林 威助(リン・ウェイツゥ、英文表記 LIN Weichu, 1979年1月22日 - )は、台湾台中市出身で阪神タイガース所属のプロ野球選手(外野手)。背番号は31。
中華民国国籍であるが、高校・大学と日本球界でプレーしていたため日本人登録選手の扱いとなっている。
林威助の経歴
林威助のアマ時代
幼い頃にテレビで見た日本野球に憧れ、小学校時代から野球を始める。台中の中学校(中山國民中學)に通っていた時代から、台湾ではその非凡な野球センスが話題となっていた。中学卒業後、日本への野球留学の誘いを受け、福岡県の柳川高校へ入学する。この時、兄が地元を離れて台北の学校に通っており、また「行ってきなさい」と留学の後押しをした父親が入学の数か月前に病気で亡くなったため、ひとり残された母親を心配しながらの出発であったという。
入学当時はほとんど日本語が分からず、また台湾での中学時代に比べるとはるかに厳しく辛い練習のため、「台湾に帰りたい」と思ったことも幾度となくあったが、それを乗り越えて徐々に力を発揮し、2年生の時には柳川高が福岡県大会決勝に進出する原動力となる。この時は小椋真介を擁する福工大附属高に敗れて甲子園出場を逃し、翌年に雪辱を誓った。しかし3年生になった時、入学が1年遅れだったため年齢制限を超え公式戦に出場できないことが判明。甲子園という目標を失い、再び台湾に帰ることを考えたが、日本でプロ選手になることに目標を切り替え、金属バットを置いて木製バットを使いはじめるなど、高校卒業後を見据えた練習に入った。なお、高校通算で47本塁打を放っているが、以上のような理由のため、これは高校1・2年の2年間だけで到達した記録である。
1999年、関西学生野球連盟所属の近畿大学に入学。春からいきなり右翼手のレギュラーになり、同年春季リーグ戦で首位打者とベストナインを獲得した。通算最多安打などの連盟記録更新の期待がかかったが、その後は不調に苦しんだ。3年時は膝の故障で主に代打での出場に留まったが、4年時はその故障をおして3番左翼手でスタメンに復帰、春季リーグ戦後のリーグ選抜に名を連ねたほか、ラストシーズンとなった2002年秋季リーグ戦では2度目のベストナインに選ばれた。その素質が認められ、同年オフのドラフトで阪神タイガースに7巡目で指名された。
林威助のプロ入り後
プロ1年目の2003年は故障の癒えていない膝のリハビリに専念し、一軍・二軍戦ともに公式戦出場はなかった。翌2004年、シーズンの終盤10月16日で公式戦プロ入り初スタメン初安打・初打点を記録。
2005年は出場機会は少なかったが主に代打で活躍し、優勝決定後にスタメン出場の機会が巡ってきた10月4日の横浜ベイスターズ戦では、三浦大輔から一軍初ホームランを放った。二軍ではチーム2位の打率.318、10本塁打をマークした。2006年は左の代打の切り札として積極起用された。スタメンとしてはセ・パ交流戦では数試合のみではあったが指名打者で出場機会があった。またこの年は大阪ドームで3本の本塁打を放ち、この球場との好相性を見せている。
2007年は開幕から代打での出場が主だったが、右翼手のレギュラー濱中治が開幕から不振に陥っており、4月下旬にその濱中が怪我のため二軍落ちすると、そのままレギュラーに定着。アンディ・シーツの極度の不振により3番に入ることが多く、続く4番の金本と、林 (Lin) の L と金本のニックネーム「アニキ」(Aniki) の A を掛けた「LA砲」を形成し、打撃不振のチームを牽引した。6月10日の対福岡ソフトバンクホークス戦では、尊敬する祖国の英雄・王貞治監督の前でプロ入り初のサヨナラヒットとなるサヨナラホームランを放った。交流戦以後はシーツの不振と桜井広大の台頭もあり、一塁手としてのスタメン出場も多くあった。林は「プロの世界でレギュラーとして試合に出るようになるまでは、台湾の家族を試合に招待することはしない」と決めていたが、来日から12年目にして初めて、この年家族を日本に招くことができた。
開幕から長らく3割を超える打率を残していたが、5月13日の東京ヤクルトスワローズ戦で帰塁の際に右肩を痛め、この影響で8月下旬に登録抹消。9月27日に今岡誠と共に一軍昇格。規定打席にはわずか4打席及ばなかったが、打率.292、15本塁打、58打点の成績を残した。本塁打と打点は金本に次いでチーム2位だった。しかしその後も右肩の回復が思わしくなく、同年オフに故郷・台湾で開催されたアジア選手権大会の台湾代表を辞退。12月に手術を受けた。
林威助のプレースタイル
バリー・ボンズを参考にしたバッティングフォームが特徴。目標としている選手は、同じく台湾出身で阪神の先輩に当たる大豊泰昭である。
豪快な打撃が売りではあるが、比較して守備に対する評価はそれほど高くはない。代打起用が主であった2006年シーズンまでは、試合途中で起用され打席に立っても、次のイニングで外野の守りにつくことは滅多になく、代わりに中村豊など守備固めの外野手が入ることがほとんどであった。左翼手の金本知憲がフルイニング出場を続けているため、外野の守備位置が右翼(または赤星憲広が欠場する際の中堅)に事実上限られており、一塁手として出場することもある。
林威助の人物
私生活では、柳川高校時代に取材を通じて知り合ったTVQ九州放送アナウンサー吉松孝と親交が深い。林威助の歴史について、吉松は自身のブログ(吉松鷹志名義)やホームページなどで詳細に記述している。2006年5月台湾で発売された「壹周刊」254号には、林を特集する際、吉松の写真やコメントが掲載され、台湾でも注目を集めた。
座右の銘は「一球撃命」。勝負を決める一打を放つという意味。
現在では日本暮らしが長いので日本語も流暢であり、試合後のヒーローインタビューも日本語で受け答えする。デイリースポーツの携帯サイトでコラムを連載したこともある。逆に台湾国語(北京語)はやや忘れかけているらしく、2006年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の際は台湾チームのメンバーや現地記者との会話が一苦労だったという[2]。
林威助のエピソード
林が台湾出身であることを知らない他球団ファンなどには、日本人だと誤解されて「はやし いすけ」と読まれてしまうことがある。実際に、NHKの阿部渉アナウンサーやフジテレビアナウンサー渡辺和洋からは「はやし選手」と間違って呼ばれていた。
WBCの試合では、実況の日本テレビアナウンサー船越雅史に終始「リン・ウエンツ」と微妙に間違われていた。
「中国語ジャーナル」2007年8月号(アルク社)では林について特集が組まれ、表紙一面を飾った[3]。また、付録のCDには林へのインタビューが収録されており、普段はほとんど耳にする機会のない林の中国語(台湾國語)を聴くことができる。
ボールに力を加える技術が非常に巧く広沢コーチから絶賛されている。
林威助の台湾代表歴
2004年 アテネオリンピック出場
2006年 WBC出場
台湾の興農ブルズの4番打者である張泰山を抑えて4番に座った。アジアラウンドの日本戦ではタイガースの同僚藤川球児と対戦し最後の打者になってしまった。同年 ドーハアジア大会出場
6番左翼として出場。最終戦で日本を破り母国に金メダルをもたらした。林威助の年度別打撃成績
◇出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)『林威助』より取得日:2008-08-30
林威助の関連サイト
- 林威助
阪神タイガースによる公式プロフィール。 - 林威助 - Wikipedia
林威助の歴史について、吉松は自身のブログ(吉松鷹志名義)やホームページなどで詳細に記述している。 - 林威助 リン・ウェイツゥ ウェブサイト
プロフィール、画像等。 - Yahoo!プロ野球 - 阪神 - 林 威助 プロフィール・総合成績
プロ野球電報登場. 阪神ファン大感動. あの日本人メジャーリーガーの活躍は? 31 外野手 林 威助 (リン ウェイツゥ) プロフィール・総合成績. 条件別成績. 2008年8月21日11時2分更新. プロフィール. 生年月日. 1979年1月22日 - 阪神タイガース応援団 - ヒッティングマーチ委員会 - 林 威助選手
林 威助選手. それ行け今こそ 炎の一打を. ウェイツゥ ウェイツゥ 勝利を目指して 「リン ウェイツゥ リン ウェイツゥ」 ※歌詞を一部変更しました。 - Dr.KENの「こだわりのトラ」 | 林 威助
林 威助. 昨日、かなり久々に見た「すぽると」の企画で、「林 威助」の特集をやっていた。 - 林威助 プロ野球SNS
林威助のプロフィール、紹介文、日記、観戦記など。 - 阪神 林威助 PV‐ニコニコ動画(夏)
2007年06月30日 00:04:56 投稿. 阪神 林威助 PV. 初めて動画の編集をしてみました~ youtubeの動画を寄せ集めたので画質は悪いですが(汗 ご指摘などがあれば修正してみます 曲は林選手の入場曲:Have - リン弾!リン弾!林威助!(阪神タイガース)
"NO TIGERS, NO LIFE" 阪神タイガースと林威助(リン・ウェイツゥ)選手の応援ブログです - 阪神タイガース林威助応援ページ
ここは、熱烈なる林威助ファンのメンバーです。


















