桑田 佳祐(くわた けいすけ、1956年2月26日 - )は、神奈川県茅ヶ崎市出身の日本のロックミュージシャン、シンガーソングライター。
桑田佳祐の概要
サザンオールスターズのリーダーであり、ボーカル・ギターと作詞・作曲を担当。所属事務所はアミューズ、所属レコード会社はビクターエンタテインメントタイシタレーベル。嘉門 雄三(かもん ゆうぞう)、桑竹 居助(くわたけ いすけ)、夷撫 悶汰(いヴ もんた)、古賀 紅太(こが こうた)などの変名を用いたこともある。
鎌倉学園高等学校卒業、青山学院大学経営学部除籍。身長169.5cm。A型の右利き。通称は「すけちゃん」「ケイちゃん」「桑っちょ」など。妻は同じサザンのメンバーである原由子で、芸能界きってのおしどり夫婦として知られる。1982年に結婚し、これまでに2男をもうける。
桑田佳祐の人物
サザンオールスターズのリード・オフ・マンとして知られている。 いとしのエリー 、 真夏の果実 、 TSUNAMI などの名曲を数多く作り、歌う。作詞では愛、セックス、世相を風刺的に表現し、時にエロティックであり、時にユーモラス・ナンセンスであり、時に切なく泣かせ、時にシリアス。楽曲それぞれで様々なタイプの歌詞を書く。作曲に関しても日本屈指のメロディメーカーとして知られており、洋楽の音楽性を日本のロックミュージックに適用させた楽曲は非常に高く評価されている。楽曲もロック調の強いものからバラードに至るまで幅広く、コンピューターなどを使った最先端の技術も取り入れながら多様な楽曲を提供してきた。ソロでの音楽活動も精力的で、メジャーデビュー以来一貫して邦楽(J-POP)の第一線を走り続ける。音楽雑誌 ロッキング・オン からは、ポップスの神なる称号を授与されている。また、日本の数々のミュージシャンに影響を与えており、本人が「桑田さん(サザン)のファンです」「影響を受けています」など公言したミュージシャンも多数にわたる。
青山学院大学在学中よりバンド活動を盛んに行い、「温泉あんまももひきバンド」「脳卒中」「ピストン桑田とシリンダーズ」「青学ドミノス」など多くのバンドを結成しては潰しを繰り返し、最後に結成したサザンオールスターズが現在まで続く。「サザンオールスターズ」というバンド名は友人がつけたもの。
プロレスファンでアントニオ猪木を敬愛している。猪木とは幾度か共演も果たしている。ライブの煽りではスタン・ハンセンの決め台詞「ウィー!」や、猪木の決め台詞「1、2、3、ダー!」を叫ぶのが定番。2007年、「WONDA」(アサヒ飲料)のCMで(合成映像の)ジャイアント馬場と“共演”した際に馬場から“十六文キック”を浴びせられた。
サザンが実力派バンドとして認知されてからも、本人は一貫して下ネタ好きの三枚目なキャラクターを通しており、ある意味ミュージシャンらしくない気取らない性格がファンから愛されている。ライブでは客席に向けての「ヤらせろ!!」や、「乳首見せろ!」「パンツ脱げ!」などのセクハラ発言は恒例で、テレビ番組出演の際に放送禁止用語を言ってしまうこともある。 THE 夢人島 Fes.2006 ではWOWOWの生放送にも関わらず放送禁止用語を言ってしまった。他にもミュージックステーションのゲスト出演時に浜崎あゆみにセクハラしたりTVでも下ネタ好きである。この発言はアミューズの後輩に当たるポルノグラフィティの新藤晴一にも影響を与えており、2005年頃新藤はそのことを雑誌の中で公表している。
特に、自身のラジオ番組 TSUNEISHI GROUP SATURDAY NIGHT CRUISE 桑田佳祐のやさしい夜遊び (TOKYO FM製作)では毎週のごとく下ネタを連発している。(場合によっては放送禁止コードを超える事もある。)お題がセクシー路線の場合、リスナーからの投稿はほとんど、桑田が思わず放送禁止用語を言ってしまいそうなネタが多い。番組内の企画である 1.2のサザンクイズ では、選択肢に放送禁止用語やセクハラまがいの内容が入っているのが恒例。 なお、同じアミューズ所属の福山雅治と同じく、大のアダルトビデオ好きであり、夏目ナナや及川奈央の大ファンとラジオで公言している。2003年の桑田の誕生日で、福山から及川奈央の2枚組DVDをプレゼントで貰ったこともラジオで言っている。この - 夜遊び では、リスナーにおねだりして食品や写真集などを、TOKYO FM宛にお願いしたために、妻の原から「ラジオでおねだりするのはもうやめて」と言われたことがあった。ライブや音楽番組では、高い頻度で歌詞を間違える。ライブで歌詞や段取りをよく間違えることは本人も自覚しているらしく、「間違えた時はスタッフを睨みつけてスタッフのせいにする」と自らコメントしていたが、視聴者向けのネタなのか本音なのかは不明。
レコーディングなどではギターを担当することがほとんどだが、時にベース、ドラムス、キーボードなども演奏するマルチプレイヤーでもある。特に、ソロ名義の 素敵な未来を見て欲しい や MUSIC TIGER などは、桑田1人ですべての楽器が演奏されている。
ギタリストとしてクローズアップされることは比較的少ないが、ボトルネックによるスライドギターのプレイヤーとしても知られ、サザンのライブでも曲の間奏で、度々その姿を確認することができる。KUWATA BANDのライブでもギター演奏を披露した。しかし、本人によると「コードとかはよくわからない」という。
1980年代から1990年代前期まで、ライブや音楽番組などでは時にステージに寝転がったり飛び跳ねたりの不可解で激しい、過剰ともいえるパフォーマンスが特徴であった。MCや曲中の煽りなども、所謂「縦ノリ」の男臭いロックミュージシャンらしい姿が見られていたが、1993年から1995年あたりを境に、「おどけた中年オヤジ」としてのキャラクターを前面に出すようになり、ライブやラジオ番組でも下ネタやオヤジギャグを連発することも多くなった。近年は激しい動きは少なくなった反面、ギターのソロプレイを魅せる割合が多くなり、加齢と共に味わい深いギターを聴かせている。かつてはライブ終盤での客席への紙コップ(エスカレートした場合は消防用のホースでの放水)の水撒きも定番であった。これは2005年ミュージックステーション出演の際に「花火や火薬等は制限があるが、水は制限は無い。これ以上スケールの大きいものは水しかない考えられない」と桑田は語っている。
曲作りはほとんどが曲先である。デタラメ英語などの仮歌段階のまま、編曲までほぼすべてを終わらせたのち、仮歌の語感を崩さない言葉を選んで、そこから歌詞全体のテーマ・世界感を決める。そのため、日本語・英語ともに文法的には間違っている歌詞も多々あり、間違いを指摘されたり「意味が分からない」等と批判されることもある。これは文章の正確さよりも、語呂の良さ・符割などを優先させるが故の結果である。古文・方言・都々逸も用い、メロディに合う言葉がないのなら造語を自分で作ってしまうこともある。
また、英語と日本語とのダブル・ミーニングも取り入れている。楽曲は歌詞カードも含めての作品なので、歌詞カードもじっくり読んで欲しいとの思いも込められている。
作詞の際には、作品中やタイトルに人名を登場させることも多い。特定の人物を讃えた曲もあるが、名前のみを身近な人物または縁の人物の中などから、歌詞全体とメロディに合う語感として引用し、特定の人物は指していない場合が多い。前者は 吉田拓郎の唄 星空のビリー・ホリデイ Dear John 唐人物語 など。後者は いとしのエリー チャコの海岸物語 そんなヒロシに騙されて MARIKO シュラバ★ラ★バンバ 可愛いミーナ ほか多数の曲で使われている。
サザンとソロ、それぞれの活動を数年毎のローテーションで行い、どちらともセールス・ビジネス的にも成功を維持し続けることができる稀有なミュージシャンである。しかしながら、それゆえにサザンとソロとの活動の違いが分かりづらい場合も多い。この疑問に対して桑田は、サザンのメンバーやサザンとしての活動は家族・家庭であり、ソロ時のサポートメンバーおよびソロとしての活動は愛人と逢っているようなものと例え、サザンの楽曲やソロの楽曲はそれぞれの間で生まれた子供達だと表現をしている。また、プロレスラーの武藤敬司にも例え、サザンの時は素顔の武藤として戦い、ソロの時はペイントをしてグレート・ムタとして戦うとも表現している。
また、ソロ名義で出演するライブやフェスティバル、単独名義で行っている自身のラジオ番組のライブなどでは、サザン名義の楽曲も演奏されることがある。この点に関してファンからは「ソロのライブでサザンの曲を唄わないで欲しい」との意見もあったが、その意見に対して桑田は「ファンの気持ちも分かるんですけど、 唄ったっていいじゃん、どっちでもいいじゃん て思う時も実はあるんですよね」とインタビューで応えている。ソロ名義で行うワンマンライブやツアーでは、基本的にサザン名義の楽曲が歌われることは少ない。1986年のKUWATA BANDのときは、ライブでサザンの曲を封印していたが、1988年のサザン復活ライブでは、途中に桑田ソロコーナーを設け、「スキップ・ビート」も歌っていた。
桑田佳祐の音楽活動
バンド活動と並行したり休業しつつ、ソロ活動を行っているが、活動期によりテーマやコンセプトを大きく異なることで、サザンオールスターズとの活動とは特に一線を画している。
1986年のKUWATA BAND結成時には、桑田が「ロックを唄うのは英語しかない」と考えが行き着いた頃で、英語詞の洋楽テイストにこだわっていたこともある。その結果、KUWATA BAND唯一のスタジオアルバム NIPPON NO ROCK BAND は、日本語詞中心に構成されたシングル曲は一切収録せず、全曲新曲の全英語詞アルバムになった。しかし発売後しばらくは、自身も完成度に満足していない旨の発言が目立っていた。その後、考え方に変化が見られたのか、現在ではソロ名義のコンサートでKUWATA BANDの楽曲(シングル曲のみ)が演奏されることも多くなっている。
1987年 - 88年の第1期ソロ活動では、前年のKUWATA BANDの方向性とはうって変わって、ミュージックシーケンサープログラミングや打ち込み中心のポップス路線を展開した。小林武史との共同作業によって築かれたこの方向性は、後年のサザンでの活動にも影響を与えた。また、ダリル・ホール&ジョン・オーツとの共演も話題となった。
1993年 - 94年の第2期ソロ活動は、それまでの活動とはさらに異なり、期間中に母親が亡くなったことの影響による内省的な世界観や、辛辣な風刺を前面に押し出した歌詞は、サザンでの活動とはかけ離れた、ソロならではの方向性を打ち出した。サウンド面でも、小倉博和との共同作業による、楽器本来の音に着目したアコースティック(アンプラグド)・フォーク路線を展開した。
2001年 - 2002年の第3期ソロ活動は、前半と後半でさらに方向性が異なった。前半の2001年は、サザンとの差別化にはこだわらなくなった。この時はサザンでのメンバー脱退による移行があったため、もともとサザン名義で発表する予定だった楽曲を、ソロ名義で発売したものもある。また、逆にソロワークとして製作していた楽曲を、のちにサザンとしてカラーやアレンジを加えて発表した曲も生まれている(恋するレスポールなど)。後半の2002年は、斎藤誠らサポートメンバーで結成されたTHE BALDING COMPANYとの共同作業による、バンド形態の本格派ロック路線を展開した。ここでもサザンでの活動との差が色濃く出ている。CMタイアップとの関係で、思い切りポップ寄りな曲に挑戦した2001年に対し、2002年に発売された作品は、シングル・アルバムともに歴然とテーマの違いが出ている。2001年に発表された楽曲はアルバムに収録されることなく、ソロ活動の集大成として発表されたベストアルバムに収録された。
2007年の第4期ソロ活動は、楽曲的にはサザンとの差別化は特に図られていない。この4期目のソロ活動について桑田は、ラジオ番組や音楽雑誌インタビューなどの各メディアにおいて、 来年のサザン30周年に向けての足懸かりとしての期間 という旨のコメントをしている。なお、この時期のソロ活動でオリジナルアルバムは発表されていない。
2008年3月23日に、沖縄県・石垣島で行われた桑田の特別ライブ「Meet the Music 2008! 全国民放FM53局&KDDI present 桑田佳祐 アコースティックライブ in 石垣島」の模様が日本全国の民放FM53局(JFN系列38局、JFL系列5局、MegaNet系列4局および独立局6局)で同時生中継された。これは、全国の民放FMラジオ全局で構成する「全国FM連合」がKDDIの特別協賛によるキャンペーンの一環として、TOKYO FMが幹事局となって製作。系列の異なるFMラジオ局が、ネットワークの垣根を越えて1人のアーティストのライブ中継を放送するのは、史上初の試みである。
桑田佳祐の略歴
ここでは桑田佳祐のソロ活動に重点を置いて説明する。サザンオールスターズなどバンドとしての活動は各ページを参照のこと。
1956年
2月26日、神奈川県茅ヶ崎市に生まれる。
1977年
サザンオールスターズとして、アマチュアバンドのコンテスト「ヤマハEastWest'77」に出場。ベストボーカル賞を受賞。この時に決勝で対戦したのは、シャネルズの鈴木雅之だった。
1978年
6月25日、ビクター音楽産業よりサザンオールスターズとして 勝手にシンドバッド でメジャーデビュー。
1979年
「オールナイトニッポン」(ニッポン放送などNRN全国ネット)木曜1部を担当。
1980年
スペクトラムのギタリスト・西慎嗣のソロアルバム NISHI をプロデュース。
1981年
生理用品アンネナプキンのCMに出演。
タモリのシングル曲 狂い咲きフライデイ・ナイト を楽曲提供。
3月、渋谷eggmanにて、嘉門雄三の変名で 嘉門雄三&Victor Wheels としてライブを行い、洋楽のカバーを歌う。メンバーは桑田・関口和之・斎藤誠・国本佳宏・宮田茂男・今野多久郎。原由子も数曲参加した。
自身がプロデュースした原由子初のソロシングル I LOVE YOUはひとりごと が卑猥な歌詞のため、放送禁止曲に。ビクタービル屋上にて抗議のゲリラライブを行うが、警察が出動するなどの騒ぎとなる。
1982年
2月26日、原由子と入籍。28日には結婚披露宴も行う。会場にはファンを招待し、タモリ、ラッツ&スターなどの芸能人も出席した。
小林克也率いる「ザ・ナンバーワン・バンド」の1stアルバム もも にて曲を提供。また 六本木のベンちゃん ではボーカルも担当。
中村雅俊に 恋人も濡れる街角 を提供。
12月31日、NHK紅白歌合戦での三波春夫パフォーマンスが物議を醸す。 チャコの海岸物語 でサザンとして2度目の紅白出場を果たした際のものであり、当時の「紅白=厳粛な雰囲気」という等式を打ち破るきっかけとなった。この時の間奏での桑田の発言は以下のとおり。
「国民の皆様、ありがとうございます。私たち放送禁止もたくさんございますが、こうしていけしゃあしゃあとNHKに出演させて頂いております。とにかく、受信料は払いましょう!裏番組はビデオで見ましょう!!」
研ナオコが歌った「夏をあきらめて」で第24回日本レコード大賞作曲賞受賞。
1983年
親交ある明石家さんまが「オレたちひょうきん族」(フジテレビ系)で演ずるアミダばばあのために、 アミダばばあの唄 を提供する。レコーディングでは桑田と原がコーラスを担当した。レコード会社が異なったため、長年この事実は伏せられていたが、2008年さんまが「もういいやろ」と言って話してしまった。
高田みづえがカバーした そんなヒロシに騙されて が第25回日本レコード大賞・金賞を受賞。
1984年
「オールナイトニッポン」に復帰。火曜1部を担当する。
1985年
ラッツ&スターのメンバー全員の合同結婚式において媒酌人を務める。このときリーダー・鈴木雅之の父との会話が、後1996年のアルバム(サザン名義) Young Love に収録される 心を込めて花束を を生むきっかけとなる。
6月15日、佐野元春なども参加したイベントライブ ALL TOGETHER NOW に飛び入り出演。段取り無視のパフォーマンスに佐野元春はあっけに取られたが、怒ってはいなかったという。
10月、サザンのツアー KAMAKURA TO SENEGAL で共演したトゥレ・クンダへのお礼の為、アフリカ・セネガルへ渡りトゥレ一家の元を訪れる。この模様はドキュメンタリー番組としてテレビでも放映された。
1986年
原の産休に伴い、サザンは最初の休業期間に入り、各メンバーのソロ活動がはじまる。
4月、1年限定のソロプロジェクト「KUWATA BAND」結成、 BAN BAN BAN でデビュー。桑田は音楽番組やライブで度々「新人です!」と強調していた。
12月24日、クリスマス・イヴの夜の生放送番組「メリー・クリスマス・ショー」 (日本テレビ系)をプロデュース。同番組で松任谷由実との共作 Kissin' Christmas (クリスマスだからじゃない) を出演者一同で唄う。
1987年
10月6日、ソロデビューシングル 悲しい気持ち (JUST A MAN IN LOVE) 発売。以降、ソロでの活動が続く。
ダリル・ホール&ジョン・オーツと「SHE'S A BIG TEASER」(シングル いつか何処かで (I FEEL THE ECHO) 収録)・ REALOVE (ホール&オーツのアルバム Oh Yeah! 収録)を共同レコーディング。
12月24日、前年に続き「メリー・クリスマス・ショー」プロデュース・出演。
1988年
3月16日、2ndシングル いつか何処かで (I FEEL THE ECHO) 発売。
4月21日、河内淳一のアルバム One Heart に収録されている Day After と 恋に落ちた日 〜ANYDAY YOU LOVE ME〜 にコーラスで参加。
6月25日、 みんなのうた で、サザンでの活動を再開させる。
7月9日、1stソロアルバム Keisuke Kuwata 発売。
8月、RCサクセションの問題作アルバム COVERS に参加。この時には桑竹居助なる変名でクレジットされている。この名義は1984年にサザンのファンクラブ会報 代官山通信 の署名でも使用されていた。
10月、山下達郎のアルバム 僕の中の少年 収録の 蒼氓 に原由子と共にコーラスで参加。
10月14日、ダリル・ホール&ジョン・オーツの東京ドームでのライブに飛び入り出演。
12月31日、 Keisuke Kuwata で第30回日本レコード大賞・優秀アルバム賞を受賞。
1989年
映画監督に初挑戦。 稲村ジェーン クランク・イン。
1990年
4月、NHK-FMにてラジオ番組 ミュージック・スクエア スタート。火曜日のDJを担当。民放での番組とは違い、下ネタなどの過激な発言は無かったものの、リスナーからのの投稿ハガキを読む 日本四方山話のコーナー 句会のコーナー 、洋楽を1曲ピックアップし和訳を読み上げる 訳詞のコーナー 、テーマに添ってベスト3の楽曲を紹介する My Count Down などのコーナーが人気であった。また、1週おきにゲストミュージシャンを迎えてのトークも繰り広げた。この番組には、同じサザンの野沢秀行や渡辺美里・奥居香・高橋幸宏・杉真理・嘉門達夫・アン・ルイス・松尾和子、河内淳一といったミュージシャンのほか、プロレスラーの前田日明も出演した。毎年年始には原由子も出演。1993年4月で担当を終了。
7月、 稲村ジェーン クランク・アップ。映画公開までに、宣伝を兼ねて歌番組のほか、ワイドショー・ニュース・トーク番組などに積極的に出演。また、試写会を藤沢市の海岸で行い、桑田も会場に登場して 恋はお熱く を唄う。
9月7日、 稲村ジェーン 公開。
第32回日本レコード大賞のポップス・ロック部門において、ロック・ゴールド・ディスク賞、最優秀ロック・ボーカル賞、作曲賞を受賞。大賞にノミネートした「真夏の果実」は、最終選考で「おどるポンポコリン」との一騎打ちに敗れる。
1991年
3月24日 - 26日、新宿のライブハウス「日清パワーステーション」で、洋楽ロックのスタンダードナンバーをアンプラグドで演奏する アコースティック・レボリューション を行う。メンバーは小倉博和、小林武史、キース、など多彩な顔ぶれ。
6月、小林武史・小倉博和・今野多久郎と共にゲリラライブを兼ねて中国・北京へと渡り、天安門広場にてボブ・ディランの「風に吹かれて」、SUPER CHIMPANZEEのオリジナル曲「クリといつまでも」、北京の某ライブハウスにてビートルズの「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」などを演奏した。この模様は後に桑田が出演した筑紫哲也 NEWS23などで放送された。この旅行は翌年のサザンの北京ライブへと繋がる。
9月26日、SUPER CHIMPANZEE名義で クリといつまでも 発売。
10月2日、3月の アコースティック・レボリューション を収録したライブビデオ Acoustic Revolution Live at Nissin Power Station 1991.3.26 発売。
1992年
6月27日、企画アルバム フロム イエスタデイ 発売。KUWATA BAND時代のシングル4作が初CD化での収録となる。
1993年
10月6日、3rdシングル 真夜中のダンディー を発売。サザン活動中のソロ名義でのリリース。
12月1日、世界エイズデーであるこの日、多数のアーティストを集めた「AAA〜アクト・アゲインスト・エイズ」武道館公演を選曲・プロデュースし自らも出演。出演は泉谷しげる・大友康平・アン・ルイス・渡辺美里・福山雅治・原由子など、メリー・クリスマス・ショーにも匹敵する豪華な顔ぶれだった。バックバンドとして小林武史・小倉博和・根岸孝旨・小田原豊・今野多久郎が集い、昭和歌謡曲を中心に多彩なアレンジで参加者がリレー形式で唄った。また、桑田・奥田民生・宮田和弥(当時JUN SKY WALKER(S))・奥居香(当時プリンセス・プリンセス)をメインボーカルに、このライブのために作られたチャリティーソング 光の世界 が唄われた。この後、様々なアーティストが集う形式はAAAで恒例化していくが、桑田がプロデュースしたのはこの1度きりである。昭和歌謡を多彩なアレンジで唄う形は、後々の活動の原形となった。特にこのライブで初めて唄われた「ヨイトマケの唄」は、その後のソロライブや自身のテレビ番組などでも度々唄われることとなる。
1994年
サザン2度目の休業期間に入る。
8月24日、4thシングル 月 発売。CD店などの告知ポスターには「桑田佳祐、今年は一人で歌います」とのコピーの煽りがあった。後年香港で張学友によるカバー曲が発売され、大ヒット。
9月23日、2ndアルバム 孤独の太陽 発売。収録曲 すべての歌に懺悔しな!! が、矢沢永吉と長渕剛を揶揄しているとされ問題となり、桑田が「あれは自分を含めた芸能ロックミュージシャンを歌ったもの」と釈明し、2人に対して謝罪。矢沢は「まったく気にしてない。それより桑田君の方は大丈夫か?」と大人の対応をするが、長渕は views 誌上にて「俺は桑田佳祐を許さない!」などとコメント。ファン、マスコミを巻き込んでの一大論争に発展。翌年に、長渕が大麻の不法所持で逮捕されたことで、なし崩し的に沈静化する。詳しくはすべての歌に懺悔しな!!による論争を参照のこと。
9月 - 12月、初のソロ名義全国ツアー さのさのさ 開催。全国29都市35公演を敢行。サザンでは長らく行われていなかった、ホール・市民会館などの小規模の会場でのライブを行い、ファンを喜ばせる。ツアー期間中の10月28日には母校である青山学院大学において「帰って来た青山のダンディー」と題し、学園祭ライブも行う。この日は通常のセットリストに加え、原・関口とともに、母校の思い出を綴った Ya Ya (あの時代を忘れない) を唄う。
10月31日、5thシングル 祭りのあと 発売。
12月1日、AAA武道館公演に出演者の1グループとしてサザンが登場し、オリジナル曲5曲を演奏。ソロ活動中の同年において、久々にバンドとして、更に休養中の関口和之も復帰し、6人揃っての登場でファンを喜ばせた。また、桑田佳祐&Mr.Childrenとしても 奇跡の地球 を初披露。
12月21日、 さのさのさ ツアーを収録したライブビデオ すべての歌に懺悔しな!! -桑田佳祐 LIVE TOUR'94- 発売。ツアーが終了する前の発売であった。
12月31日、「月」で第36回日本レコード大賞・優秀賞を受賞、 孤独の太陽 でアルバム大賞受賞。ソロツアー「さのさのさ」最終日、横浜アリーナにおいて年越しカウントダウンライブ。
1995年
1月23日、共に編曲などで交流のあった小林武史との縁により、Mr.Childrenと桑田佳祐&Mr.Children名義で 奇跡の地球(ほし) をチャリティーシングルとしてリリース。前年AAAで披露されていただけに、ファン待望の作品化となった。
4月、「桑田佳祐のキヤノンFMワンダーランド 〜やさしい夜遊び〜」(現・TSUNEISHI GROUP SATURDAY NIGHT CRUISE 桑田佳祐のやさしい夜遊び、TOKYO FMなど
