横浜FC(よこはまえふしー、Yokohama F.C.)は、日本の神奈川県横浜市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。ファンの間ではフリエとも呼ばれている。
横浜FCのクラブの概要・歴史
2001年Jリーグ加盟。ホームタウンは神奈川県横浜市、ホームスタジアムは三ツ沢公園球技場。日産スタジアムでも試合を開催する。財政事情により専用の練習場が確保できなかったため港北区のしんよこフットボールパークなど市内各地を巡回して練習していた(?2006年シーズン)が、2007年からは嘗て横浜フリューゲルスが使用していた戸塚区の戸塚トレーニングセンターの使用をいわば「再開」し、里帰りを果たすことになった。なお、戸塚トレーニングセンターはネーミングライツにより「横浜FC LEOCトレーニングセンター」と改称された。
1998年、出資会社の撤退に伴い横浜フリューゲルスが消滅(形式上は横浜マリノスに吸収合併)することになり、これに反対するサポーターに選手も加わってクラブ存続を求める署名と募金を実施。しかし合併取り消しは実現せず、天皇杯での優勝を最後にフリューゲルスは消滅することとなった。
合併の手続き終了後、サポーターは「フリューゲルス」という名称の譲渡を申し入れたが、この名称を使用するチームが必要との回答もあったため、出資企業の経営に左右されない市民クラブの設立と翌年1999年からのJリーグ2部(J2)への参加実現にむけ動き出した。
しかし、フリューゲルスを継承するチームとはいえども、サポーターが立ち上げただけのフリューゲルスとは全く違う新設チームであるため、実績のないクラブのJ2参加は困難としてこれは認められなかった(神奈川県の場合は新規参入チームは3部リーグからスタートするのが決まりで、1年ごとにステップアップしても、J2参加には最速でも7年かかる)。代わりに、超法規的措置としてJ2の下部に位置する日本フットボールリーグへの「準会員」資格での参加が認められた。一時期、「Y.S.C.C.(現・横浜スポーツ&カルチャークラブ)と統合しないか?」という案が出たが、この案は白紙となった。1999年は、リトバルスキー監督のもと日本フットボールリーグ1位。2000年には日本フットボールリーグ「正会員」となり、同年同リーグで無敗の1位。2001年シーズンからJ2に昇格した。この経過が、後に日本サッカー協会が飛び級制度の新設に踏み切るきっかけともなった。2002年から女優・藤原紀香が運営するインターネットサイト「Norika.net」がスポンサーに加わった。
2005年6月、学校・病院給食や企業の社内食堂を展開するレオックジャパンの関連会社・フィートエンターテイメント社が横浜FCの第3者割り当て増資を引き受けて事実上のオーナーに就任することになった。「現在の地域密着型チーム運営の形態を維持する」とフィート社は示している。
なお、運営法人の横浜フリエ・スポーツクラブの「フリエ(fulie)」は横浜フリューゲルスの頃から使われてきた単語である。とくにオフィシャルショップ「フリエ元町」(既に閉店)はグッズ販売のみならず、フリューゲルスサポーターの憩いの場という機能も有していた。なお、横浜フリューゲルスは傍系(別チーム扱い)であるため、フリューゲルス時代の記録(創設年、優勝回数、個人賞受賞回数)はカウントされない。
横浜FCのチーム名変更問題
チーム名に愛称は設けず単に横浜FCとしている(J加盟クラブで愛称なしの事例はFC東京に次ぐ2クラブ目)が、いずれはフリューゲルスを名乗ると思われた。しかし奥寺康彦社長がフリューゲルスの名称を継承する事を否定した為、フリューゲルス襲名希望のサポーターグループが解散した経緯がある。
その後、2005年10月に行われたサポートミーティングでは、サポーター側から現行のチーム名で継続してほしいとの提案が出された。これには、フリューゲルスサポーターが立ち上げたチームであるもののフリューゲルスと横浜FCは全くチーム体質が違うことや、フリューゲルスの版権(商標権)が横浜F・マリノスにあること(Fはフリューゲルスを指している)等が挙げられている。
名称返還に関しての直接的な要求の声は激減したが、それはフロント側が名称問題を積極的に無視し続けたためであり、潜在的な要望は未だ根強く残っていると思われる。
横浜FCのソシオ・フリエスタ
横浜FCは企業の資本に頼らない純市民参加型のサッカー・スポーツクラブ作りを目指すという観点で、クラブ運営の核となる任意組織「ソシオ・フリエスタ」を設立した。モデルはスペイン1部リーグ(リーガ・エスパニョーラ)の強豪であるFCバルセロナとされている。同クラブも一般市民から集めた会費を基としてサッカークラブを中心とした様々なスポーツクラブ活動を展開してきた。
横浜FCも創設当初は市民から会員(ソシオ)を募集した。会員は会費をクラブに納める見返りとして、希望者への年間指定席の斡旋の他、試合会場や各種イベントでの運営アシスタント(ボランティア)への登録やクラブ上層部との意見交換会などに出席できる権利を得ることが出来た。この試みは日本の新しいスポーツクラブ運営のモデルとしてマスコミなどからも注目されていた。
しかし、J2昇格が確定した2001年年頭ごろから問題が表面化した。ソシオの役員改選選挙が実施されている最中、ソシオの会員宛に突如、運営会社・株式会社横浜フリエスポーツクラブ(横浜フリエSC)から「協約書」が送付された。その内容は「ソシオ会員は全員運営会社と直接契約を結ぶことを求める」もので、「本協約書にご賛同いただけず退会を希望される方には、ご返金いたします」という性急な内容だった。
ソシオとの協議で、運営会社は「ソシオの会費は当初から運営会社の運営費として捻出されることになっていたが、理事会の承認なしに運営費を拠出できないのは責任ある球団経営が見込めないと判断した」と主張し、これまでのソシオとの協定書を破棄することを宣言した。
結局、運営会社側はソシオに代る新しいチームの後援組織「横浜FCクラブメンバー」を2001年9月に発表。新社長に就任した奥寺保有の株式をソシオ会員ではなく、クラブメンバーに割り当てること、また会員には「サッカーをする・ふれるといった体験型のイベントを充実させる」ことや「個人情報の管理・責任をより徹底・明確にする」ことなどを提案。名称についてもソシオの名前が係争中だったことから別の名前に変更したという。これにはソシオ理事会側が遺憾の意を示す。
その後ソシオ側は運営会社に対し、ソシオの会費の一部(740万円相当)と会員名簿の返還を求めるよう横浜地方裁判所に仮処分申請を行ったが、2002年1月それは却下された。ソシオ側は東京高等裁判所に即時抗告を行ったが、これもあくる2003年に却下された。その趣旨は「入会事務・会員名簿の作成は運営会社から委託された業者が行い、団体として内部的にも自立して運営されているとは認めがたいから、ソシオは(法人格を有しない団体でも例外的に当事者能力が認められる)民事保全法7条・民事訴訟法29条の 法人でない社団 とは認められない。よって、当事者能力がないから、申立ては不適法である」というものだった。
その間、運営会社が「ソシオの名称は運営会社側に商標登録がある。このまま使用を続けるのなら法的な処置も辞さない」とソシオ側に通告を行い、2003年、ソシオ側はその名称を「ソシオ・フリエスタ」から「ソシオ横浜」に変更した。運営会社側の主要スタッフの交代も追い風となって、同年9月、ソシオ横浜と運営会社・株式会社横浜フリエスポーツクラブは和解合意書に調印し、2年以上に及んだ運営会社側とソシオ側の対立はこうして区切りを迎えた。なお、ソシオ横浜は合意書を踏まえて、ソシオ横浜として「横浜FCクラブメンバーのグループメンバー」にも加入している(2008年現在)。
横浜FCのホームゲームの開催スタジアムに関して
横浜FCの1999年シーズンの公式戦の会場
横浜FCは三ツ沢(球)をホームスタジアムとしているが、1999年は前述したように超法規的処置として特別に日本フットボールリーグへの参入が認められたことや、三ツ沢(球技場、陸上競技場とも)も、他の大会の使用スケジュールもほぼ確定していたこともあり、実際に三ツ沢(球)で試合を行えたのは3試合だけ。他のホーム9試合は神奈川県内各地のグラウンドを転戦していった(横浜市では、その他に横浜国際で2試合、保土ヶ谷で1試合の計6試合。他に綾瀬、海老名、平塚の各市と愛川町で開いた。なおこの年は3回戦総当りのため、対戦カードによって同一カードのホームゲームが2試合行われることもあった)。
横浜FCの2001年以後
J2に昇格して以後、主として毎年8-9月を中心とした一部ホームゲームは関東近郊(特に東京都の江戸川区陸上競技場、江東区夢の島陸上競技場)で試合を行うことがある。これは三ツ沢(球)の芝生の養成が必要なためである。また2002年は三ツ沢(球)がワールドカップ日韓大会出場国の練習会場に使われ、やはり芝生の養成・生育が必要となったことから、主として4-9月の主催ゲームの多くは隣接する三ツ沢(陸)を会場として行った。また関東地方以外にも2003年に福島県営あづま陸上競技場でホームゲームを開催したことがある。ただし、この競技場のピッチの面積がJリーグ公式戦の基準より狭いことが判明したため開催はこの一度限りである。 なお2006年には国立霞ヶ丘陸上競技場でも2試合主催した。2007年も、同競技場で2試合主催した。
横浜FCの2007年に関して
J1リーグ戦の横浜市内主催開催15試合は三ツ沢(球)で9試合、日産スタジアムで6試合(他前述の国立2試合)行われ、ナビスコ杯は3試合とも三ツ沢(球)で行われた。
ただし、本来の本拠・三ツ沢(球)は10月27日の大宮アルディージャ戦が同年度最終試合となり、その後はホームの試合に三ツ沢(球)は使用されない。
4月14日、日産スタジアムでJ1昇格後最初のホームゲームとなる鹿島アントラーズ戦が行われたが、その時に、スタジアムの定員7万人をいっぱいに埋め尽くそうという「7万人プロジェクト」と呼ばれる企画を行った。選手らが練習場最寄駅である東戸塚駅前でビラ配りを行ったり、カズがテレビ出演するなどして盛り上げに努めたが、クラブ最多観客動員記録(当時)は更新するも、観客は19,367人と目標には遠く及ばなかった。
6月30日に日産スタジアムで行われた「TOMAS Special MATCH」と銘打たれたジェフ千葉戦では43,117人を動員し、最多観客動員記録を大幅に更新した。
12月1日最終節の浦和レッズ戦では千葉戦を上回る46,697人を動員し、クラブの最多観客動員記録をさらに更新した。ただし、この日は浦和のリーグ制覇がかかっていた試合でもあり、この日の観客の多くは浦和サポーターであり、横浜FCサポーターはホーム側ゴール裏とメインスタンドの一部しか占められなかった。
観客動員が5,000人を下回る事もしばしばあり、中でも5月26日の大分トリニータ戦は週末の土曜日で晴天という絶好の状況だったにも関わらず観客動員は4,935人にとどまるなど、フロントの集客方針には首を傾げるサポーターも少なくない。さらに、チーム成績も振るわず降格も決定したため、来シーズン以降のサポーター離れなども危惧されている。
横浜FCの2008年
リーグ戦21試合中、19試合を新装成ったニッパツ三ツ沢球技場で開催。他会場での主催は日産スタジアムは1試合と国立競技場が1試合だけとなった。
横浜FCの新聞の略称表記
横浜FCが日本フットボールリーグに在籍した2年間は「横浜FC」としてそのまま表示していたが、2001年にJ2入りが決まると「横浜C」として表記している。但し、朝日新聞、日刊スポーツでは略さずに「横浜FC」と表記している。
3文字に略されるのは、totoにおいてチーム名が3文字以内で略記されることに由来する。横浜FCと横浜F・マリノスは「横浜」の次の文字がともに「F」であるため、その次の文字により横浜FCは「横浜C」、横浜F・マリノスは「横浜M」と区別して表記されることとなっている。また「横浜F」の表記ではフリューゲルスと混同される恐れがあること、フリューゲルスの名称の商標権者がマリノスであることなどを踏まえて略号を「C」にしたものとも考えられる。
横浜FCのオフィシャルテーマソング
THE ALFEE Wings of Freedom (1999年5月23日リリース)
作詞:高見沢俊彦 作曲:高見沢俊彦 編曲:THE ALFEE
THE ALFEEはJリーグ創生期に横浜フリューゲルスのオフィシャルソング Victory を提供していた。その関係もありフリューゲルスの合併消滅には心を痛め、横浜FC誕生の折にも楽曲提供を行い、テーマソングの売り上げは全てチーム運営費へという形で支援している。
横浜FCのチーム成績・歴代監督
| 年度 | 所属 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 得点 | 失点 | 得失点差 | 順位 | 監督 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1999年 | JFL | 24 | 55 | 18 | 3 | 3 | 57 | 32 | +25 | 優勝 | ピエール・リトバルスキー |
| 2000年 | 22 | 61 | 20 | 0 | 2 | 66 | 24 | +42 | 優勝 | ||
| 2001年 | J2 | 44 | 43 | 15 | 28 | 1 | 58 | 81 | -23 | 9位 | 永井良和/阪倉裕二/信藤健仁 |
| 2002年 | 44 | 35 | 8 | 25 | 11 | 43 | 81 | -38 | 12位 | 信藤健仁 | |
| 2003年 | 44 | 42 | 10 | 22 | 12 | 49 | 88 | -39 | 11位 | ピエール・リトバルスキー | |
| 2004年 | 44 | 52 | 10 | 12 | 22 | 42 | 50 | -8 | 8位 | ||
| 2005年 | 44 | 45 | 10 | 19 | 15 | 48 | 64 | -16 | 11位 | 足達勇輔 | |
| 2006年 | 48 | 93 | 26 | 7 | 15 | 61 | 32 | +29 | 優勝 | 足達勇輔/高木琢也 | |
| 2007年 | J1 | 34 | 16 | 4 | 26 | 4 | 19 | 66 | -47 | 18位 | 高木琢也/ジュリオ・レアル |
| 2008年 | J2 | 42 | - | 位 | 都並敏史 |
横浜FCの1999年
新クラブの結成に動いてから半年足らずでJFLで戦うためのチームを作る難事業に直面したが、2月に準会員としてのJFL参加が仮承認され、奥寺康彦GM、リトバルスキー監督、阪倉裕二コーチ、そして選手には外国人選手パベル・ジェハークを含む元Jリーガー22人との契約が可能となった。クラブ初の公式戦となった4月25日のJFL第2節、横浜国際競技場に公式発表で1万1283人が集まったジャトコ戦では2-2の引き分けに終わったが(初ゴールは遠藤昌浩が記録)、その後は順調に白星を重ね(5月3日の第3節、三ツ沢球技場での水戸ホーリーホック戦で初勝利)、新JFLの初代優勝チームとなった。また、第79回天皇杯では横浜F・マリノスのユースチームを下して神奈川県代表となり、3回戦でヴェルディ川崎に惜敗したが、パベルの2ゴールや川崎市等々力陸上競技場に駆けつけた多くのサポーターの存在などで、Jリーグのクラブに引けを取らない実力や人気を持つ事を示した。
横浜FCの2000年
横浜FCはJFL正会員となり、Jリーグ準会員として承認された。ソシオ制度を巡る内紛、責任企業不在による資金難などクラブ運営は迷走を始めたが、ライバルの本田技研から水原大樹や田島宏晃を加えたチームは首位を独走した。10月8日のJFL後期第7節、国士舘大学戦に勝利し(5-3)、Jリーグ昇格条件の2位以内を確定した。続く10月22日のJFL後期第8節では静岡産業大学にも勝利して2年連続優勝を決めた。これにより、横浜FCは翌年からのJリーグ参加が正式承認された。しかし、独自のチームとして歩み始め「フリューゲルス」名称の譲渡を横浜F・マリノスに求めないとした横浜FCから離れる元フリューゲルスサポーターも現れ、横浜FCの観客動員数は減少した。
横浜FCの2001年
J2に参入した横浜FCは、バイエル・レバークーゼンのコーチに就任したリトバルスキーに代わって、前年までアルビレックス新潟を率いた永井良和を新監督に据えた。目立った補強はなくチーム自体の変動は少なかった。昇格チームとしては善戦したもののJ1昇格争いには遠く、シーズン途中で永井は辞任し、阪倉コーチの監督代行を経て信藤健仁がシーズン終盤の指揮を執ったが、12チーム中9位に終わった。なお、この年には川崎フロンターレと公式戦で7試合戦い、全て敗れている。
横浜FCの2002年
前年終盤から指揮を執る信藤は補強に着手し、期限付き移籍で獲得した迫井深也や吉本岳史、経験豊富な廣長優志などを起用した。この年はJリーグ史上で最も攻撃面に人数を割いた "2-4-4" (2-4-3-1)、DFが2人でゴール前を守り、通常の4-4-2ならば両サイドの守備を固めるサイドバックがより前に位置して積極的に攻撃するというシステムだった。スペインのリーガ・エスパニョーラの攻撃性を愛好する信藤がこだわる戦術だったが、スペースを与えられた相手のサイド攻撃を誘発する結果を招き、勝ち点・失点数共に初のリーグ最下位となり、信藤はシーズン終了とともに退団した。なお、この年の終盤にはフリューゲルスで活躍していたアルゼンチン人DFのモネールが入団し、再び人気となった。
横浜FCの2003年
キャッチフレーズ:「ガムシャラ?原点を思い出せ。迷うな、負けるな、強くあれ!?」
横浜FCはチーム初代監督のリトバルスキーを再び招聘。後藤や有馬が引退し、廣長が移籍したため、新戦力として城彰二、ルディ、マシューなどの大型補強を行った。しかし、チームはなかなか波に乗れず、シーズン途中には当時引退してコーチを務めていた後藤義一が急きょ現役復帰するなど混乱した。最終成績は年間3勝のみのサガン鳥栖を上回っただけの11位(12チーム中)と低迷。3失点以上の試合が13もあるなど、年間88失点を喫した守備陣に課題を残したシーズンであった。
横浜FCの2004年
キャッチフレーズ:「PLAYER'S POWER?勝利をつかめ?YOKOHAMA FC SPIRITS」
新たにジェフェルソン、トゥイード、中島崇典などを迎え入れ、城をキャプテンにすえて前年度に続きリトバルスキー体制で臨んだ。開幕戦でベガルタ仙台に4-0で圧勝するなどスタートダッシュに成功、第17節まで川崎フロンターレ戦の1敗しか負けがなく、4勝12分1敗とし上位につけた。しかし非常に引き分けが多く、「負けないが勝てない」という状況に陥る。第18節に2敗目を喫するとそこから4連敗し、その後持ち直すが後半も引き分けの多さは変わらず、シーズン44試合の半数にあたる22試合引き分けというJ新記録を打ち立てた。J2昇格後最高順位の8位(12チーム中)となったが、負け試合を引き分けに持ち込んだかと思うと勝ち試合をあっさり追いつかれてしまうなど、強かったのか評価しづらい結果となり、勝つためにあと一歩が足りないシーズンであった。
横浜FCの2005年
キャッチフレーズ:「MAKE PROGRESS」
JAPANサッカーカレッジ監督などを務め、選手の育成に定評のあった足達勇輔を新たに監督に招聘。2004年度の勝ちきれない引き分け癖の克服と選手の更なるレベルアップが期待された。一方、選手補強は新人を中心に獲得し、ベテラン選手として佐藤一樹、貞富信宏などを加えたチームは前年とほぼ変わらない戦力という評価が与えられていた。開幕戦を落とすものの、その後2勝2分と善戦する。しかし、そこから15試合勝ち星無しという泥沼状態に陥る。レオック社の増資引き受けによる事実上のオーナー交代の時期とも重なり、財政的な不安がなくなったフロントは方針を転換し、各チームで世代交代の影響を受けていた三浦知良(カズ)、山口素弘、望月重良など経験豊富な元日本代表選手達を新たに獲得し、チームの強化を図った。特に山口の入団は、既に以前より少なくなっていたとはいえ、横浜FCを応援する元フリューゲルスサポーター、そして山口本人にとって、他の選手やクラブへの移籍とは少し違った意味を持っていた。
しかし、彼らの加入によりJ1昇格を命題とするような雰囲気が生まれ、足達監督招聘当初の目的である「チームの底上げ」よりも「勝つチーム」が優先され、結果的に若手選手のチャンスの目を摘むことになった。チームの方針の転換はチグハグな選手起用にも影響が見られ、移籍効果も一時的に終わり、結局11位(12チーム中)で終了。サポーターからはクラブ目標の「早期のJ1昇格」への道筋が見えないという批判を受けた。
横浜FCの2006年
キャッチフレーズ:「夢に蹴りをつける。」
昨年度の結果から足達の去就が注目されたが、フロントは続投を決定。悲願のJ1昇格を果たすべく、長きにわたりクラブのシンボル的存在だった小野信義を解雇するなど、シーズン前に大量の選手の入れ替えを断行。新戦力としては室井市衛、渡辺光輝、鄭容臺、吉野智行、アウグストなど即戦力を多く獲得した。
しかし開幕戦でJFLから昇格した愛媛FCに0-1で敗れると、フロントは早々と足達の解任を決めた。フロントは昨年度の不振とキャンプからのチーム作りの遅れなどを理由としたが、Jリーグ史上最速の監督解任に対してゴール裏に集うサポーターの多くは怒りを示し、ホーム開幕戦となった第2節のサガン鳥栖戦で横断幕掲示やコール斉唱などの応援行動をボイコットする抗議活動を行った。
同年にコーチとして横浜FCに入団し、Jリーグで初指揮となったこの鳥栖戦を1-1で引き分けた高木琢也新監督は守備の意識の改革に着手。そして、アウグストが次第にフィットしたこともありチームは快進撃を始めた。以後、6月2日の第19節水戸戦に0-1で敗れるまで、新監督就任以来15戦負けなし、連続無失点時間770分の2つのJリーグ新記録を作った。
その後も堅守をベースにした横浜FCの快進撃は止まらず、前年までJ1にいた柏レイソルやヴィッセル神戸との昇格争いを続けた。第43節には(開幕直後を除いては)クラブ史上初めての首位に立つと、天王山と目された11月18日の第48節ではアウェーの直接対決で神戸から首位を奪い、最低でもJ1との入れ替え戦出場となる3位以内を確定した。
11月26日の第51節、横浜FCはアウェーの鳥栖スタジアムで鳥栖に勝利した。福岡空港にバス移動する最中に柏と神戸が共に勝利を逃した結果が入り、横浜FCのJ2初優勝とJ1昇格内定が決定した。12月2日の第52節(最終節)は愛媛FCに2-0で勝利し、有終の美を飾った。この試合は既に現役引退を表明していた城にとって最後の公式戦となり、1アシストを記録した。J2全日程終了後の12月4日、Jリーグ理事会の承認を得てJ1昇格が正式に決定した。
横浜FCの2006年基本布陣
4-4-2 の布陣が敷かれた。敵陣に向かい左側の選手から列記する。
FW : 城、カズ(アレモン)
MF前列 : アウグスト、内田
MF後列 : 山口、鄭容臺
DF : 中島、早川、小村、小野
GK : 菅野
横浜FCの2007年
キャッチフレーズ:「勝つために、ここに来た。」
初のJ1での戦いに向け、フロントは再び大幅な選手の入れ替えを行った。長年横浜FCを支えた北村知隆や吉武剛など11人が抜けた一方で、新たに11人の選手を獲得。昨シーズン横浜FCの総得点61点のうち30得点を挙げた城とアレモンの2人が抜けた攻撃陣を補強するため、横浜F・マリノスから元日本代表MF奥大介、東京ヴェルディ1969からシウバら即戦力を中心に獲得。更には横浜Fマリノスとの交渉が物別れに終わった久保竜彦の獲得に成功し、高木は広島時代からその実力をよく知る久保中心のチーム作りを明言した。
J1開幕戦での浦和レッズ戦では1-2と惜敗したが、久保が40mのロングシュートを決めて大きな話題となり、続く第2節では横浜F・マリノスとの「横浜ダービー」では1-0でJ1初勝利を挙げ、キャッチフレーズを実現させた。しかし、第3節に川崎フロンターレに0-6で大敗した後は、久保や奥らが怪我で戦列を離れ、外国人選手がチーム戦術にフィットしないなど、チームは低迷を続けた。怪我人の穴埋めのため平本一樹、山田卓也などを獲得するが、前半戦は最下位で折り返した。
中断期間中にさらに選手を補強し、巻き返しを図りたい後半戦だったが、再開初戦の横浜F・マリノス戦で1-8で敗れ、これが引き金となり、高木は後日解任(一方で三浦淳宏の獲得に関して高木とフロントとの確執が表面化したという事情もあった)。新監督にはジュリオ・レアルが就任したが、リーグ戦で1勝2分9敗という成績しかあげられず、チームの立て直しはできなかった。
10月20日の第29節において、同じ昇格組のヴィッセル神戸に3-0で敗れ、J1史上最速でJ2降格が決定した。残り5試合を残した状態での降格であり、これは2002年に残り4試合で降格が決定したコンサドーレ札幌の記録を更新した。この他、643分間連続無得点や20試合連続未勝利という不名誉な記録も樹立してしまう。だが、最終戦で首位であった浦和を1-0で破り、目の前での優勝を阻止した。
横浜FCの2008年
キャッチフレーズ:「夢のJ1は終わった。リアルなJ1への挑戦が始まる。」
任期満了に伴いジュリオ・レアルとは契約を更新せず、新監督に都並敏史が就任。J2降格の影響は大きく、生え抜きの菅野孝憲・内田智也などがJ1の各クラブへ移籍し、山口や奥が引退するなど21人がクラブを去り、土台からの作り直しを余儀なくされた。一方、カズは残留し、J2での史上最年長選手記録や同得点記録を更新した。
補強策として2006年に水戸ホーリーホックで16得点を挙げたアンデルソン、同じく水戸で前年まで主将としてチームを牽引し、横浜FCには6シーズンぶりの在籍となったDF吉本岳史、2007年の
