森田一義

タモリ(本名:森田 一義 もりた かずよし、男性、1945年8月22日 - )は、福岡県福岡市南区出身のお笑いタレント・司会者。身長161cm。田辺エージェンシー所属。血液型O型。女優の伊佐山ひろ子とは遠戚。

森田一義の概要

地元福岡でいくつかの職を経て、山下洋輔と出会ったことなどをきっかけとして上京、30歳で芸能界入りする。テレビ・ラジオで「ハナモゲラ語」や「イグアナ」のモノマネといった独自の芸を披露する。ラジオにおける発言等から各方面からの反発も受けたが、1982年から 笑っていいとも! の司会に起用され、2008年現在に至るまで番組司会長寿記録を更新しており、ラジオ・CM等においても芸能活動を続けている。

1980年代後半以降、ビートたけし、明石家さんまと共に、日本のお笑い芸人BIG3の一人として数えられている。特に 笑っていいとも! の司会者として知られ、同じ司会者による最長寿テレビ番組としてギネスブックに登録されており、2008年現在においても記録を更新している。多芸、多趣味であるが、特定の師匠や修行経歴を持たず、素人芸を極めて一家を成した。作家の小林信彦は、この点でトニー谷に近いと評したことがある。弟子希望者が来ても「自分の芸は誰かに教えてもらったものではないので、人に教えようが無い」と断るという。

芸名である「タモリ」は、本名の「森田」の前後を入れ替えたもので、元々は学生時代の愛称である。通常「タモリさん」「タモさん」と言われ、和田アキ子、愛川欽也、おすぎとピーコといった親しい芸能人からは「タモちゃん」と呼ばれている。また、トリビアの泉で品評会会長に就任以降、高橋克実、八嶋智人、ビビる大木の3人からは「会長」と呼ばれている。

森田一義の趣味

タモリの趣味は多岐にわたる。ジャズをはじめとした音楽以外にも、鉄道、料理、坂道、BCLアマチュア無線、武道、オーディオ、ダム、船舶などに造詣が深い。「日本坂道学会」副会長、「日本変態協会(略してNHK)」会長、「おっぱい星人」などの肩書きも自称している。

音楽は主にジャズを好む。後述の早稲田大学文学部在学中における実績があるほか、植草甚一の死後、膨大なレコードコレクションの散逸を防ぐために、その全てを一括して引き取っている。自身も森田一義名義で早稲田大学応援歌「ザ・チャンス」の作詞を担当したり、トム・O・リーの名でトランペット演奏レコードを出すなどの音楽活動も行っている。マイルス・デイビスに雑誌のインタービュー企画で会い、終わった際にマイルスから「いいインタビューだった」と褒められ、トランペットサインをしてもらったことを非常に喜んで語っている。

鉄道ファンとしての分野は、線路そのものが連なるさまや分岐器の複雑な造形、またそれらを列車が通過する際の音を好む「線路マニア」であると称している(一部では 鉄道の事情通 とも言われる)。自身が司会を行う 森田一義アワー笑っていいとも! の楽屋にも、いつも時刻表と地図が置かれているという。自身が司会を担当する タモリ倶楽部 でしばしば鉄道関係の企画を行っている。ゲームソフト 電車でGO! の腕前は、自他共に認めるハイレベルである。また船舶にも造詣が深く、一級小型船舶操縦士免許を所有するほか、船舶が映る画面を凝視するシーンがしばしば目撃されている。

料理はプロ級の腕前であると評される。「テレフォンショッキング」でゲストが料理や食材の話をすると、美味しい食べ方や隠し味などを披露したりする光景が頻繁に見受けられる。共演したタレントを自宅に誘って食事会を開くことも多いが、タモリ自身キッチンにこもって料理に没頭するため、番組と違ってトークで盛り上がることは稀であるらしい。なお、当人は和食以外一切食べない和食党である。

坂道については、2000年には山野勝と「日本坂道学会」を結成し副会長を自称する。同会副会長として、休日には、好みの坂をまわり、坂道の写真を撮る。過去には「TOKYO1週間」誌上に TOKYO坂道美学デートNAVI入門 を連載し、2004年にはその活動が タモリTOKYO坂道美学入門 としてまとめられた。

「日本変態協会」(NHK)会長を名乗り、「創作は全て変態である」という 創作変態論 を唱えている。また、バストが大きい女性が好きであると公言し、「俺はオッパイ星人」と発言している。

アマチュア無線では、コールサインJA6CSH」を取得しており(現在は失効)、過去にラジオたんぱ(現:ラジオNIKKEI)でBCL番組を担当していた実績も持つ。

武道にも造詣が深く、高校時代に柳生新陰流居合二段を取得している。

また、芸能人仲間らの証言によれば、自宅では緑色のビキニブリーフ1枚になりイグアナの生態のまねをし、週末は沼津のマンションに泊まり、釣りを楽しんでいるという。(※いいとものトークで 釣りは好きではない とも公言している?)

森田一義の経歴

森田一義のデビュー以前

1945年8月22日、福岡県福岡市南区に生まれる。本名は「一義」だが生まれる前までは「義一」と名付けられる予定だった。これは祖父が尊敬している田中義一(陸軍軍人、昭和初期立憲政友会総裁として首相をつとめる)にあやかって名付けようとしたが、「畏れ多い」と名を逆にしたもの。後年タモリは「俺は姓名ともに逆さにされたからひねくれてんだよな」と語っている。なお、タモリは自分の父母兄弟らのことについては、まったくといっていいほど、語っていない。

幼少時代はおゆうぎが嫌だったために幼稚園入園を拒否し、小学校入学に至るまで、毎日、一日中坂道に立って人間観察を行っていた。このため坂道好きとなり、後に「日本坂道学会」を設立する遠因となっている。

中学時代から4年間、キリスト教会に通ったという。本人曰く「牧師を芸人のように見ていた。」とのこと。

高校時代には、ブラスバンド部でトランペット兼司会を担当。アマチュア無線クラブにも入っていて、船の無線通信士にもあこがれた。さらに居合道場にも通い、二段を取得した。

福岡市立高宮中学校、福岡県立筑紫丘高等学校高校を卒業後、1年間の浪人生活を送る。1965年に早稲田大学第二文学部(夜間部)へ入学。その後学費未納のため抹籍処分となる。福岡市立高宮中学校出身の芸能人としては他に森口博子、氷川きよし、博多華丸・大吉がいる。

大学浪人中はしばしば押入に潜り込み、韓国や中国からのラジオ放送を長時間聴いていた。これが藤村有弘以来と言われた「インチキ外国語芸」へとつながった。また、座禅を組んでトリップ状態を経験したこともある。

早稲田大学在学中はモダン・ジャズ研究会に在籍し、トランペットを演奏。「マイルス・デイヴィスラッパは泣いているだろ、だが、お前のラッパは笑っている」などの批評を受け、主にマネージャー・MCを担当することになった。このことは、後の話芸の基礎ともなった。早稲田大学を去った理由は、2年次の5月の連休、友人2人と旅行を計画し、学費用に仕送りされた資金を旅行用に一旦充てたが返済されず、自分の授業料が払えなくなったためである。学費未納のため抹籍という処分となった。ただし、モダン・ジャズ研究会マネージャー役は続行し、かなりの収入を得ていた。

早稲田大学では吉永小百合と在学時期が重なっており、学生食堂で吉永と遭遇した際、彼女が食事を済ませ立ち去った後に食べ残した食パンの端を見つけ、食べたい衝動に駆られ理性と欲望の狭間で暫し様子を窺ったが、勇気が無くて結局諦めたという。現在に至るまでサユリストを貫いている。

1968年に帰郷後、保険外交員・喫茶店従業員・ボウリング場支配人等の職を転々とする。保険外交員(朝日生命)時代は営業成績トップクラスであり、表彰されたこともある。この時期に同僚の女性と結婚した。また、喫茶店の雇われマスターだった頃は、ウィンナ・コーヒーを注文すると、ウィンナーソーセージが入ったコーヒーを出すなど、地元では奇妙なマスターとして有名であった。

芸能界入りのきっかけとなるジャズ・ピアニスト山下洋輔との出会いは、1972年、タモリが大分県日田市のボウリング場支配人だったときに始まる。当時の山下はライブホテル乱痴気騒ぎをすることを常としており、渡辺貞夫ツアーメンバーの1人として福岡を訪れた際も同様であった。サックス奏者(資料によってはドラムス奏者とする場合もあるがこれは間違い)の中村誠一が部屋にあったゴミ箱を頭にかぶり、メンバーで虚無僧ごっこをして遊んでいた。タモリ渡辺貞夫マネージャーと学生時代の友人同士であったために同じホテルで飲んでいたところ、廊下まで響くその騒ぎを聞きつけ、部屋へと乱入し、ゴミ箱を取り上げて自ら踊り始めた。中村はその非礼をインチキ朝鮮語でなじったところ、タモリがそれより上手なインチキ中国語で返答したために双方が意気投合したという。「この男はジャズ・ファンに違いない」と確信した山下らジャズメンは、博多のジャズバーに片っ端から問い合わせた結果、とあるジャズバーで発見された。その後、新宿ゴールデン街のバー「ジャックの豆の木」の常連(奥成達高信太郎長谷邦夫山下洋輔森山威男坂田明三上寛長谷川法世南伸坊ら)で結成された「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」のカンパによって、1975年6月に上京を果たす。開かれた独演会では「四ケ国語麻雀」や、「中国で作られたターザン映画に出演した大河内伝次郎宇宙飛行士宇宙船の中で空気洩れに苦しんでいる様子」などのリクエストを含めた即興芸を披露し、筒井康隆山下洋輔ら臨席した全員を感動させる。また、タモリの芸は奥成達から「密室芸」と命名された。臨席したうちのひとりである漫画家の赤塚不二夫は、「この男を博多に帰してはいけない」と引き留め、自らの家に居候させた。また、のちにプロデューサー的にタモリを売り出し、しばしば一緒に仕事をした高平哲郎にも、しばらくして「ジャックの豆の木」で芸を見せ、意気投合している。また作家の阿佐田哲也は、タモリと赤塚不二夫が裸で抱き合っているバカ騒ぎの場面に出くわし、その様子を自分の小説の中で描写した。

バーでの一件の直後、赤塚不二夫自身が出演する生放送にそのまま連れて行って同様のパフォーマンスを演じさせたところ、黒柳徹子からその夜のうちに照会があったそうで、彼女の感性の鋭さに感心したと赤塚不二夫がコメントしている。

タモリ居候生活は、住居は家賃17万円で4LDKマンションであり、車はベンツが乗り放題、赤塚からは月に20万円の小遣いが渡されるというものだった。赤塚本人は下落合の仕事場のロッカーを倒し、布団を敷いて寝ていた。赤塚以外ではこんな関係は成り立たなかっただろうとタモリも認め、大恩人だと語っている。ちなみに赤塚は自書の漫画で、「これだけ一緒に暮らしているんだから愛し合うことも出来るんじゃないか」と、2人で同性愛に挑戦して抱き合ったが、全く興奮せず、何もなかったと描いており、タモリも同様の趣旨の発言をしている。

森田一義の芸能界入り

30才で芸能界入りする。東京12チャンネル(現:テレビ東京)の深夜番組 空飛モンティ・パイソン でデビュー。その後、日本テレビ棚次隆プロデューサーの目に留まり、 金曜10時!うわさのチャンネル!! (日本テレビ系列)でレギュラーの座を獲得し、 オールナイトニッポン で人気を不動のものとする。

「戦後最大の素人芸人」を自称していたデビュー当時は常にアイパッチを使用していた。お笑いタレントでありながら愛想笑いやヨイショ芸をせず、どこかインテリ風で何を考えているか分からないという革命的な芸風だった。サブカルチャー好きの若年層には好評を博すが、中高年層には強い印象を与えつつも「薄気味が悪い」と不評だった。「密室芸人」という評も与えられていた。

当時の芸は「中洲産業大学芸術学部西洋音楽理論教授」や「タモリ教授」、「森田一義助教授」といった架空の肩書きをしばしば名乗り、「ハナモゲラ語」、「イグアナモノマネ」、「4カ国親善麻雀」などを披露するというものだった。当時はあまりモノマネの対象とされていなかった朝鮮語ベトナム語も取り上げている。特に評価の高いモノマネに「寺山修司」がある。これはしゃべり方や身振りの模写のみならず、話す内容自体タモリ自身が考えたものでありながら「いかにも寺山修司が語りそうな物言い」をするという点で画期的であり、それ以前の政治家モノマネや歌手の歌真似を中心とする「声帯模写」芸とは題材やアイデアの面で一線を画し、後の「モノマネ」に多大な影響を与えた。こうした芸は「思想模写」と称され、レパートリーとして「野坂昭如」や「竹村健一」などがあった。

1976年10月から1983年9月までラジオ番組 タモリオールナイトニッポン (水曜1部)に出演し、当時人気だったオフコースや、フォーク歌手のさだまさし、名古屋及び名古屋人、作家の五木寛之などに対しての批評を行い、ファンとの対立を起こした。オフコースについては「軟弱なフォーク、根暗なヤツが聞く音楽」、さだまさしは「女々しい、わざとらしい、歌よりトークが長い」、そして名古屋と名古屋人は「東京と大阪に挟まれ独特のコンプレックスがある、田舎なのに都会ぶる、人間がずうずうしい、エビフライをごちそうだと思っている、名古屋弁は響きが汚い」、五木寛之は「文化人づらをして、自分が書いた作品に出演する女優をくどいてばかりいる」等とそれぞれに対して評した。名古屋出身者からも猛反発を受けたが、逆に名古屋認知度上昇に貢献したとの意見もあり、肯定的に見る向きもある。その他、特産物観光地が少ない埼玉県をダ埼玉と発言したり、 笑っていいとも! では明石家さんまと共に佐賀県をこき下ろす発言を繰り返した。

また、番組内で「根暗」という言葉を発明。ただし、タモリは「こう見えて、オレは根が暗いから」等と「表面的に明るいが、根は暗い人」という意味で使用していた。だが、世間的には「根っから暗い人」という意味で、「ネアカ」「ネクラ」と対比されて、悪口として流行した。

ラジオ番組以外においても、 ザ・ベストテン に臨時司会者として出演したことがあり、この際に当時アイドルであった田原俊彦をネタにしたことでファンからの抗議が殺到した。ただし ザ・ベストテン の司会者の1人であった黒柳徹子とは親交が深く、長寿トーク番組 徹子部屋 では、年末にタモリゲスト出演し、黒柳に新作モノマネを披露するのが恒例になっている。

こうした活動のほか、1977年には赤塚不二夫、滝大作、高平哲郎らと「面白グループ」を結成する。週3回以上の宴会を催し、その成果を何らかの方法で発表することを目的にした団体である。坂田明内藤陳小松政夫、団しん也、たこ八郎、三上寛、研ナオコ柄本明、所ジョージ、大ブレイク前のアルフィーや、劇団東京ヴォードヴィルショーのメンバーも参加。一時はビートたけしも参加していた(ただし、たけしは、タモリの芸風を嫌って、すぐに脱退した)。1979年には ケンタッキー・フライド・ムービー の日本版として作られた、山本晋也監督コメディ映画 下落合焼とりムービー に所ジョージアルフィーらと共に出演した。同1979年、渋谷公開堂で「第一回いいたけ祭り」という、タモリや赤塚の「宴会芸」を見せるイベントを行う。また、面白グループ名義で、当時ヒットしていた女子大生二人が執筆した書籍 ANO・ANOアノアノ) のパロディ本、 SONO・SONOソノソノ) を刊行。ベストセラーになった。

森田一義の 笑っていいとも! 以降

1982年からフジテレビ系列の平日お昼の生放送バラエティ番組 森田一義アワー 笑っていいとも! (以後 いいとも と略)の総合司会者に就任。この番組で人あしらいのうまさと知性を買われるようになる。以降は各種バラエティー番組の司会者としての活動が主となる。1980年代初頭までの個人芸をテレビ番組で見る機会は少なくなるが、 タモリ倶楽部 でその点を補っているとする向きもある。

いいとも におけるタモリ起用理由については、プロデューサー横澤彪が「夜の顔だったタモリをあえて昼にもってきて意表をついた」と語っている。そのため当初は視聴者にとって違和感のある人選だったが、番組はヒット。1986年に4周年を迎え放送1000回を、1990年に8周年を迎え放送2000回を、1994年に12周年を迎え放送3000回を、1998年に16周年を迎え放送4000回を、2002年に20周年を迎え放送5000回を、2006年には24周年を迎え放送6000回を達成した。

いいとも 出演以降は、眼帯の着用をやめ、主にレイバンサングラスを使用している。これが2008年現在に至るまでタモリトレードマークになっている。 いいとも 以前は片眼に眼帯をしていることが多かったが、昼の帯番組ではイメージが良くないという配慮から変更されたらしい。このサングラスは、昼番組夜番組を併せて1983年、1990年、1991年、1996年、2001年、2002年の6回変わっている。 いいとも 開始当初から1996年までは「昼の番組で真っ黒なサングラスはどうか?」ということもあって、目元がほぼ見える薄茶色サングラスを着用していた。いいとも以外の番組では黒色のサングラスを着用しており、1996年から2007年現在の いいとも を含む全番組出演時は黒色に統一されているが、同型でレンズカラーの違うスペアサングラスを所持しているようだ。また現在着用しているサングラスは俳優の内藤剛志からのプレゼントである。

ラジオにおける活動は、 いいとも 出演以降も行われている。 オールナイトニッポン パーソナリティを務めた過去から、ナイターオフシーズンにはニッポン放送にレギュラー番組を持つ。2005年に起きたライブドアによる一連のニッポン放送に関する騒動に対し、「仮にニッポン放送がライブドアに買収された場合は、ニッポン放送への出演を取りやめる」と所属事務所を通じて公言していたが、この事件が解決したことで、同年秋からはブリタモリ大百科事典に出演した。

その他、1983年12月31日にはデビュー8年目にして 第34回NHK紅白歌合戦 紅白総合司会を務める。2006年現在に至るまで、現役・元アナウンサー以外の紅白総合司会者はタモリのみである。1986年には、タモリの半生を描いた 歌と笑いの41年 戦後タモリ史 という番組が放送された。また、 いいとも のフリートークで「疲れてるときにユンケル栄養ドリンク)はいいよね」と発言したところ、ユンケルを発売している佐藤製薬からユンケルを大量に贈られ、これをきっかけにユンケルテレビCMにも出演するようになり、「ユンケルンバガンバルンバ!」のCMコピーは当時流行語になった。

いいともではよく、ゲストと話す際、「んなーこたーない」(そんなことはない)と言うことがあるため、コージーなどによくネタにされる。

笑福亭鶴瓶はかつて、タモリに「なんで人の笑いを邪魔するのか」と尋ねたことがある。これに対し、「お前やさんまは笑いを取りに行こうとする。それが当たり前になると帯番組はマンネリになる。だから一番山のところで叩く。そうすれば何かを考えるだろう。それがマンネリ解消になる」と答えた。鶴瓶はその予定調和を嫌う態度こそがタモリトップに君臨する理由と見抜き、「テレビの師匠」として仰いでいると語った。(週刊文春2007年8月30日号)

2008年8月2日、タモリコメディアンとしての才能を見抜き、地元・福岡から上京させて、自宅マンションに居候までさせた赤塚不二夫が亡くなったため、死去の2日後に事務所を通じて追悼のコメントを発表し、「物心両面の援助は肉親以上のものでした」と赤塚の死を悼み、感謝の言葉も載せた。また、同年8月6日の赤塚の通夜、及び8月7日の葬儀・告別式に参列し、告別式では「私もあなたの数多くの作品の一つです。」との弔辞を読み上げた。この弔辞は7分56秒にも及ぶものであり、手にしていた紙を何度も見ながら読んでいたが、実際には紙は白紙だったと一部報道されたが真偽は不明である。。

森田一義の事件・事故

1990年某日、ヨットの柱に額をぶつけた。この事故でタモリは髪型を7:3分けから、現在のオールバックへ変えた。

2000年5月6日、東京・目黒区で人身事故を起こした。タモリの車が左折した際、右から直進してきたオートバイと接触、オートバイは弾みで別の車にも接触した。運転していた男性と同乗女性が足に軽い打撲。タモリに怪我は無かった。

2001年11月4日関東近郊のゴルフ場でプレイ中、ボールサングラスのつるに当たり、左こめかみ付近を負傷。都内の病院に検査入院。1995年の小型船舶免許取得時以来、6年ぶりの番組欠勤となった。 いいとも は当時の各曜日レギュラー陣が代役を務め、「ミュージックステーション」ではタモリとともに司会を務めているテレビ朝日アナウンサー武内絵美(2000年4月 - 2004年3月まで担当)とゲストで歌手のKinKi Kidsが司会を務めた。

このほか、バイクでの事故経験もある。乗っていたバイクが竿立ち状態になりコントロールできず、無関係の家の垣根を通り抜けて庭に突っ込み、食事中の一家から「どなたですか?」と言われた、とトークで語っている。

森田一義の いいとも におけるタモリ

いいとも 開始後間もなく、「たけし(ビートたけし)は大包茎オシッコが真っ直ぐ飛ばない」と発言した。そのすぐ後の放送日に、「タモリさんさぁ、俺のこと包茎とか言ってたって?そりゃマズいだろ!」と、ビートたけしが番組に乱入した。当時レギュラーだった田中康夫に対しては「お前のことは前から気にいらねえんだよ!」と首を絞めて押し倒すなど、番組内で暴れた後に退散した。この件は、それまでタモリビートたけしの共演がほとんどなかったこともあり、 いいとも に興味を示さなかった視聴者層や芸能マスコミにも広く話題を呼んだ。この件について、ビートたけしは後に「あれはプロデューサーの横澤さんに頼まれたこと」と、ヤラセであることを暴露した。元来ビートたけしはタモリより先に いいとも の司会を頼まれたが辞退した経緯があり、開始当初人気が安定しなかった いいとも へのテコ入れとして、タモリと不仲説のあったたけしを番組に乱入させたらしい。ちなみにビートたけしは自分が包茎であることを オールナイトニッポン などでは何度もネタにしていたが、タモリ オールナイトニッポン に自分の歌を宣伝するために出演した折、番組に参加していた女性達に自分の局部を露出し、それを見た女性達に笑われた挙げ句タモリにも見せると「すごい包茎」と散々に突っ込まれていた。

出演者等の条件によって、タモリが必ず行う恒例の行事がいくつかある。間寛平が出演すると、お互いに猿の真似をしながらスタジオ中を駆け回る。テレホンショッキングユースケサンタマリアから花が届くと「カタカナの人」と言う。また、毎年フジテレビ系列で放送しているFNSの日の「笑っていいとも!増刊号生スペシャル」では自身が昨夜から総合司会を続けてきたかのごとく、「毎年この時間が一番眠いんだよ」とタモリが発言し、他の出演者にツッコまれることも恒例となっている。

2003年6月27日のミュージックステーションテレビ朝日系)で、t.A.T.u が番組を途中放棄するという事件が起きる。その後約1年間にわたり、「いいとも!」出演者からt.A.T.uの話が出るたびに「タトゥーの話はするな!」と怒っていた。今でもごく稀にタモリ自らジョークの種にすることがある。(この事件に関してはナインティナインも激怒していた)

2004年7月25日にフジテレビの27時間テレビの中で行われた 笑っていいとも!増刊号生スペシャル テレフォンショッキングコーナーでは自分の番組にゲスト・森田一義として登場した。この時、司会は27時間テレビ総合司会を務めていたナインティナイン岡村隆史が行った。同じく総合司会だった矢部浩之中居正広は観客席にいた。

森田一義の人物にまつわる諸事

座右の銘は「適当」「現状維持」「やる気のある者は去れ」など

1980年代初頭においては、タモリビートたけしの間に不仲説が存在した。タモリは「俺とたけしは仲が悪いと思っている人もいるみたいだけど、実は仲がいいんだよ」、たけしも「タモリさんの奥さんと俺の女房は仲がいい」などと発言したことがある。ただし、たけしは「タモリさんの奥さんが物凄く大きなダイヤの指輪をしていて、俺の女房の目に刺さりそうだった」と続けて笑いを取る場合が多かった。

音楽番組の司会を長く務めているため、玉置宏芳村真理黒柳徹子と並び、日本の歌謡曲歌手の事を良く知る芸能人、とする意見がある。

よく言う冗談は「俺はジャニーズシニア」「俺は ZOO KAZU(カズ)の名前で所属していた」など。特に後者に関しては、ZOO解散前の最後のテレビ出演 MUSIC STATION となったため、タモリも曲中のダンスに参加しスタジオを沸かせたという逸話を持つ。また、EXILE新メンバー募集の際にはMステにて自らKAZUの加入を推奨していた。

横澤彪によればタモリは30歳を超えて芸人に転向したこともあり驕り高ぶった所も見せず、「俺たち芸人なんか世間でまじめで働いてる人から見れば詐欺師稼業みたいなもんだ」というのが持論だという。

普段は温厚であるが、かつて森脇健児が焼肉の網に肉を隙間なく並べたことに激怒した、と数回発言したことがある。しかしいずれも、本当に心から激怒していたとは思えない口調であり、とかく温厚なのだろうという見方もある。

今の携帯はナインティナイン岡村隆史プレゼントされたものであり、それまでタモリは携帯電話を持っていなかった。

雑誌などの取材やインタビューはあまり受けないが、過去に「週刊朝日」の取材に答えた事がある。そのとき「いいとも」の長寿の秘訣について、「番組についての反省を一切しないこと」と答えている。そのため、「いいとも」では反省会を行っていない。

俳優業にも一時期チャレンジしたが、今はやっていない。ナインティナイン岡村隆史が、ジャングルTVでタモリ主演ビデオカセットを見せたとき、「止めてくれ」と言った。どうやら、俳優業は自分に不向きだと思っているようである。最近ドラマに出たのは1991年の 世にも奇妙な物語 エキストラ出演以来だか、他には2004年の X'smap?虎とライオンと五人の男? にデビュー当時のサングラスを外し、眼帯をつけた姿で一瞬だけ出演し、更に2007年の 和田アキ子殺人事件 に本人役で出演、映画版 HERO にて悪徳政治家を演じた。

公式サイト・田辺エージェンシーの所属タレントではタモリのみ写真が掲載されていない。

佐藤製薬ユンケル黄帝液シリーズに新発売当時からCMキャラクターとして起用されていたが降板後は同社の歯槽膿漏治療薬アセスのCMキャラクターとして起用されている。

当初自分の独特の芸風が壊されるという理由で師匠につかず事務所に入らずの方針で活動していたが田邊昭知が芸風は自由にやらせるという条件付で自ら直々に口説き落としたという。

ダウンタウンがいいともに初出演した際、ダウンタウンがいいとものコーナーにケチをつけまくったため、「うるさいなぁ…」とタモリが小声で言うと、浜田が「司会者が うるさい って!かなわんなぁ」と言い返したため、「本当にうるさいなあ!!」と怒鳴った。

コメディアンが自ら泣く、あるいは人を泣かせることに批判的なことで知られる。ある年の27時間テレビの終盤で、メイン司会であった笑福亭鶴瓶が出演者総勢を前に語りかけて涙ながらに感動させたことがあったが、後に「なんで泣くの?」とたしなめたという。

森田一義の出演

森田一義のテレビ番組

レギュラー

森田一義アワー 笑っていいとも!(フジテレビ

笑っていいとも!増刊号フジテレビ

タモリジャポニカロゴスフジテレビ

ミュージックステーションテレビ朝日

タモリ倶楽部テレビ朝日

単発

笑っていいとも!春・秋の祭典スペシャルフジテレビ

笑っていいとも!特大号フジテレビ

上記番組では本名の森田一義名義。

MUSIC STATION SUPERLIVEテレビ朝日ミュージックステーションの年末特番)

世にも奇妙な物語(フジテレビストーリーテラー)- 毎年、春と秋に放送。

徹子の部屋(テレビ朝日、毎年の年末最後のゲストとして必ず登場する)

森田一義の過去

森田一義のNHK

ばらえてい テレビファソラシド

驚異の小宇宙・人体

ドラマ人間模様「詐欺師

ウォッチング

森田一義の日本テレビ系

金曜10時!うわさのチャンネル!!

スター誕生!

今夜は最高!

月曜スター劇場 なぜか、ドラキュラ

ドラマ 今夜は営業中 劇中劇ならぬ劇中バラエティゾーンがある)

24時間テレビ 「愛は地球を救う」(1978年 - 1984年)

ピンクレディー 汗と涙の大晦日150分!! 紅白歌合戦をぶっとばせ! ビキニフィーバー(1978年12月31日)

木曜スペシャル・タモリのいたずら大全集

タモリ&さんまの爆笑タッグマッチ(1987年 - 1992年頃)

木曜スペシャル・タモリのNG大全集

木曜スペシャル・タモリの世界そっくり決定戦

講演大王!(第1回ゲスト出演

投稿!特ホウ王国スペシャル(1994年秋のスペシャルに審査委員長として出演)

欽ちゃんの仮装大賞(第2回・第3回は審査員、第80回は80回記念のお祝いメッセージVTR出演

森田一義のTBS系

サンデーお笑い