東條 英機(とうじょう ひでき、新字体で東条 英機、1884年(明治17年)7月30日(戸籍上は12月30日) - 1948年(昭和23年)12月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家。現役軍人のまま第40代内閣総理大臣に就任した(在任期間は1941年(昭和16年)10月18日 - 1944年(昭和19年)7月18日)。
階級位階勲等功級は陸軍大将・従二位・勲一等・功二級。永田鉄山の死後、統制派の第一人者として陸軍を主導する。太平洋戦争開戦時の内閣総理大臣。また権力の強化を志向し複数の大臣を兼任し、慣例を破って陸軍大臣と参謀総長を兼任した。敗戦後に行われた東京裁判にてA級戦犯とされ、軍国主義の代表人物として処刑された。権威主義的で自己中心的な性格から「カミソリ東條」とあだ名された。
東條英機の生い立ちと経歴
若い時の東條英機東條英機は1884年(明治17年)7月30日、東京市麹町区(現在の千代田区)に東條英教陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)と千歳の間の三男として生まれる。本籍地は岩手県。長男・次男はすでに他界しており、実質「家督を継ぐ長男」として扱われた。
東條家は江戸時代、宝生流ワキ方の能楽師として盛岡藩に仕えた家系である。英機の父英教は陸軍中将であったが、長州閥が幅を利かせていた当時の陸軍での立場は弱く、陸大を首席で卒業した俊才であったが、陸軍中将で予備役となった 。
英機は番町小学校、四谷小学校、学習院初等科(1回落第)、青山小学校を経て、1897年(明治30年)、東京府立城北尋常中学校(現・都立戸山高等学校)に入学する。1899年(明治32年)、東京陸軍幼年学校入学(3期生)。1902年(明治35年)、陸軍中央幼年学校入学(17期生)。1904年(明治37年)、陸軍士官学校入学(17期生)。
東條英機の陸軍入隊
1905年(明治38年)3月に陸軍士官学校を卒業(クラス50人中42位)、同年4月21日に陸軍歩兵少尉に任官。1907年(明治40年)12月21日には陸軍歩兵中尉に昇進する。
1909年(明治42年)、伊藤かつ子と結婚。1911年(明治44)に長男の英隆(東條由布子の父)が誕生。1912年(大正元年)に受験3度目にしてようやく陸軍大学校に合格し、入学(27期生)した。1914年(大正3年)には二男の輝雄(元三菱自動車工業社長)誕生。1915年(大正4年)に陸軍大学校を卒業し、陸軍歩兵大尉に昇進。近衛歩兵第三連隊中隊長に就く。1918年(大正7年)には長女が誕生、翌1919年(大正8年)8月、駐在武官としてスイスに赴任。1920年(大正9年)8月10日に陸軍歩兵少佐に昇任、1921年(大正10年)7月にはドイツに駐在。
1922年(大正11年)11月28日には陸軍大学校の教官に就任。1923年(大正12年)10月5日には参謀本部員、10月23日には陸軍歩兵学校研究部員となる(いずれも陸大教官との兼任)。同年に二女満喜枝が誕生している。1924年(大正13年)に陸軍歩兵中佐に昇任。1925年(大正14年)に三男敏夫が誕生。1926年(大正15年)には陸軍大学校の兵学教官に就任。1928年(昭和3年)3月8日には整備局動員課長に就任、同年8月10日に陸軍歩兵大佐に昇進。1929年(昭和4年)8月1日には歩兵第1連隊長に就任。同年には三女が誕生。1931年(昭和6年)8月1日には参謀本部編制課長に就任し、翌年四女が誕生している。
1933年(昭和8年)3月18日に陸軍少将に昇任、同年8月1日に兵器行政本部附軍事調査委員長、11月22日に陸軍省軍事調査部長に就く。1934年(昭和9年)8月1日には歩兵第24旅団長に就任。1935年(昭和10年)9月21日には、関東憲兵隊司令官・関東局警務部長に就任。1936年(昭和11年)12月1日に陸軍中将に昇進。翌1937年(昭和12年)3月1日、関東軍参謀長に就任する。1938年(昭和13年)には板垣征四郎陸軍大臣の下で、陸軍次官・陸軍航空総監・陸軍航空本部長に就く。1940年(昭和15年)7月22日から第2次近衛内閣、第3次近衛内閣の陸軍大臣を務めた(対満州事務局総裁も兼任)。
関東軍参謀長であった東條は、北支事変の開戦後、内蒙古の徳王を指導し、綏遠省(内蒙古自治区中南部)侵入を支援した(綏遠事件)。中国側は、綏遠省主席の傅作義(zh:傅作?)の指揮で一週間で撃退された。これ以降、中国側は、東條を、日本の満州権益拡大を主導する人物として警戒するようになった。
東條英機の首相就任
1941年10月18日、東京府東京市の総理大臣官邸にて初閣議を終えた東條英機と東條内閣の国務大臣ら日米衝突を回避しようとする近衛首相に対して、東條は強硬な主戦論を唱え、第3次近衛内閣を退陣に追い込んだ。
誰の説得にも応じない東條の強硬さに手を焼いた天皇の側近木戸幸一内府らは、日米衝突を回避しようとする昭和天皇の意向を踏まえ、明治維新時に政府軍に蹂躙された東北出身ゆえか「忠狂」と呼ばれるほど天皇を敬愛していた東條英機本人をあえて首相にすえることによって、陸軍の権益を代表する立場を離れさせ、天皇の下命により対米交渉を続けざるを得ないように追い込むことができると考えた。
天皇は木戸の上奏に対し、「虎穴にいらずんば虎児を得ず、だね」と答えたという。木戸は「あの期に陸軍を押えられるとすれば、東條しかいない。宇垣一成の声もあったが、宇垣は私欲が多いうえ陸軍をまとめることなどできない。なにしろ現役でもない。東條は、お上への忠節ではいかなる軍人よりもぬきんでているし、聖意を実行する逸材であることにかわりはなかった。…優諚を実行する内閣であらねばならなかった」と述べている。
日本政府が最後の望みをかけておこなっていた日米交渉の間、陸軍の強硬派を抑えることができる唯一の人物であると目されたため、1941年(昭和16年)10月18日に、第40代内閣総理大臣兼内務大臣・陸軍大臣に就任し、且つ、内規を変えてまで陸軍大将に昇進する。 この年 戦陣訓 を作成し布達している。
東條英機の日米開戦
東條内閣の国務大臣らと東條英機 大東亜会議に参加した各国首脳。左からバー・モウ、張景恵、汪兆銘、東條英機、ナラーティップポンプラパン、ホセ・ラウレル、スバス・チャンドラ・ボース1941年12月8日、日本はイギリスとアメリカに宣戦布告し太平洋戦争に突入した。
東條は1942年(昭和17年)に外務大臣(?9月17日)、1943年(昭和18年)には文部大臣(?4月23日)・商工大臣・軍需大臣(以上内閣総辞職まで)を兼任。1943年には大東亜会議を主催するなど、戦争の遂行とともに日本の影響下のアジア諸国の団結を図った。
1944年(昭和19年)2月21日には、国務と統帥の一致・強化を唱え、陸海統帥部総長の更迭を断行し、自らは参謀総長に就任するが、戦況の悪化に伴い連合国軍により日本本土が空襲を受ける可能性が出てきた。
そこで絶対国防圏を定め大部隊をもってサイパン諸島を死守する事を発令し、サイパン周辺の守備を増強したが、マリアナ沖海戦の敗北により戦力差は更に拡大し、サイパンの戦いで日本兵3万名が玉砕した。グアム、テニアンも次々に陥落し、岸信介に造反される。東條の内意を受けた四方諒二憲兵隊長は軍刀をかざして岸に辞任を迫ったが岸は脅しに屈しなかった。追い詰められた東條に木戸が天皇の内意をほのめかしながら退陣を申し渡すが、東條は昭和天皇に続投を直訴する。だが天皇は「そうか」と言うのみであった。万策尽きた東條は、7月18日に総辞職、予備役となる。東條は、この政変を重臣の陰謀であるとの声明を発表しようとしたが、閣僚全員一致の反対によって、差し止められた。
東條の腹心の赤松貞雄らはクーデターを進言したが、これはさすがに東條も「お上の御信任が薄くなったときはただちに職を辞するべきだ」とはねつけた。東條は次の内閣において、山下奉文を陸相に擬する動きがあった為、これに反発して、杉山元以外を不可と主張した。自ら陸相として残ろうと画策するも、梅津美治郎参謀総長の反対でこれは実現せず、結局杉山を出す事となった。
広橋眞光による 東条英機陸軍大将言行録 (いわゆる広橋メモ)によると、総辞職直後の7月22日首相官邸別館での慰労会の席上「サイパンを失った位では恐れはせぬ。百方内閣改造に努力したが、重臣たちが全面的に排斥し已むなく退陣を決意した。」と証言しており、東條の無念さがうかがわれる。
現在ではごく普通になっている衆議院本会議での首相や閣僚の演説の、映像での院内撮影を初めて許可したのは東條である。1941年12月23日に封切られた日本ニュース第81号 鉄石一丸の戦時議会 がそれで、東條は同盟国であるドイツのアドルフ・ヒトラーのやり方を真似て自身のやり方にも取り入れたとされている。東條自身は、極東国際軍事(東京)裁判で本質的に全く違うと述べているが、東條自身が作成したメモ帳とスクラップブックである「外交・政治関係重要事項切抜帖」によればヒトラーを研究しその手法を取り入れていたことがわかる。
辞任後の東條は重臣会議と陸軍大将の集会に出る以外は、用賀の自宅に隠棲した。たまさかに意見を聞かれても無味乾燥な精神論を吐くばかりで周囲から敬遠された。鈴木貫太郎内閣成立時に「陸軍がそっぽを向く。」と失言して顰蹙を買ったのはその一例である。
東條が敗戦直前に残した自筆のメモには、戦争の勝利への未練、敗戦の責任転嫁、侵略戦争の美化など、妄想と詭弁に終始した内容が記されていた。敗戦は無気力な国民のせいとして、自身の罪には一切触れられていなかった。
東條英機の敗戦と自殺未遂
自殺未遂後GHQのアメリカ軍病院で手当を受ける東條1945年(昭和20年)9月11日、終戦とその後の連合国軍による占領、そして自らの逮捕に際して、東條は自らの胸を撃って拳銃自殺を図るも失敗している。
頭を撃たなかったのもさることながら、東條が自決に失敗したのは、左利きであるにもかかわらず右手でピストルの引き金を引いたためという説と、次女東條満喜枝の婿で近衛第一師団の古賀秀正少佐の遺品の銃を使用したため、使い慣れておらず手元が狂ってしまったという説がある。
銃声が聞こえた直後、そのような事態を予測し救急車などと共に世田谷区用賀にある東條の私邸を取り囲んでいたアメリカ軍を中心とした連合国軍のMPたちが一斉に踏み込み救急処置を行った。拳銃を使用し短刀を用いなかった自殺については当時の朝日、読売、毎日の新聞でも阿南惟幾ら他の陸軍高官の自決と比較され批判の対象となった。
使用された拳銃については諸説があり、結論は出ていない。東條が自殺に使用したものとしてアメリカ合衆国のバージニア州ノーフォークにあるマッカーサー記念館(MacArthur Memorial Museum)に展示されている拳銃はコルト社製の32口径であるが、当時は占領の混乱の最中であったため、それが本物であるという確実な証拠も存在しないというのが実際のところである。
ブローニング(22口径)説
東條の秘書官だった赤松貞雄の手記には東條がブローニング社製の小型拳銃を所持していたことが語られており、胸を撃ったにもかかわらず救命されたという結果と、東條が普段護身用に携帯していたのがこの銃であったことから推測された説と考えられる。当時の読売新聞や朝日新聞には「大将が自殺に使用した拳銃は口径3.2ミリの玩具同然」との批判記事が並び、マスコミを通じて広く一般の国民に流布された。自決に用いるには確実性の低い銃であることから狂言自殺説の根拠ともなっており、東條に悪意を持つ人々が多かったという背景もあって現在も根強く信じられている。佐々淳行は「22口径を使って胸を撃つなんて銃について知っている人間にとっては笑い話」と述べており、東京都知事の石原慎太郎も同様の発言を行っている。コルト(32口径)説
東條の娘婿で近衛第一師団の古賀少佐が、8月15日の自決に際して使用した銃であり、米軍の調査担当者もこの説を採用している。しかし古賀少佐の遺品の拳銃を使用したことは秘書官であった赤松貞雄や花山信勝など多くの関係者の記録に東條自身の発言として伝えられているが、不思議なことに銃の種類については「制式大型」「陸軍の制式拳銃」など米国製のコルトであることを否定するような主張を繰り返しており、また米軍による取り調べの供述においては「陸軍省から貰った」と明らかに上記とは矛盾する証言を残している。南部 (8mm) 説
古賀少佐の遺品である陸軍制式(拳銃)大型を使用したという説。この拳銃は発射時に独特のショックがあるため、手元が狂ってしまったとされる。しかしながら憲兵出身で拳銃の扱いには慣れていたはずの東條が軍の制式銃の特徴を知らぬはずがなく、この説明はいささか説得力に乏しい。この説は東條が語った古賀少佐の遺品であるという話と、陸軍の制式大型という内容の整合性を取るために導き出された推論であるが、東條を主人公とした映画 プライド・運命の瞬間 では彼の発言を尊重して日本製の南部十四年式が使用されている。銃弾は心臓の近くを撃ち抜いていたが、急所は外れており、アメリカ人軍医のジョンソン大尉によって応急処置が施され、東條を侵略戦争の首謀者として処刑することを決めていたマッカーサーの指示の下、横浜市本牧の国民学校に設置された野戦病院において、米軍による最善を尽くした手術と看護を施され、奇跡的に九死に一生を得る。
あるアメリカ軍曹が東條へB型の血液を提供する際、「彼を生かして、裁判で正当な報いを受けさせたい。このまま安らかに死なせては手温過ぎる。私が、ニューギニアで過ごしたあの17ヶ月間のお返しを、少しはしてやりたい」とのコメントを残しているが、この言こそ、東條治療にあたったアメリカ軍を中心とした連合国軍の心理を代表したものと言えよう。治療中も出血が酷く、自殺を図ってから最初の12?14時間で、東條自身の血の半分までが出血したとの報道がされている。その間、6?7度に渡る輸血が行われ、アメリカ軍人からの血の提供もあった。
回復後の健康診断を受ける東條A級戦犯逮捕による世論の動向を調査した京都府警察部特高課の報告(「東条元首相ノ自決並戦争犯罪人氏名発表ニ対スル反響」)よると、
「……東条元首相ノ自殺ヲ図リタルコトニ付テハ、 死ニ遅レタ現在ニ於テハ戦争ノ最高責任者トシテ男ラシク裁判ニカヽリ大東亜戦争ヲ開始セザルヲ得ナカツタ理由ヲ堂々ト闡明シタル上、其責任ヲ負フベキデアツタ トナシ、又、米兵ニ連行ヲ求メラレテ初メテ自殺ヲ図リタルハ生ヲ盗ミオリタルモノト見ルノ外ナク、然モ死ニ切レナカツタ事等詢ニ醜態ナリトシ同情的言動認メラレズ……」と多くの世論が東條に冷たい視線を送るだけであった。
山田風太郎も「卑怯といわれようが、奸臣といわれようが国を誤まったといわれようが、文字通り自分を乱臣賊子として国家と国民を救う意志であったならそれでよい。それならしかしなぜ自殺しようとしたのか。死に損なったのち、なぜ敵将に自分の刀など贈ったのか。 生きて虜囚の辱しめを受けることなかれ と戦陣訓を出したのは誰であったか。今、彼らはただ黙して死ねばいいのだ」、「なぜ東条大将は、阿南陸相のごとくいさぎよくあの夜に死ななかったのか。なぜ東条大将は阿南陸相のごとく日本刀を用いなかったのか。逮捕状が出ることは明々白々なのに、今までみれんげに生きていて、外国人のようにピストルを使って、そして死に損っている。日本人は苦い笑いを浮かべずにはいられない」と手厳しく批判している。
当時の日本人の多くが同じ感想を持った。新聞に連日掲載された他の政府高官の自決の記事の最後には「東條大将順調な経過」「米司令官に陣太刀送る」など東條の病状が付記されるようになりさらに国民の不興を買っていった。
なお、これには東條は自殺未遂ではなく米軍MPに撃たれたという説がある。当時の陸軍人事局長額田担は「十一日午後、何の連絡もなくMP若干名が東條邸に来たのを、応接間の窓から見た東條大将は衣服を着替えるため奥の部屋へ行こうとした。すると、逃げたと勘違いしたらしいMPは窓から飛び込み、いきなり拳銃を発射して大将は倒れた。MPの指揮官は驚いて、急ぎジープで横浜の米軍病院に運びこんだ」との報告を翌日に人事局長室にて聞いたと証言している。
後の巣鴨プリズン内における重光葵との会話の中では、「自分の陸相時代に出した戦陣訓には、捕虜となるよりは、自殺すべしと云う事が書いてあるから、自分も当然自殺を計ったのである」と語っていた。
東條英機の東京裁判判決と処刑
東條英機の判決と仏教への帰依
極東裁判にて、被告台に立つ東條。 珍しいネクタイ姿の東條(戦後のものと思われる)東條は1948年(昭和23年)11月12日、極東国際軍事裁判(東京裁判)で絞首刑の判決を受け、12月23日、巣鴨拘置所(スガモプリズン)内において死刑執行、満64歳没(享年65〈数え年〉)。
辞世の句は、
「我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば」 「さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根に花薫るとき」 「散る花も落つる木の実も心なき さそうはただに嵐のみかは」 「今ははや心にかかる雲もなし 心豊かに西へぞ急ぐ」晩年は浄土真宗の信仰の深い勝子夫人や巣鴨拘置所の教誨師、花山信勝の影響で浄土真宗に帰依した。花山によると、彼は法話を終えた後、数冊の宗教雑誌を被告達に手渡していたのだが、その際、東條から吉川英治の 親鸞 を差し入れて貰える様に頼まれた。後日、その本を差し入れたのだが、東條が読んでから更に15人の間で回覧され、本の扉には 御用済最後ニ東條ニ御送付願ヒタシ と書かれ、板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、広田弘毅等15名全員の署名があり、現在でも記念の書として東條家に保管されているという。
浄土真宗に帰依してからは、驚くほど心境が変化し、「自分は神道は宗教とは思わない。私は今、正信偈と一緒に浄土三部経を読んでいますが、今の政治家の如きはこれを読んで、政治の更正を計らねばならぬ。人生の根本問題が書いてあるのですからね」と、それまで信じていた国家神道をも否定、政治家は仏教を学ぶべきだとまで主張したという。
また、戦争により多くの人を犠牲にした自己をふりかえっては、「有難いですなあ。私のような人間は愚物も愚物、罪人も罪人、ひどい罪人だ。私の如きは、最も極重悪人ですよ」と深く懺悔している。
さらには、自分をA級戦犯とし、死刑にした連合国の中心的存在のアメリカに対してまで、「いま、アメリカは仏法がないと思うが、これが因縁となって、この人の国にも仏法が伝わってゆくかと思うと、これもまたありがたいことと思うようになった」と、相手の仏縁を念じ、1948年12月23日午前零時1分、絞首台に勇んで立っていったと言われる。
処刑の前に詠んだ歌にその信仰告白をしている。
「さらばなり 有為の奥山けふ越えて 彌陀のみもとに 行くぞうれしき」 「明日よりは たれにはばかるところなく 彌陀のみもとで のびのびと寝む」 「日も月も 蛍の光さながらに 行く手に彌陀の光かがやく」東條英機の遺骨と神道での祭祀
絞首刑後、東條らの遺体は遺族に返還されることなく、当夜のうちに横浜市西区久保町の久保山火葬場に移送し火葬された。遺骨は粉砕され遺灰と共に航空機によって太平洋に投棄された。
小磯國昭の弁護士を務めた三文字正平と久保山火葬場の近隣にある興禅寺住職の市川伊雄は遺骨の奪還を計画した。三文字らは火葬場職員の手引きで忍び込み、残灰置場に捨てられた7人分の遺灰と遺骨の小さな欠片を回収したという。回収された遺骨は全部で骨壷一つ分程で、熱海市の興亜観音に運ばれ隠された。1958年(昭和33年)には墳墓の新造計画が持ち上がり、1960年(昭和35年)8月には愛知県幡豆郡幡豆町の三ヶ根山の山頂に改葬された。同地には現在、殉国七士廟が造営され遺骨が祀られている。
東條英機は陸軍に対して、靖国神社合祀のための上申を、戦死者または戦傷死者など戦役勤務に直接起因して死亡したものに限るという通達を出している。刑死するなどした東京裁判のA級戦犯14名の合祀は、1966年(昭和41年)、旧厚生省(現厚生労働省)が「祭神名票」を靖国神社側に送り、1970年の靖国神社崇敬者総代会で決定された。靖国神社は1978年(昭和53年)にこれらを合祀している。なお、靖国神社に遺骨は納められていない。神社は神霊を祭る社であり、靖国神社では国家のため戦争・事変で命を落とした戦没者およびその他の公務殉職者の霊を祭神として祀っている。よってあるのは「霊璽簿」(れいじぼ)と称される死者の霊魂(神様となった東條等)の宿る名簿と、東條等を顕彰する施設のみである。
東條英機の評価
東條英機太平洋戦争開戦時の総理大臣でもあり、昭和初期の歴史を考える上でそれなりの批判は避けて通れないことも事実である。
第二次世界大戦期における最重要人物の一人という事もあり、立場や思想などから様々な評価が未だ乱立しており、評価が難しい人物である。国内外を問わず、東條を無能と非難する声もあれば、一方で有能とする声もある。
現在一般的な東條に対しての評価として以下の点が挙げられる。
東條英機の「太平洋戦争の張本人」
日本を戦争に引きずり込んだ張本人のように言われることもある。自分を批判した将官を省部の要職から外して、戦死する確率の高い第一線の指揮官に送ったり、松前重義大政翼賛会青年部部長が受けたようないわゆる「懲罰召集」を行う等、陸軍大臣を兼ねる首相として強権的な政治手法を用い、さらには憲兵を恣意的に使っての一種の恐怖政治を行ったとされ、宰相としての評価は一般に低い(東條の政治手法に反対していた人々は、「東條幕府」と呼んで非難した)。
官僚としてはかなり有能であったという評価はあるが、東條と犬猿の仲で後に予備役に左遷させられた石原莞爾は、関東軍在勤当時上官であった彼を「東條一等兵」と呼んで憚らず、嘲笑することしばしばであったという。また戦後東京裁判の検事団から取調べを受けた際「関東軍時代、あなたと東條には意見の対立があったようだが」と訊ねられると、石原は「自分にはいささかの意見がある。しかし、東條には意見が無い。意見の無い者と対立のしようがないではないか」と答えた。しかし、東條・石原共に、プライドが高く、衝突はかなりあったという( 秘録・石原莞爾 )。
東條英機東條英機の「器が小さい」
東條に対する悪評価に拍車をかけた一面としてはその官僚的な硬直した発想、視野の狭さ、内容よりも手続きや形式、見栄えを重んじるやり口、みずからの地位を利用した敵対者への弾圧、嫉妬深さ、憲兵を多用した警察国家的な政治手法などに起因するものが多く、「器の小さな男」の狡猾な手段に対する嫌悪感という面が強いと言える。
東京帝国大学の卒業式で「諸君は非常時に際し繰り上げ卒業するのであるが自分も日露戦争のため士官学校を繰り上げ卒業になったが努力してここまでになった(だから諸君もその例にならって努力せよ)」と講演し、呆れられている。
区役所で直接住民から意見を聞こうとしたり、夜な夜な民家のゴミ箱を漁っては贅沢品を食べてはいないかと自らチェックしたというが、後日本人は「国民の食生活が困窮していないか、配給がきちんと行き届いているかどうかを確認するために残飯を見に回った」と語っている。どちらにしろ自ら行う必要性はなく、自分の目で確認しないと気が済まない性格が伺われる。これに関連して1943年西尾寿造大将は関西方面を視察していた時に記者から何か質問され「わしはそんな事は知らん。毎朝塵箱をあさっとる奴がおるだろう。そいつに聞け」と答えた。塵箱あさりとはもちろん東條首相のことである。東條はこの談話を聞いてかんかんに怒り、その私怨から西尾を予備役とした。
東條英機の三職の兼任
行政権の責任者である首相、陸軍軍政の長である陸軍大臣、軍令の長である参謀総長の三職を兼任したこと(及び嶋田の海軍大臣と軍令部総長の兼任)は、軍がそれまでつよく主張してきた統帥権の(政治からの)独立と矛盾し、天皇の統帥権に抵触するおそれがあると当時から批判が強かった。首相であった東條の元に軍令面の情報が集まらず、総合的な戦争指導ができないことに苛立った非常手段であるといわれ、東條は「非常時における指導力強化のために必要であり責任は戦争終結後に明らかにする」と弁明した。
これに関連して、過度の権力集中にヒトラーを引き合いに出して苦言を呈した側近に対し「ヒトラーは一兵卒、私は大将です。同じにしないでもらいたい」と答えたという話がある。ただし、特に独ソ不可侵条約締結の頃には東條に限らず「あの伍長上がりに振り回され…」等とヒトラーを侮蔑する陸軍将官が多かったとも言われている。
東條英機の嫌いな人物や敵対者への対応
また、個人的に嫌いな人物や敵対者を召集して激戦地に赴任させるというやりかたも東條酷愛の方法で、毎日新聞社編 決定版・昭和史--破局への道 毎日新聞百年史 に詳しい竹槍事件では1944年2月23日毎日新聞朝刊に「竹槍では勝てない、飛行機だ」と自分に批判的な記事を書いた新名丈夫記者を37歳という高齢で二等兵召集し、硫黄島へ送ろうとした。
新名は大正年間に徴兵検査をうけたのであるが、まだ当時は大正に徴兵検査を受けた老兵は1人も召集されてはおらず、これに対して新名が黒潮会(海軍省記者クラブ)の主任記者であった経過から海軍が「大正の兵隊をたった1人取るのはどういうわけか」と陸軍に抗議し、陸軍は大正の兵隊を250人を丸亀連隊(第11師団歩兵第12連隊)に召集してつじつまをあわせた。新名自身はかつて陸軍の従軍記者であった経歴と海軍の庇護により連隊内でも特別の待遇を受け三箇月で召集解除になったが、上の老兵250人は硫黄島で戦死することになる。陸軍は新名を再召集しようとしたが、海軍が先に徴用令を出し新名の命を救った。
陸相時代に支那派遣軍総司令部が「アメリカと妥協して事変の解決に真剣に取り組んで貰いたい」と見解を述べたが、東條の返答は「第一線の指揮官は、前方を向いていればよい。後方を向くべからず」だった。また戦争を早くから志向していたという説もある。事実、陸軍次官時代の1938年に軍人会館(現在の九段会館)での在郷軍人会において「支那事変の解決が遅延するのは支那側に米英とソ連の支援があるからである。従って事変の根本解決のためには、今より北方に対してはソ連を、南方に対しては米英との戦争を決意し準備しなければならない」と発言し当時「東條次官、二正面作戦の準備を強調」と報道された。
逓信省工務局長松前重義は東條反対派の東久邇宮稔彦王に接近したために、勅任官待遇だったにもかかわらず42歳にして召集され、南方で電柱かつぎに使役された。高松宮宣仁親王は日記のなかで 実に憤慨にたえぬ。陸軍の不正であるばかりでなく、陸海軍の責任であり国権の紊乱である と述べている。さらに松前は輸送船団にて南方戦線に輸送された。逓信省は取り消しを要請したが富永恭次陸軍次官は「これは東條閣下直接の命令で絶対解除できぬ」と取り合わなかった。松前は無事にサイゴンについたが、本来召集対象外の松前が召集された事を目立たせぬように同時に召集された老兵数百人がバシー海峡に沈んだ。東條の誤算はサイゴンに東條も畏怖する先輩の寺内寿一がいたことであった。寺内は松前に「平服着用許可」「勅任官待遇の復活」などを実施して窮地を救っている(以後の松前の経歴は当該項を参照のこと)。
陸軍内の東條嫌いで有名だった前田利為は、東條によって南方の激戦地に転任させられ、搭乗機を撃墜されて死亡したが、東條はわざわざこれを戦死ではなく戦傷病死扱いにして遺族の年金を減額したといわれている。ただ実際には転任地ボルネオは激戦地ではなく、任務は単なる占領地司令官であり、その死は不運な飛行機事故によるものである。
尾崎行雄を天皇への不敬罪として逮捕させている。これは1942年の翼賛選挙で行った応援演説で引用した川柳「売家と唐様で書く三代目」で昭和天皇の治世を揶揄したことが理由とされているが、評論家の山本七平は著書 昭和天皇の研究 で、これを1942年4月に尾崎が発表した「東條首相に与えた質問状」に対しての報復であるとしている。
政府提出の市町村改正案を官僚の権力増強案と批判し反対した3人の衆議院議員、福家俊一、有馬英治、浜田尚友を懲罰召集した。この改正案そのものには東條自身は乗り気ではなく、提出を強行して議会を混乱させたと責任を取らせるために湯澤三千男内務大臣を更迭している。
木戸幸一内大臣の甥の都留重人海軍省調査員に圧力をかけ、解雇させた上で召集し、木戸への圧力に利用した。木戸は、東條秘書官の赤松に最前線送りだけはしないように懇願した。
ガダルカナル島の戦いで輸送船の増船を求める参謀本部の要求を拒否し、直談判にきた田中新一作戦部長が「馬鹿野郎」と暴言を吐くと、翌日田中は南方へ転勤になった。東條の不興をかって前線送りになった将校は塚本清彦少佐ら多々おり、サイパン送りにした将校には「サイパンの防衛には、この東條が太鼓判を押す」と言って送り出し戦死させた。
東條英機の悪評高い腹心の部下
腹心の部下としては「三奸四愚」と呼ばれた三奸:鈴木貞一、加藤泊治郎、四方諒二、四愚:木村兵太郎、佐藤賢了、真田穣一郎、赤松貞雄やインパール作戦を直訴し白骨街道を築いた牟田口廉也、陸軍大臣時代に仏印進駐の責任問題で一度は左遷されたが、わずか半年後に人事局長に栄転し陸軍次官も兼任した富永恭次がいる。富永はフィリピンで特攻指令を下し、自らも特攻すると訓示しながらも、胃潰瘍の診断書をもって護衛戦闘機付きで台湾に逃亡した。木村兵太郎や牟田口廉也もビルマで同様の敵前逃亡行為を行っている。
東條英機の特高、憲兵の利用
特高警察と東京憲兵隊を重用し、一般人に圧力を加えるために用いた点において、法理上の問題がある。東條政府打倒のために重臣グループなどと接触を続けた衆議院議員中野正剛を東方同士会(東方会が改称)ほか三団体の幹部百数十名とともに検挙した(この検挙の理由をめぐっては、中野が昭和18年元旦の朝日新聞に執筆した 戦時宰相論 が原因との説もある)。中野は5日後に釈放された後、憲兵隊の監視下で自決に追い込まれる。全国憲友会編 日本憲兵正史 では陸軍に入隊していた子息の「安全」と引きかえに自決を迫られたものと推定している。また中野の取り調べを担当、嫌疑不十分で釈放した43歳の中村登音検事には、その報復として召集令状が届いた。
陸士1期後輩の独立混成第1旅団長酒井鎬次は戦車用兵でしばしば東條と対立し、諸兵科との連携を軽視する東條を馬鹿呼ばわりした。東條が力をつけると酒井は閑職に左遷され、昭和15年には予備役に編入された。
東條は「東條英機宣誓供述書」のなかで、こう述べている。「大東亜の新秩序というのもこれは関係国の共存共栄、自主独立の基礎の上に立つものでありまして、その後の我国と東亜各国との条約においても、いずれも領土および主権の尊重を規定しております。また、条約にいう指導的地位というのは先達者または案内者またはイニシアチーブを持つ者という意味でありまして、他国を隷属関係におくという意味ではありません」。しかし、1942年9月、東條首相は占領地の大東亜圏内の各国家の外交について「既成観念の外交は対立せる国家を対象とするものにして、外交の二元化は大東亜地域内には成立せず。我国を指導者とする所の外交あるのみ」と答弁している。
歴史学者の秦郁彦は「もし東京裁判がなく、代わりに日本人の手による国民裁判か軍法会議が開かれた、と仮定した場合も、同じ理由で東條は決定的に不利な立場に置かれただろう。既定法の枠内だけでも、刑法、陸軍刑法、戦時刑事特別法、陸軍懲罰令など適用すべき法律に不足はなかった。容疑対象としては、チャハル作戦と、その作戦中に起きた山西省陽高における集団虐殺、中野正剛以下の虐待事件、内閣総辞職前の策動などが並んだだろう」 と著書 現代史の争点 中で推測している。このような当時の指導者を裁判にかけるという話は東久邇宮を中心にあったそうだが、昭和天皇や木戸幸一は「人民裁判になる」として反対していた。
司馬遼太郎はエッセイ 大正生まれの「故老」 (「小説新潮」第26巻第4号、1972年4月)中で、東條を「集団的政治発狂組合の事務局長のような人」と言っている。
東條英機の昭和天皇からの厚い信任
日米開戦日の深夜、開戦回避を熱望していた昭和天皇の期待に応えることができず、懺悔の念に耐えかねて皇居の方角に向かって号泣した逸話は有名で、 昭和天皇独白録 にも記載されている通り、昭和天皇から信任が非常に厚かった臣下であり、失脚後、昭和天皇からそれまで前例のない感謝の言葉(勅語)を贈られた。そして東京裁判時には親しい関係者に「戦犯の指定を受けたとは言え、国に忠義を尽くした国民の一人である。被告人として立たせるのは忍びない」と言い悲しんでいた。
東條内閣が不人気であった理由について、天皇は「憲兵を用い過ぎた事と、あまりに兼職をもち多忙すぎたため国民に東條の気持ちが通じなかった」と回想し、内閣の末期には田中隆吉などの部下や憲兵への押さえがきかなかったとも推察している。また学習研究社から発売している 実録首相列伝 国を担った男達の本懐と蹉跌 の「東條英機」の項目の中でも中野正剛の事件について「憲兵の情報を鵜呑みにして過剰反応したのではないか」という同様の推察がある。
東條英機の終戦工作の妨害
だが、天皇の信任が去って以降の東條は、“誠忠無二”とは逆の方向に変質していく。鈴木貫太郎内閣が誕生した1945年4月の重臣会議で東條は、鈴木貫太郎首相に不満で選出後も畑俊六元帥陸軍大将を首相に推薦し「人を得ぬと軍がソッポを向く」と放言し岡田啓介から「陛下の大命を受ける総理にソッポを向くとはなにごとか」とたしなめられている。さらに終戦工作に対しても妨害工作を行い「勤皇には狭義と広義二種類がある。狭義は君命にこれ従い、和平せよとの勅命があれば直ちに従う。広義は国家永遠のことを考え、たとえ勅命があっても、まず諌め、度々諫言しても聴許されねば、陛下を強制しても初心を断行する。私は後者をとる」と部内訓示していた。
東條英機の首相就任の経緯
東條が首相に就任したときに陸相や内相を兼任したのは、近衛内閣の時点で日米交渉がまとまらなかった場合には開戦することが決定されるなど開戦は避けられない状況であったこともあり、日米交渉成立時に開戦派によるクーデターを阻止することや、開戦した場合に陸海軍の統帥を一本化するためだったといわれているが、結局終戦まで陸海軍の統帥が一本化することはなかった。それどころか後任の小磯國昭総理が東條と同じく陸相兼任を主張した際には反対意見を述べ兼任を阻止している。また
