月亭可朝

月亭 可朝(つきてい かちょう、1938年(昭和13年)3月10日 - )は、神奈川県横浜市出身の上方噺家漫談家。本名・鈴木傑(すずき まさる)。月亭八方などを弟子、八光などを孫弟子にもつ。通称:「カチョヤン」・「ザビエル可朝」。公認候補者として所属した自由連合では政策審議会審議委員を務めた。

月亭可朝の人物

カンカン帽をトレードマークとし、ギターを使った漫談で売り出す。それをレコード化した一連のコミックソング(「歌笑曲」と称す)は大ヒットを記録。「ボインやでぇ」のフレーズは有名。

無類の賭事好きや破天荒私生活クローズアップされ、彼の名前が出ただけでも笑いを生む稀有な人物。定紋は月紋、または結び柏。出囃子は「ああそれなのに」、または「芸者ワルツ」。

風貌が「フランシスコ・ザビエル」に似ているため、1991年10月から1995年3月まで「ハイ! 可朝ですABC」(朝日放送)で自身初の帯ワイド番組のパーソナリティを務めていた時に「ザビエル可朝」と呼ばれていた。

2008年8月12日、ストーカー規制法違反容疑大阪府警淀川署に逮捕される。

月亭可朝の所属

デビューしてから長年所属事務所はよしもとクリエイティブ・エージェンシーであったが、現在はケーエープロダクションの所属となっている。

月亭可朝の経歴

3代目林家染丸に入門

1958年(昭和33年)4月 林家染奴の芸名で落語家としてデビュー。

1958年(昭和33年) 3代目桂米朝再入門し2代目桂小米朝と改名。

1968年(昭和43年)4月 月亭文都(幕末から明治にかけての落語家四天王の一人)ゆかりの亭号である月亭を復活させ、初代月亭可朝を襲名。

月亭可朝のエピソード

3代目染丸に師事したが、短期間で破門されている。これは師匠の愛人に手を出したためと言われているが、事実無根であり全くの誤解、濡れ衣である。

見かねた米朝が預かるつもりで声をかけたところ、勝手に自ら「桂小米朝」と改名し、正式に入門する。

なお丁度この頃、腹話術師をしていた斎田けんじ(のちの桂米紫)が米朝に弟子入りを志願し米朝の内諾を得て、落語家に転向すべく前の師匠の説得にかかっていた最中であった。このため後年両者のどちらが一番弟子となるのかで揉めに揉め、ようやく朝丸(現在の桂ざこば)が間に入り、年長者の米紫を一番弟子とする事で収拾した。

米紫の死後、名実共に米朝一門の筆頭弟子となるが、亭号や所属事務所の関係などが絡み現在も惣領弟子とはみなされていない。結局3番弟子の2代目桂枝雀惣領代行となるが、1999年に死去し、現在は4番弟子の2代目桂ざこばが事実上の惣領である。

なお、「桂小米朝」を名乗った理由は、字画が良かったからである。

小米朝時代、現在の小米朝である師匠の息子を平日午後に預かったとき、大阪・千日前の大劇アルバイトサロン(現在のキャバクラに似たような風俗業)に連れて行ったという。これは閑散期である平日日中に入場したため安く飲食できた事と、子供を連れてくる事でホステス達のウケも良く、また店より玩具を貰える(=玩具代が浮く)事がその理由。

米朝一門であるが、兄弟弟子の多くが米朝事務所に所属しているのに対し、長い間吉本興業に所属していた。

1967年頃、吉本興業の社長・林正之助は、自社の専属落語家の名前に「小」が付いているのが気に入らないと、改名を促した。小文枝(のちの5代目文枝)は他社に文枝と名乗る落語家がいない事や、まだ文枝という大名跡を継ぐ時期ではない事を理由に固辞。しかし小春団治小米朝は他社に春団治・米朝がいるため改名する事となり、折角ならば箔をつけようと小春団治は上方(京都)落語の祖といわれる露の五郎兵衛から「露の五郎」(2代目。現在の2代目露五郎兵衛)に、小米朝は長年途絶えていた桂派の由緒ある亭号「月亭」を復活させ月亭可朝(初代)にそれぞれ改名した。(改名には当初米朝が用意しいくつかの候補があったがすべて可朝が拒否し「○朝」のつく名がほしいといい挙句に「桂」や「笑福亭」等の上方落語の一般的な亭号も拒否した。)

全盛期松竹芸能にもマネージャーを抱えていたという未確認情報がある。

吉本時代、後輩芸人が「ギャラが安い」とぼやいたので、吉本興業に掛け合いギャラのつり上げ交渉を行った。曰く「ワイは日本の月亭可朝や。」これに対して吉本側は「日本の月亭可朝ならば、他所でも通用するでしょう。どうぞ他所へ移って貰って結構です。」と突き返した。これには可朝も完敗し、「このまま吉本に居させて貰った方が。」と譲歩。結局交渉前よりギャラが下げられたという逸話がある。(吉本興業側の書籍より。なお同本では「T」とイニシャルとなっているが、描かれたイラスト カンカン・メガネ・片手ギター と可朝そのものであった。)

借金とワンセットで語られることの多い「スッポンメガネ」であるが、発売当初は黒字の収益を上げていた。赤字→借金になったのは、国鉄のキヨスクでの発売が内定していたが、売価に関して国鉄(鉄道弘済会)側が難色を示し話がご破算になり、全国のキオスクに出すためにあらかじめ大量に生産(契約してから生産すると間に合わないので、事前に生産しておいた)したメガネがダブついたのが原因である。この商品を思いついたのは、「欧米には鼻メガネがあるが、日本にはそれがない」という理由から。しかし、1987年に松原市にある「サンクストーン」と言う眼鏡製造会社が発売していた「ローガングラス」のCMに出演し、関西を中心に発売された。

京都の旅館で中田ボタンらとトランプ賭博に興じていたところを警察に踏み込まれたが、咄嗟にトランプを裏返して「神経衰弱」に偽装し、事なきを得た。が、警察はそのまま隣の部屋に踏み込み、池乃めだか、日佐丸(平和ラッパ・日佐丸、4代目)、Wヤング平川幸雄が一時拘引された。うどんの代金を賭け金と間違えられたためである。

エイプリルフールで「家が焼けてるねん」と言い続けていたら、自宅の仏壇の蝋燭が原因で本当に焼けてしまったことがある。しかもその仏壇は、ギャンブルで勝ったお金で買ったものだったという話をテレビで暴露されていた。

たまに彼がテレビに出るときに彼の曰く、その昔、春木競馬場でバカ勝ちして、すでに仏壇が家にあるのに構わず、シャレで購入したという。またそれを、魂も何も入れていないのに、蝋燭をあげたりなど供養じみたことをしていた。そうしたら、ある日、その供養していた蝋燭が倒れ、火事になった。その日彼は外で呑んでいたのだが、夫人から連絡があったとき運悪くエイプリルフールで、彼(および、一緒にいた取り巻き)はまるっきり信じなかったのだが、電話の応対に出た花紀京がしつこく言い、さらに花紀が知るはずもない可朝宅の隣人の名前を出したことから仰天し家に帰ったら、家が丸焼けであったと言っている。

「ほんまにほんまでっせ」だけを言い続け、爆笑を取る。遂には、それしか言わず、高座を降りた。

出前で注文したうどんを高座で食べて出番が終わったことがある。また、高座で寝転がり本当に寝てしまい、それだけで出番が終わったことがある。

空港で預け荷物受け取りのベルトコンベヤーの上に乗っかり、荷物(自分のギター)と一緒に出てきたことがある。知人に「あれに乗って出てきたら1万円やる」と言ったところ「そんなん出来るか!あんたこそ乗って出てきたら1万円やるわ」と言い返され、「そうか!」と乗って出てきて約束通り1万円貰ったとのこと。「シャレやがな」で済まされるエピソードには、枚挙にいとまがない。

無類の賭け事好きから、友人の立川談志をして「あいつの人生そのものが博奕だ。」や、「落語界の横山やすしだ。」と言わしめる。

ギター漫談で売り出したため落語はあまりやらないように思われがちだが、米朝の下で修行を重ねていたためか古典は本格派で特に人間の業を描かせたような「算段の平兵衛」は絶品。他に「坊主茶屋」、「動物園」、「色事根問」、「鳥屋坊主」、「親子酒」、「夢の酒」など持ちネタも多い。

1971年、第9回参院選全国区から無所属で出馬(同じく出馬した談志の応援演説が予定されていた日に、気が変わって立候補届を出した)。“一夫多妻制の確立と、風呂屋の男湯と女湯の仕切を外すこと”を公約とするが、落選。当時の選挙戦で選挙カーを高速道路で走らせ、そのまま演説していたというエピソードもある(のちの参院選で落選した島田洋七にも同様の話がある)。2001年には第19回参院選自由連合公認比例代表区から出馬したが、再度落選大阪市議選にも出馬歴あり。なお、最初の参院選出馬の影響で、当時レギュラーだった「新婚さんいらっしゃい!」など多数の番組を降板し(公職選挙法の規定による)、そのまま復帰することはなかった。

実はギターを弾くことができず、調律は楽屋に居合わせた芸人に頼んでいる。

2008年8月12日、元交際相手の50代の女性へのストーカー行為により、ストーカー規制法違反の容疑で逮捕された。

月亭可朝の代表曲

嘆きのボイン(1969年12月発売、80万枚の大ヒットに)

出てきた男(1969年発売)

借金のタンゴ(1984年発売、インディーズ

月亭可朝の著書

真面目ちゃうちゃう可朝の話(鹿砦社

勝率97% "女"の研究(文化創作出版)

月亭可朝の弟子(可朝一門)

月亭八方他、自分の弟子たちの命名に際してはすべて「八」ないしカタカナの「ハ」の字を付けている。これは、恩人である八田竹男元吉本興業社長、故人)に因むもの。

直弟子

月亭八方

月亭ハッピー

月亭ハッチ

孫弟子(いずれも八方の弟子)

月亭遊方

月亭八天

月亭連方

月亭八光

可朝の弟子に対する態度は、自由放任に近い。八方が可朝に入門した理由の一つも「すぐに高座に出れそうだから」で、実際に入ってすぐに高座に出られた。ただし、八方は芸や時間や服装には妥協を許さない程厳しい一面を持っている。

この教育方針は、弟子の個性尊重にも繋がっており、一門のうち、八方は主に古典と自作を演じ、一方のハッピーハッチは創作と自作に取り組んでおり、師匠・可朝の持つ多面性が、3人の弟子に分かれて受け継がれている。

孫弟子の八光は可朝に弟子入りするつもりだったが、八方と八光が兄弟弟子になりややこしくなること、可朝自身が吉本興業所属でなかったため親子での仕事がしづらいなどの理由や「父に面倒を見てもらえばよい」と言う可朝の考えもあり却下された。

なお所属事務所ではないが米朝事務所のオフィシャルHPの一門紹介にも可朝一門が掲載されている。[1]

◇出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)『月亭可朝』より
取得日:2008-08-15

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