gunボンブランスとも) と呼ばれる物で、銛に爆薬が仕込まれており、手持ち式または甲板に固定して用いられた。金華山漁業株式会社などが行ったといわれる。網取法との併用は明治時代末まで続いた。捕鯨銃は改良されながら太地のゴンドウクジラ捕鯨などで1950年代まで使用されている。

ボムランス式捕鯨銃

さらに、漁港周辺の漁場では資源が不足するようになったため、ノルウェー式捕鯨法による遠中距離の漁場における捕鯨が試みられるようになる。捕鯨砲を装備した捕鯨船によるこの漁法は、朝鮮近海において操業していたウラジオストックを基地とするロシア太平洋捕鯨会社の活動に影響を受けていた。明治30年前後には捕鯨基地港において捕鯨会社が相次いで設立され、鮎川のように従来は捕鯨が行われていなかった東北や北海道にも捕鯨会社が進出した。日本近海におけるロシアアメリカイギリス等の外国捕鯨船による捕鯨の活発化を懸念した明治政府も、1897年(明治30年)に遠洋漁業奨励法を発布し国内捕鯨近代化を後押ししている。

ノルウェー式捕鯨の導入にあたっては捕鯨用具の購入はもとより、砲手もノルウェー人を雇いれていた。乗組員には旧鯨組の漁師が多く含まれ、彼らの中から日本人の砲手も育成されていった。北九州などでは「山見」などの鯨組時代の組織がそのまま捕鯨会社に活用されていた。解体技術にも旧来の方式が引き継がれていた。

1908年(明治41年)に活動していた日本における捕鯨会社は12社28隻に達していた。政府は、日本近海における鯨の頭数を保護することが必要であると認識しており、過当競争防止の必要もあって1909年(明治42年)に鯨漁取締規則を発布し、全国の捕鯨船を30隻以下に制限している。