桂歌丸

歌丸(かつら うたまる、1936年8月14日 - )は、落語家位階勲等は旭日小綬章。本名は椎名 巌(しいな いわお)。神奈川県横浜市南区真金町の出身で、現在も同地に在住(最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン阪東橋駅)。社団法人落語芸術協会現会長。横浜橋通商店街名誉顧問出囃子 大漁節 。当初は新作落語中心だったが、現在は、廃れてしまった落語の演目の発掘や、三遊亭圓朝作品など古典落語に重点を置き、活動をしている。

演芸番組 笑点 日本テレビ)の放送開始から大喜利のメンバーとして活躍、現在では同番組の5代目司会者を務める。

桂歌丸の人物

桂歌丸の落語家までの道

生家は置屋「富士楼」であり、間近で芸者達を見て育ったためか、女の化粧風景を描写した「化粧術」の珍芸を持つ。

浜っ子 であることを誇りにしており、そのためか、古典落語独特の江戸ことばは多用しない。美しい日本語で語ることをモットーとしている。

戦時中、母方の実家である千葉に疎開している最中に横浜の空襲で生家も焼失したが、戦後すぐに祖母はバラックを建て「富士楼」の経営を再開。貧しい時代にあっても食料に困ることもなく、当時高価だったラジオも持っていた。このラジオでよく聴いていた落語を、祖母や芸者の前で披露すると喜んでもらえることが落語家になるきっかけとなっている。(出典:2008年7月21日放送 NHK「わたしが子供だったころ」)

1951年に5代目古今亭今輔に入門。兄弟子で、後の師匠である米丸の初名であった「古今亭今児」を名乗る。その際、師匠・今輔から言われた事は「芝居を見ろ」。今輔によると歌舞伎を見る事は落語に活きるからだと言い、実際自ら演じる際はそのエピソードマクラとして登場させている。

今輔門下から兄弟子・4代目桂米丸門下へ移籍したのは、当時芸術協会で勃発した香盤(序列)問題や、今輔が新作派なのに対し古典落語を覚えようとした事に端を発している。この一件で今児は破門状態となり、一時ポーラ化粧品本舗セールスマンへ転職するが、三遊亭扇馬(現:3代目橘ノ圓)の肝煎りで落語界に復帰。しかし、師匠・今輔が付けた条件により兄弟子米丸門下となった(余談だが、米丸もまた 浜っ子 である)。

米丸一門の総領弟子ではあるが、芸風の違い(歌丸は今輔調といわれる)や米丸が新作一筋だったことから、米丸からは一つも噺を教わることは無かった。ただし、米丸に師事して間もなく放送番組のレギュラーを数本もっていた米丸に米坊は鞄持ちとして付き、放送局に出入りするようになる。

米丸に師事して古今亭今児から桂米坊に改名したが、もう「坊」という歳でも無かろうと言うことで1964年1月に現在の歌丸に再改名する。何れも名付け親は米丸であり、また名前の由来は本人にも明らかにされていない。従って歌丸は当代が初代であり、名跡ではない。

出囃子 大漁節 は趣味の釣りに由来する。また、近年問題になっているブラックバスなどの外来魚放流問題に対しては怒りを露わにしている。ただし、「こだわっているので詳しく演じようとしてかえって噺がくどくなってしまい、釣りを知らない人には皆目面白くないものになってしまう」という理由で釣りを扱った落語は演じたことがないという。

桂歌丸の頭髪に関するエピソード

30代から現在に至るまで容姿が殆んど変わっていない。30代前半頃には、既に現在の頭髪に近い状態になっていた。なお、落語芸術協会会長就任時に日刊スポーツから受けたインタビュー記事によると、30代で逝去した自身の父はもっと薄かったと懐述している。

司会就任後は、その頭髪の薄さにならい、同じく髪が薄くなってきている三遊亭小遊三(「小遊三さんもだいぶ歌丸師匠に近くなってきた」として)とともに、「ハゲカケ王子」と呼ばれるネタをされることがある。

桂歌丸の妻に関するエピソード

妻の名前は冨士子大喜利でもしばしば悪妻として登場し、定番の笑いのネタとなっている。

高座でも時折 女房殺害 ネタをしており、2006年の新春寄席では 後生鰻 という噺の結末「子供が川に放り込まれる」を鰻屋の女房(しかも冨士子という名前)が川に放り込まれる結末に変えていた。

ただし実際の夫人は私生活においても、健康面などで苦労の絶えなかった歌丸を支え続けてきた糟糠の妻であり、ほとんど世間に出ることはない。

笑点への登場も、平成元年に座布団10枚の商品となった、クィーンエリザベス2の夕べでクルージングしたときだけ。この時も後姿のみで顔は一切出さなかった。

冨士子夫人も、歌丸と同じく横浜真金町の出身であり、歌丸の生家の近くに在住していた。このため、師匠・5代目今輔から勧められた見合いを断って、かねてから顔見知りであった冨士子夫人と結婚したと後に語っている。

2007年11月23日に行われた歌丸の旭日小綬章と金婚式を祝う会では公の場に夫婦揃って登場した(桂歌丸、叙勲&金婚式を祝う会)。

冨士子夫人との結婚は21歳の時。娘も20歳で結婚したため42歳で孫が生まれた。これは芸能界では「最年少おじいちゃん」記録であるといわれている。

桂歌丸の笑点でのキャラクター・エピソード

前身番組の「金曜夜席」時代から番組に出演。「笑点」になった後も降板していた1969年4月6日?11月2日までを除き、出演を続けている。初代大喜利メンバーの中で2008年時点で出演を続けている唯一の人物である。

桂歌丸の大喜利メンバー時代

当初は喧嘩っ早いがらっ八役、他のメンバーや初代司会者7代目立川談志にまで喧嘩を売るキャラクターであった。そして、それに必ず応戦するのが若旦那役の4代目三遊亭小圓遊大喜利における罵倒合戦のそもそものルーツがこれである。

後年になると、政治を風刺した答えを織り込む事が多くなる。理由は定吉役の6代目三遊亭圓窓卒業後、風刺の効いた答えを言う人がいなくなった(後任の三笑亭夢之助が、お調子者キャラだった)ために徐々にそうなったという。

カラー高座着の登場後は一貫して黄緑色高座着を着用した(司会就任後も1年余り着用)。「穏やかな緑色が好きだから」という理由での選択だった。ライバル小圓遊の水色の高座着の着用も歌丸が黄緑色を着用したことを意識したからとも言われる。

小圓遊亡後三遊亭楽太郎とは罵倒合戦を繰り返していたが、だんだん自虐ネタが多くなった。

林家木久蔵(現:林家木久扇)が駄洒落ネタを繰り出そうとすると、答えを先に言ったり、木久蔵と一緒に答えを言ったりすることがあった。また、木久蔵がネタを披露した後で司会者に「席替えようよ」などと訴えるのも定番の対応となっていた。

ただし、実際には歌丸の左側に木久蔵、右側に楽太郎の席順が1985年7月から2005年11月に歌丸が司会代理となるまで20年間続いた。(この他、木久蔵とは大喜利メンバーの6人制が始まった1970年6月から9年間隣り合っていたこともある)

地方収録の時には「○○(地方収録を誘致した放送局の名前(例:長崎国際テレビ))さん開局○○周年おめでとうございます。開局100周年の時にも私がやってきてご挨拶申し上げます」(アドリブで「点滴を打ちながらでも…」という言葉が間に挟まることもあった)というのが挨拶の定番となっていた。

4代目司会者5代目三遊亭圓楽ヨイショする事もあった一方で、「若竹の借金」「居眠り・睡眠」「馬」などをネタに罵倒する事が多かった。

1973年(脱腸)と2001年(急性腹膜炎)に2度開腹手術を受けているがいずれも番組に穴を開けることはなかった。1973年は直後に神奈川県伊勢原市での公開録画があり、体調が優れない中で看護婦同行の上で収録をこなした(なお、この伊勢原での公録の模様を放送した「笑点」は40.5%の歴代最高視聴率をマークしている)。また、2001年の時は直後の収録で積み上げた座布団への上り下りが困難だということで歌丸は座布団の後ろに座り、その前に座布団を積み上げるという方式を取って収録に臨んでいる(この収録の時に後述の圓楽が誤って大喜利2問目で締めの挨拶をしてしまうというハプニングが起きている)。

桂歌丸の司会時代

大喜利冒頭では まずは○○なメンバーのご挨拶からどうぞ と皮肉を織り交ぜて紹介し、メンバーの挨拶の後に、 ○○な山田君どうぞ と、やはり皮肉をこめて紹介してから出題をする。これは、3代目司会者の三波伸介の手法を踏襲している。

地方収録の1週目の挨拶の時のメンバー紹介は、「東京を石もて追われた皆さん方のご挨拶からどうぞ」がお決まりとなっている(ただし、2008年7月の出雲市民会館での放送の場合は、歌丸の腰の療養からの復帰初回だったことから、2週目(2008年7月20日)に行っている)。山田の場合は、「呼ばれてもないのについてきた山田君のご挨拶からどうぞ」となる(これも、出雲の時は2週目になった)。

座布団の裁量についても三波ゆずりで、メンバーが歌丸を称えると2?3枚獲得することが出来る(但し楽太郎は本心でないので没収が基本)。しかしその反面座布団の剥奪は激しく歌丸罵倒や下ネタ、延々と歌を披露するには容赦無い。「ブラック団全員の座布団没収」「メンバーの座布団すべて没収」等が通例になっている。特にメンバーが座布団が7枚以上なれば、普通は1枚の没収で済むところが、2枚・3枚没収されるのが通例で、楽太郎などのブラック団は全部没収が恒例になっている。

お題に対する答えに落語のネタが引用されている場合、メンバーが延々と歌を歌った場合(特に木久扇好楽・たい平)必ず没収される。当然ながら便乗したメンバーも没収の対象になっている。

円楽司会時代と比較して座布団の剥奪が激しいことや、10枚リーチがかかっているメンバーから容赦なく歌丸が剥奪する等の歌丸のシビア座布団剥奪でm、楽太郎から「座布団10枚の賞金(または、賞品の予算)をくすねているのではないか?」と言われている。

メンバーを指名したり答えのフォローをする時、木久扇には「木久ちゃん」、楽太郎には「楽さん」と呼びかけることが多い(前任の圓楽も同様。なお、歌丸・圓楽ともにこん平のことは「こんちゃん」と呼んでいる)。他のメンバーでも指名する時に名前と異なる呼称(小遊三に「(落語芸術協会副会長」・「泥棒」・「本物(の犯罪者)」、たい平に「ちかの亭主」など)で呼びかけることがある。楽太郎が2006年頃に無精髭を生やしていた一時期は、「ひげの旦那」と呼んでいたこともあった。

2006年5月、腰部脊柱管狭窄症の手術のため、入院。司会就任に伴い今後の進行に差支えがない様に手術したとのこと。このときは「笑点」の司会が収録済みの時に行ったため、番組を休むことはなかった。

だが、2008年に入り症状が再度悪化再手術を行うことになったため、6月22日の放送の締めで、「翌週6月29日放送分より2・3回程度休演(実際は2週休演)し、復帰までは大喜利メンバーの誰かに司会を任せるが、誰が務めるかは当日までのお楽しみ。」と発言した。メンバーは事前に知らされていなかったのか、一様に驚いた表情であった。楽太郎は表情が強張り心配そうにしていたが、提供クレジット表示中に笑顔でバンザイをし、座布団全部没収されていた。

2007年8月26日、2問目で、林家たい平に対し「はい、こん平さ…こん平さんじゃない!」と、名前を間違えてしまい(さらに放送ではカットされていたがたい平の弟弟子の「いっ平さん」と言い間違えてもいたとたい平が後に述べている)、三遊亭楽太郎に「それじゃ圓楽師匠と同類じゃないですか」と言われた。なお、前任の圓楽も、これと似たような間違いをしたことがある(こちらは、たい平の名前を忘れて「誰だっけ?」と言ってしまった)。ちなみにたい平は「記録的な猛暑の中での収録のせいか、この日の歌丸師匠は自分だけでなく他のメンバーに対しても延々言い間違いを続けていた」とも証言している。

2007年9月9日の第2081回、福井市文化会館にて収録の回から、着物の色が従来の黄緑色から濃い緑のものに変わった。

林家木久扇ダジャレなどのネタや楽太郎の罵倒ネタ、講釈ネタに対し、座布団を没収する代わりに「無視して、○○さん」「(はい、)誰か他に、…○○さん」と言って他の人を指名することがある(これは前任の圓楽も同じ、楽太郎を気遣っているのだと思われる)。

問題を読み上げる際の語尾を、必ず「?して頂きたい」と云っている(時たま、「頂きたいのです」となることも)。

2008年2月10日の放送にて、誤って大喜利2問目終了時点で締めの挨拶をしてしまった。なお、やはり前任の圓楽もこの7年前に同じ間違いをし、この後、脳梗塞になった。当然ながら、「あれをね、うちの師匠がやった後ああなったんですよ」と楽太郎にネタにされていた。

後に、昇太のネタに対して、前の司会者が2問目で終わらせたと引き合いに出したところ、小遊三に「自分もじゃない」と突っ込まれ、1枚没収している。

小島よしおのことを、「あいつほど衣装に金掛けないやつはいない」と何度かネタにしている。

昇太(2008年7月6日)とたい平(同6月29日)が代理司会をした際、あまりの座布団大盤振る舞いだったためか、「ひどい司会だった」という理由で、復帰早々、挨拶の段階で2人の座布団全部没収している。

更に与太郎ネタを披露する木久扇歌丸侮辱ネタばかり披露する楽太郎歌丸復帰前には7枚?8枚と歌丸司会時代には考えられない枚数を獲得していたが、歌丸司会復帰後の容赦ない座布団剥奪で、楽太郎歌丸侮辱ネタを散々披露したために締めの段階で0枚・木久扇も何度も座布団2枚没収の羽目になり、結果番組終了の段階では3枚に終わってしまった。

桂歌丸の楽太郎(ブラック団)VS歌丸の罵倒合戦

大喜利では特に三遊亭楽太郎から頭髪ネタ(主に禿)、死去・葬式ネタで攻撃を受ける。基本的に座布団全部没収する場合が大半。最近はブラック団や三遊亭小遊三を巻き込んで歌丸罵倒ネタを披露するケースが多い。

歌丸が回答者時代は楽太郎歌丸罵倒ネタを言えば歌丸が楽太郎罵倒ネタ(師匠を尊敬していない・腹黒い・師匠に毒を盛っている・やな奴)で反撃するのが基本だった。しかし、歌丸が司会就任後代理司会含む)は、禿げネタ・権力者ネタは挨拶で、歌丸罵倒ネタは死亡ネタが多くなった。罵倒ネタも段々とエスカレートし、座布団剥奪が激しくなった。更に「やるかジジイ!!」・「権力の乱用」等レパートリーが増えた。

過去の歌丸罵倒ネタでの座布団剥奪累計トップ楽太郎だが、一度のネタでの没収枚数トップ春風亭昇太の12枚(楽太郎とたい平の分を与えたのを含め。これを除くと9枚となるが、それでも没収枚数トップである)。尚今まで楽太郎歌丸罵倒ネタで歌丸が一度に没収した枚数は7枚が最高(禿ネタによるもの。なお、死去ネタでの最高没収枚数は6枚)。

2006年8月13日の放送の3問目、童謡・「くつがなる」の替え歌を唄い、歌丸が「どうなったの?」と答えるのにさらに続けるという問題で、全員を巻き添えにして「おー手(てて)繋いで、お通夜に行けば」、「(歌丸)どうなったの?」、「遺体がしゃべった!」と楽太郎に言われ、それに呼応して全員が「おお!?」と同意したことに激怒し、全員の座布団全部没収したこともあった。これが、初の全員全部没収となった。

しばらく後の2007年4月8日熊本の回でも、たい平が全員を巻き込んで花火のネタをやり、2度目の全員全部没収となった(ただし、没収されたのは楽太郎を除くメンバー。楽太郎はこの答えの前に歌丸死亡ネタで座布団全部没収されている。)。

2006年12月24日放送の3問目、歌丸が扮するサンタの女房の「仕事行ったら!!」の問いに返答する問題で、昇太が「お前はあの世に行きなさいよ」(いわゆる、歌丸死去ネタ)と言ったことに対し、楽太郎がたい平の座布団も含めて昇太の座布団を12枚にさせた。しかし激怒した歌丸が許すはずがなく、12枚全て剥奪の結末だった。昇太は、これで初の座布団10枚獲得をつぶしてしまった。

2007年12月2日放送の3問目で、悲しい歌を何故か笑いながら唄うという問題で、小遊三が「髪の乱れに手をやれば」(美空ひばりの「みだれ髪」より)、「こりゃどうも失礼しました」と歌丸禿ネタ(すなわち、乱れる髪が歌丸にはないため)を放って、6枚すべて没収され、「うちの協会の副会長だと思って我慢していればいい気になりやがって、ざまあみろほんとにもう」といっていたが、翌12月9日放送の3問目で、貧乏神に扮したメンバーが歌丸に「あっち行け」といわれたのに返す問題で、昇太が「これは失礼しました死神様」と言い放ち、歌丸が「先週はうちの副会長小遊三さんに裏切られ、今週は役員の昇太に裏切られ」と、自らが会長を務める落語芸術協会構成員に恨み節を放っていた。

2008年1月6日放送の3問目、歌丸が扮するなかなか帰らない里帰りの娘の母親の「お前そろそろ帰ったら?」の問いに返答する問題で、昇太が「お前そろそろ死んだら?」と言ったことに対し、激怒した歌丸は「来週から昇太は、この番組からいなくなるかもしれません」と、昇太を番組から降ろす(もちろんこれは冗談)発言をし、大喜利を打ち切った。なお、この日は2問目のメンバーが宴会部長になって「パーッとやりましょう」と声をかけ、歌丸扮する上司が「そうするか」と言った後の言葉を続ける問題でも昇太が「会長、今夜は無礼講でパーッとやりましょう」と前置きした上で「会長、会長って威張るな、ハゲ!!!」と言い放って座布団全部没収されているのでその影響もあったものと思われる。

2008年5月4日放送で外国人に扮した楽太郎歌丸禿ネタ「ワタシカーニバル、お祭りが好きで、日本中のお祭りを見て歩いて、秋田のなまはげという祭りを非常に面白く思いました」と言って、オチを言う前に座布団7枚没収され、今までの6枚を更新した(座布団がなくなってから、「ノーヘア」(毛がない)とも聞こえなくもない、「ノーヒア」(聞こえない)を連呼していた)。なお、歌丸司会時代の山田罵倒ネタを含めると、一度の没収枚数歴代3位でもある。尚禿ネタでは座布団1枚?2枚剥奪が基本(ただし、前述の小遊三6枚没収はあるが)だったが、禿ネタで7枚没収された事で歌丸禿ネタの剥奪枚数を更新した。

2007年から楽太郎座布団がなく正座状態からスタートの際、どんなによい答えを言っても座布団を最後まで一切与えない事が何度かあった。

最近では、「横浜の市役所住民票から椎名巌の名前が消えましてねぇ」(すなわち、死去したことを意味する)等、本名(椎名巌)を利用した罵倒ネタ、死去ネタをされることもある(メンバーの中で最も本名を出されるのは、「天野幸夫」が最多。たい平との罵倒合戦が多いためか、主に出すのはブラック団である)。

余談だが、林家木久扇改名案を笑点の中で公募した際、メンバーの案として出された中で、楽太郎の案は「椎名巌」であった。理由は「メンバーの中であの世に行く順番が先だから」

両者が犬猿の仲のように思われがちだが、普段は楽太郎歌丸宅を訪れて落語の議論をしたり、落語会では特に二人会としての共演回数が多いなど仲が良い。

なお、この犬猿の仲の設定は、1980年急逝した小圓遊との間の設定を踏襲したものである(経緯参照)。

楽太郎やたい平の座布団が無いときに、取る楽しみが無くなるからと座布団1枚をやることがあったが、ここ最近は楽太郎座布団を与えずに床に正座させて、歌丸が「なんで楽さん座布団無いの?」・「座布団10枚獲得できるようにがんばってください、特に楽さん」と罵倒するケースが多くなった。

問題と関係なく最初の挨拶が気に入らないと楽太郎座布団をとった事がある。ちなみに挨拶で秩父音頭を歌ったたい平の座布団をとった事もある(歌丸曰く「私以前、歌は禁止と言いましたよね」)。

2008年6月1日放送の3問目では、花嫁扮するメンバーが父役の歌丸に挨拶するという問題で、たい平が、昇太とともに持っているブーケ楽太郎の顔を囲み、「楽太郎が棺に入ったみたい」と逆死去ネタを披露したため、たい平に2枚振る舞っている。

桂歌丸の海外公演に積極的に参加

海外での活動は、過去にカナダ・トロントでの公演などが行われている。2006年3月10日には、パリで海外公演を開催、日本語(フランス語の字幕付き)で「尻餅」を演じ、11月2日には、ニューヨーク海外公演を開催し、同じく日本語(英語の字幕付き)で「尻餅」を熱演。2007年5月にはメキシコ公演三遊亭楽太郎との二人会)、11月にはインド公演を行った。

桂歌丸の趣味

多趣味で知られ渓流やワカサギ釣りが趣味。他にも収集癖がありジッポ化石コレクターでもある。海外公演があると古物店巡りをする。

桂歌丸の経歴

1951年11月 5代目古今亭今輔に入門。兄弟子4代目桂米丸の前名・古今亭今児を名乗る。

1954年11月 二つ目昇進

1961年 兄弟子米丸門下に移籍。桂米坊に改名。

1964年 桂歌丸に改名。

1966年5月 日本テレビ 笑点 のメンバーとして出演(1969年4月から11月までを除く)。

1968年3月 真打昇進

1974年1月 横浜三吉演芸場での独演会を開始。この頃から演目を古典落語シフトする。

1979年8月 4代目三遊亭小圓遊と共に社団法人落語芸術協会理事就任。

1989年 横浜市政100周年にて市民功労賞、同年芸術祭賞受賞。

1991年 横浜文化賞受賞

1996年 神奈川文化賞受賞

1999年9月 5代目春風亭柳昇の後任で落語芸術協会副会長就任

2004年2月 10代目桂文治の後任で落語芸術協会5代目会長就任

2006年5月 5代目三遊亭圓楽の降板に伴い、 笑点 の5代目司会者就任。また、初の自伝「極上歌丸ばなし」をリリース

2007年4月 旭日小綬章受章。

桂歌丸の声優

落語天女おゆい(桂歌丸本人役。尚、妻・冨士子の声は講談師神田紅が担当)

がんばれゴエモン東海道中 大江戸天狗り返しの巻〜(講談風ナレーション

桂歌丸のテレビ出演

笑点(日本テレビ系列

桂歌丸のその他・単発出演

アップダウンクイズ(MBS-TBS系列、1982年12月26日)?年忘れ落語家特集

レディス4(テレビ東京)系列、2007年10月29日

爆笑オンエアバトルタカアンドトシの正月か!(NHK) VTR出演

桂歌丸の映画やドラマ等

爆笑野郎 大事件(1967年)東宝

落語野郎 大爆笑(1967年)東宝

トラック野郎 男一匹桃次郎(1977年)東映 尚、小圓遊も出演している。

フードファイトスペシャル ?深夜特急死闘編?(2001年9月29日放送)

半落ち

暴れん坊将軍VIIシリーズで、め組の子頭 卯之吉三遊亭楽太郎)の父・治助役として出演した。

桂歌丸のCM

au by KDDI 「簡単ケータイS」  公園トーク篇  (宇津井健と共演 2007年3月 - )

野村證券株券電子化篇林家木久蔵(現・林家木久扇)・三遊亭楽太郎と共演、2006年8月からは三遊亭好楽が加わった)

ネスレ・ジャパン ネスカフェ サンタマルタ オレ」「ネスカフェ 匠」(伊東美咲と共演。ナレーションも兼務。2005年?2006年)

TSUTAYATSUTAYA・Tポイントカード

日清食品「そばぎり」(三遊亭小圓遊と共演。1970年代後半頃)

日野・レンジャー (1980年代頃)

東京都「都民を守る安全対策」として、高齢者被害防止について「振り込め詐欺防止」編(警視庁版)、「悪質商法防止」編(生活文化局版)に出演(歌丸自身神奈川県民である)。

サントリー「缶ビール6缶ケース・笑点コラボレートTシャツ「福T」プレゼント」(歌丸司会時の笑点大喜利メンバーである小遊三・好楽・木久蔵(当時・現木久扇)・昇太・楽太郎・たい平・座布団運びの山田隆夫の8人で出演、2007年3月 - )

桂歌丸の著書

極上歌丸ばなし」(編者:山本進、発行元:うなぎ書房、2006年) ISBN 9784901174213

桂歌丸の一門弟子

桂歌春(※2代目桂枝太郎の死に伴い移籍)

桂歌助

桂歌若

桂歌蔵

桂花丸

◇出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)『桂歌丸』より
取得日:2008-08-16

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